ほとんど家から出ずに黙々と一人で生活していると、さまざまな雑念が頭に浮かんでは消えてゆくもの。
この日記では、家から出ないことに定評のあるライター・上田啓太が、日々の雑念や妄想を文章の形にして、みなさんにお届けします。
今回は、
・メロンソーダの喜びを取り戻せ
・ラルクアンシエルのハイドに感動する
・「ほとぼりが冷める」のほとぼりとは何か?
の三本です。
上田啓太
文筆業。ブログ「真顔日記」を中心に、ネットのあちこちで活動中。
ブログ:真顔日記 Twitter:@ueda_keita
メロンソーダの喜びを取り戻せ
メロンソーダは子どもの飲み物。
自分にはそんな思い込みがある。十代以降まったく飲まなくなったからだろうか。ある時期まではファミレスに行くたびに大喜びでメロンソーダを注文していた。その習慣が思春期以降に消えた。それゆえの印象だろうか。普通に飲んでいる大人もいるのだろうか。そのへんは分からない。
とにかく今日、久しぶりにメロンソーダを飲んだのである。正確にはメロンフロート。メロンソーダの上にバニラアイスが浮いていた。最高の飲み物だと思った。ビジュアルだけでこんなにワクワクさせられる飲み物は、めったにない。
メロンソーダを楽しむためには子供に戻らなければならない。まずは色。この鮮やかなグリーンを喜ばねばならない。反射的に健康に悪そうだと考える。これがいけない。健康の二文字はいますぐ放り投げるべきである。
子供は派手な色のガムが好きである。デパートに置かれたカラフルなガムの自販機。あれを見て飛びはねるのが子供であり、着色料という言葉が頭をよぎるのが大人である。着色料の三文字も、今すぐマシンガンで蜂の巣にせねばならない。
メロンソーダの泡を見ているだけで時間が過ぎる。それが子供という生き物である。グラスの近くに耳を近づけると、シュワシュワと小さく音がしている。氷の溶けるパチパチという音もする。炭酸は目と耳を刺激する。この時点で気持ちがたかぶっている。
そして、真っ白いバニラアイスがのっている。これは主人公の面構えをしている。メロンフロートを見た瞬間、だれもがそれを主人公だと思うし、バニラアイス自身も主人公の誇りを持っている。メロンソーダが付着して、バニラアイスは少しだけ薄緑色に染まっている。これを見るだけで嬉しくなってくる。しかし、アイスの形状はすでに少しずつ変化しはじめている。
「溶けちゃう!」
これを、本気で思うことである。あとは細長い銀のスプーンでバニラアイスを食べながら、メロンソーダをストローで吸い込んでいけばよい。これがメロンソーダを前にして子供に戻るということであるが、実際の子供は、メロンソーダひとつでこんなにゴネゴネ理屈をこねないと思う。この子供はにせものだ。
ラルクアンシエルのハイドに感動する
久しぶりにラルクアンシエルを聴いた。熱心に聴いていた中高生の頃を思い出した。こんなものを田舎の男子中学生に聴かせちゃいけない。夢中になるに決まっている。『HEAVEN’S DRIVE』とか『forbidden lover』とか『浸食 〜lose control〜』とか、曲名の時点で心の中の男子中学生を激しく刺激されていた。私が順調に年を重ねた後も、この子は学ラン姿のままで、ずっと心の中にいた。ニキビ面もそのままに、忘れないでと立っていた。そのことに気付かされた。
それはいいのだが、今になってみると、ボーカルであるHYDE(ハイド)の外見はすごいと思った。当時は何とも思わなかったが、ラルクアンシエルのハイドと名乗る男が、実際にラルクアンシエルのハイドとしか言いようのない外見をしているのは奇跡的なことだ。
確認しておきたいのは、「ラルクアンシエルのハイドです」と自己紹介するのは、大半の人間にとっては罰ゲームに等しいということである。ネーミングの時点で異常にハードルが上がっているからだ。普通、このハードルは越えられない。「営業部の山本です」とか自己紹介するのとは訳がちがう。
人間というのは怖ろしく、ラルクアンシエルのハイドを名乗る男がラルクアンシエルのハイドとはとても呼べない外見をしていれば、おまえがラルクアンシエルのハイドってツラかよ、とツッコんでくる性質を持っている。しかし現実のラルクアンシエルにおいては、ラルクアンシエルのハイドを名乗る男が実際にラルクアンシエルのハイドと呼ぶしかない見た目をしているんだから、グウの音も出ない。名が体をあらわしている。いや、体をあらわすための名を本人が見つけ出している。
むしろ、この外見でラルクアンシエルのハイドじゃなかったほうが、困惑すると思う。この外見で営業部の山本だったら動揺する。営業先の社内に衝撃が走る。要らないものまでどんどん発注してしまいそうだ。
「ほとぼりが冷める」のほとぼりとは何か?
