生きるのに疲れたとき、僕はよく東京タワーに昇った。
下界を見下ろすと、身分不相応にもエラくなったような気持ちになれる。これからをぼんやりと思いつつ、いい景色とおいしいジュースでどうにか気持ちを少しだけ立て直す。
僕は誕生日を誰かと過ごしたことだって一度もないんだけれども、そんなときは東京タワーのバースデーサービスだけが友だちであり、恋人だった。
無料で大展望台に昇り、サービスのケーキを食べて、ひとり誕生日を祝っていた。
※現在、バースデーサービスの内容は変更されています
そんな東京タワー。2012年に東京スカイツリーができたときに、「タワーはどうなってしまうのだろう」と心配した。
2013年には、地上デジタルテレビのほとんどの送信所がスカイツリーに移った。高さでも333mの東京タワーは、634mのスカイツリーに大きく水をあけられた。
さらに、東日本大震災でアンテナが曲がり(※その後復旧)、いまだ続くコロナ禍では一時休業を余儀なくされた。
しかし、東京タワーはいまだ健在だ。
電波塔としての役割の多くは東京スカイツリーに移っても、そこにあり続ける。そこには、我々がピンチを打開するためのヒントだって、隠れているのではないか。
僕の世代は、東京タワーといえば小沢健二。『僕らが旅に出る理由』を脳内で再生しながら歩くと、株式会社TOKYO TOWERの小椋信也さんが待っていた。
株式会社TOKYO TOWER 観光本部 営業部ライツ・広報課の小椋信也さん
いろいろあった10年を越えた先で、東京タワーのいまを語っていただいた。
まだ「TOKYO FM」の電波を流している
東京タワーからの眺め。中央に見えるのが東京スカイツリー
辰井「まず、東京タワーの本来の役割は電波塔でしたよね。でも東京スカイツリーができて、そのほとんどを明け渡したと聞きます。どんな影響がありましたか?」
小椋「在京キー局の送信所が移行した分、関連する不動産収入は減少しました。一方、東京タワーは引き続き電波塔としては現役で、TOKYO FMとInterFM897のラジオ電波はまだここから発信されています」
辰井「へえ、まだタワーも活躍中ですね」
小椋「テレビの電波も100%流さなくなったわけじゃなくて、予備の送信施設が残されており、なんらかの事態が発生した場合にバックアップできるようになっています」
辰井「いわば代打として東京タワーが控えているのか。豪華ですね」
辰井「ちなみに東京タワーから『電波を新しく飛ばしたい』って申し出はあるんですか?
小椋「あまり頻繁にはないですが、『i-dio』というアプリ経由で番組が見られる放送は、2016年から2020年3月までやっていました。新しい取り組みのインターネットテレビで、地上波放送初のハイレゾ級音声放送などが流されていたんです。『マルチメディア放送』として、まったく新しい取り組みでしたね」
辰井「僕、テレビの仕事を10年以上やっているんですが、知らなかったです……聴きたかった」
TOKYO FMが中心となった放送サービスが「i-dio」だった
2011~2012年に苦戦も、復活
辰井「2012年に東京スカイツリーができて、来場者数や売上げに影響は出ましたか?」
小椋「直接どこまで影響したかは測れません。が、当時は2012年の5月でしたから、まだ震災後を引きずっているのもあって、2012年の来場者数は震災で落ち込んだ2011年とほぼ横ばいでした」
辰井「つらい時期ですね」
小椋「ただ、それを乗り越えたあと、展望収入に関しては、コロナ前までは堅調に推移してきたんです。東京タワーと東京スカイツリーさんでは、立っている場所や景色の見え方、施設の楽しみ方も全く異なるという側面もあるかと思います」
辰井「確かに、都心と下町で風景も違いますよね」
下町の広がる墨田区・押上に立つ東京スカイツリー
小椋「今までの歴史を見ても、お客さんの数はアップダウンの繰り返しなんですよね。スカイツリーさんと相乗効果で東京を盛り上げられれば、東京全体のお客さんが増えると思いますし。ちなみに、東京スカイツリーとタワーを一緒に昇る、はとバスのツアーもあるんですよ」
辰井「それは楽しいですね。確かに、東京タワーからスカイツリーが見えるとテンションが上がるし」
小椋「スカイツリーさんができて景色の楽しみが増えたんですね」
辰井「いまの東京タワーの収入源は、やっぱり観光が大きいですか?」
小椋「はい。観光が一番ですね。特におみやげの収入は増えています」
辰井「なぜ増えているんですか?」
小椋「最近は東京タワーにまつわるおみやげに限らず、東京のおみやげ全般を増やしているのが大きいですね」
辰井「タワーは東京の代表ですもんね。売る必然性はある気がします」
東京タワー応援大使に就任した、HIKAKINさんのグッズも並んでいた
小椋「そうですね、2階の『おみやげたうん』も含めて、おみやげを買いそろえる場所としてご利用いただいています。直営のオフィシャルショップの数字で言えば、(コロナ前の時点で)売り上げはかつてと比較し倍増しています」
辰井「売れる物も変わりましたか?」
小椋「いまはラインナップが過去とは比べものにならないくらい増えていまして、特に東京タワー型のペットボトルの水は人気ですね。模型も根強い人気です」
かつておみやげの代名詞だった「記念メダル」も健在。日付・名前などを入れられる
展望台、大リニューアル
辰井「2018年に特別展望台、2019年に大展望台がリニューアルされたらしいですが、どう変わったんですか?」
小椋「海外のお客さんが増えたので、大展望台はメインデッキ、特別展望台はトップデッキと名を変えました。あと前は旧大展望台で並んでチケットを買って、旧特別展望台に行く流れでしたけど、いまは事前予約なので、お待たせせずにご案内できます」
辰井「お客さんはラクになったんですね」
小椋「メインデッキ(大展望台)は、開業以来そのままだったので、窓やサッシなどを変える時期に来ていたんです。窓枠を広くして景色を見やすくした上に、窓へ近づけるようにして、内装もシックにしました。イベントスペースも大きくしましたよ」
恐怖のスカイウォークウィンドウも4カ所に増設
辰井「旧特別展望台(トップデッキ)はどうですか?」
小椋「トップデッキに行けるのはツアー参加者のみにして、その分、楽しい演出を道中に入れています。凝った記念写真を持ち帰れたり、秘密のアトラクションがあったり。さらにご案内の係員を多めに配置し、音声ガイドも無料で貸し出しています」
辰井「昔の展望台も味がありましたけど、雰囲気的には恋人なんかを連れてきやすいですね」
小椋「ちなみに2016年からは、東京タワーがよく見える眺望を守るため、それを阻害しないように配慮する景観計画が、港区によって制定されています」
辰井「え、そうなんですか?」
小椋「半径1.2キロの扇形の範囲を景観保護区域に認定し、建物が建つ際には景観を損なわないかどうかを区が確認していますね」
辰井「京都みたいですね。東京タワーは、東京の大事な観光資源だもんなあ」
ライトアップが「時報」になった
辰井「震災後に入場者数が戻ったと聞きましたが、東京タワーが巻き返すための起爆剤はなんでしたか?」
小椋「ライトアップは大きいと思います。ホームページでもスケジュールを公開しているんですが、見てくれる方が多いんですよね」
小椋「東京タワーのライトアップは、1989年の1月1日にオレンジ色のランプで照らす形からはじまりました。おなじみの、一番メジャーなタイプですね」
おなじみ、東京タワーの姿(Photo by Kakidai)
辰井「これが最初だと思ったら、それ以前はこんなにシンプルだったんですね」
1988年以前は、このようなライトアップだった(Photo by ナショナル電球)
小椋「さらに『ダイヤモンドヴェール』という、たくさんのバリエーションができるライトアップを開業50周年の2008年からはじめて、タイアップ企画も増えました。60周年の2018年にはじめたインフィニティダイヤモンドヴェールからは、時報演出がはじまりましたね」