「ほとぼりが冷める」のほとぼりとは何か。それが分からないならば、われわれは、ほとぼりという訳の分からないものが冷めるか否かを根拠に、人を許す許さないを決めていることになる。これは問題である。芸能人が不祥事を起こすと、ほとぼりが冷めるまで自主的に謹慎している。そして、ほとぼりが冷めた頃合いを見計らって、活動を再開したりしている。しかし、その基準となる、ほとぼりとは一体何なのか?
陰謀論めいた話になるが、この世のどこかに、ほとぼりという謎の物質があって、その温度を人類の特権的な集団(イルミナティ的なもの)が計測・制御しているのだろうか? そして世間の人々の心は、ほとぼりによってコントロールされているのだろうか?
この世のどこかに薄暗い空間があって、そこに、闇の権力者たち(三百人委員会的なもの)が集まって、巨大なクリスタルを取り囲んでいる。これが、ほとぼりの正体である。人類の心は、この水晶体に強く影響されており、闇の権力者たちが水晶体の温度を操作すれば、人類の心など、如何ようにも操作可能なのだ。世論とは個々の意見の集積ではなく、ほとぼりの代名詞であり、世間の感情とは、実際には、ほとぼりの温度にすぎない。よって、早急にほとぼりを冷ます必要があれば、闇の権力者たちは巨大な冷却装置を用意して、ほとぼりを徹底的に凍らせる。すると世間の人々は無自覚に考えてしまうのだ。
「まあ、そろそろ許してあげてもいいんじゃない?」
この空間に、脂ぎった中年男性(芸能界のドン的なもの)や、杖をついた初老の男性(政界のフィクサー的なもの)が夜な夜なおとずれる。自社のタレントや、自党の政治家がスキャンダルを起こせば、彼等は闇の権力者に大金を積むことで、ほとぼりを急速に冷まし、敵対する人間がスキャンダルを起こせば、ほとぼりの温度を急上昇させて、追い討ちをかける。そして闇の権力者たちは、手元の小さな装置(エアコンのリモコン的なもの)を操作して、ほとぼりの温度を自在に上下させる。
闇の権力者は語る。
「大衆は愚かだよ。自分の頭で物事を考えていると、哀れにも思い込まされているのだからね。しかし本当は、ほとぼりがすべてを決めているのだ。彼等はこの世の真実を知らず、自分たちに主体性があると勘違いしたまま、実際はこのほとぼりに熱ッ!」
ほとぼりを不用意にさわると、当然、そうなる。
その後、ほとぼりには「危険さわるな」と貼紙がされ、闇の権力者だろうが、一般人と比べて特別に皮膚が強いわけではないことが発覚する。
こうした世界支配の仕組みこそが、ほとぼりという謎めいた言葉の全貌だと私は結論付けたのだが、一応、辞書も引いておいた。
ほとぼり【熱り】
まだ残っている熱。余熱。
全然違いました。そんじゃーね!
ということで、今回は三本の日記でした。
それでは、また次回。