2008年にスタートしたダイヤモンドヴェール
2018年にはじまった、 インフィニティダイヤモンドヴェール。1時間毎にライティングの一部分がきらめく時報演出が加わった
頼みのインバウンド客がコロナで激減も……
小椋「さらに2014~2015年ごろから、内観のリニューアルを徐々に行いましたが、そのころからインバウンド客が劇的に増えたんです」
辰井「日本人と外国人、どれくらいの割合になりましたか?」
小椋「インバウンド客が増える前は日本人8、外国人2ほどの割合でした。それが、コロナ前までは、6:4くらいになりましたね」
辰井「おお、相当増えましたね……。だとしたら、コロナの影響ってすごく大きかったのでは?」
小椋「あまりにも大きかったです。ただ、その代わりに近隣の方が来てくれました。特にせっかく休みなのにどこも行けないファミリーが来てくれて」
辰井「外国の方が来られない分を、GO TOキャンペーンから除外されていた当時の東京の人が埋めたんですね」
小椋「入場者数はまだまだ本調子には程遠いですが、本当にありがたく思っています。夏の間は遊具や水遊び場を設置していたので、毎日お子さんを連れてきてくれたお父さんもいたんですよ」
辰井「その方は、東京タワーがあって助かったでしょうね」
小椋「あと、現在は毎日、階段でメインデッキに昇れるようにしています。こういうご時世だと、外の空気も浴びられたほうがいいですから」
大展望台まで階段で昇りきると、カードがもらえる
震災でライトアップを残した理由
辰井「逆境もあったと思いますが、大変だったことと、うれしかったことはなんですか?」
小椋「その両方があったのは震災のときです」
辰井「当時、東京タワーはどうしたんですか?」
小椋「営業は1週間ぐらい休止して、しばらくライトアップも自粛したんですけど、震災当日はライトアップを残したんですよ。あれだけは付けておこうと」
辰井「おおお、なぜですか?」
小椋「あれを消すと、気持ちが沈んでしまう人も多いと思いますし。ましてや震災の当日は、歩かないと帰れなくなってしまいましたから。なので、ひとつ目印になるものをと思い」
辰井「東京都心で、もっとも目立つランドマークですもんね」
小椋「ライトアップに対して、周りからも『あれですごく励まされた』『うれしく泣いちゃったのよ』とうれしいお声をいただきましたし」
小椋「あと大展望台の窓のところに、『がんばろう日本』って出したんですよ」
辰井「へええ? そんなの出せるんですか!?」
小椋「操作する機能があるわけじゃないですけど、無理やり出そうと思えば出せるんです。それですごく励みになったっていうような、だから苦境に対する励ましの声は、それが一番、大きかったかなと思いますね」
辰井「東京タワー自体も、震災の揺れでてっぺんのアンテナが折れちゃいましたよね?」
小椋「そうです。修理も大変だったと思いますが、少しずつ直していきました」
タワーは愛が生まれる場所
辰井「東京タワーで、プロポーズを見ることもありますか?」
小椋「12時くらいにタワーの周りに行くと、けっこうそれっぽい人がいます」
辰井「指輪を持って……?」
小椋「凝視はしませんけど、そんな感じだと思います。あと、思いを伝えるちょっとしたイベントを展望台でよくやっていました」
辰井「え、そうなんですか?」
小椋「事前にメールしてもらって、『このメッセージとともに、この曲を流してください』と、ラジオDJイベントみたいなのを展望台でやって、プロポーズをするんです。今は開催されていないのですが」
辰井「あああ、いいですね! そんな場所ですから、ますます残って欲しいです。スカイツリーができて、ぼんやりと『東京タワー危ないんじゃ?』なんて思っていたんですが、まだあり続けられそうですかね?」
小椋「大丈夫ですよ」
辰井「それを聞いて安心しました」