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3.11東日本大震災を振り返るべく「津波の語り部」に会ってきた

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2017年3月11日。あの東日本大震災から6年が経過しました。

当時、僕は勤めていた東京の会社で普通に仕事をしていて、突然の揺れを感じて外へ飛び出しました。「ガシャンッガシャンッ」と建物のシャッターが大きな音を立て、街全体が悲鳴をあげているようでした。

ただごとではない大地震…。

阪神・淡路大震災を間接的に経験していたこともあり、すぐにその場を去って自宅を目指しました。徒歩30分の距離をあれほど心強く感じたことはありません。その後、友人数人を自宅に囲って、テレビのニュース番組にかじりつきました。時に余震で大きく揺れて、不安気な声を漏らす。

「まじかよ・・・」

ただ現地の状況と比べたら雲泥の差。目の前にはおぞましい津波の映像が流れていました。現実とは思えない光景。東日本中心に広がる不安感。6年前のこととはいえ、いまだ脳裏に焼き付いています。

 

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今日のジモコロは、自分なりに東日本大震災を消化するための記事をお届けします。当時何もできなかった歯痒さはもちろん、時間が経ってでも現場の空気感と語り部の声に触れたいと思ったからです。

何がどう解決するわけではないんですが、やはり「現地に行くこと」は大きな意味を持ちますし、「知ろうとすること」を伝えられたらと未熟なりに考えてみました。

 

防災の町 岩手県宮古市 田老地区へ

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東日本大震災の延長で訪れたことのある土地は、福島県南相馬市だけでした。すでに瓦礫は片付けられていたものの、避難指示が出されているエリアは人の気配が一切なく、文字通りのゴーストタウン…。

海が見えない土地を車で走っていたときに「ここも津波被害がひどかったんです」と言われて、「え、こんなところにまで!?」と驚きました。海から数キロ離れていたので、その距離感にピンとこなかったんです。

 

詳しくはこちらの記事でどうぞ。

 

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今回、訪れたのは岩手県宮古市の田老地区。

 

防災の町として知られていたんですが、その理由は歴史上何度も大津波の被害が出ている土地だからです。「津波太郎(田老)」という異名があるほどで、1611年の慶長三陸地震、1896年の明治三陸地震、1933年の昭和三陸地震など、それぞれ壊滅的な被害を受けています。

 

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そういった歴史があるため、田老地区では1979年に世界一の防潮堤を作り上げました。長さ2433メートル、高さ10メートル。X字型の巨大な防潮堤は「万里の長城」と言われるほど。総工費約50億円。45年の歳月をかけて作り上げたんですが…

 

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東日本大震災の津波でいとも簡単に飲み込まれてしまいました。

 

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現地の語り部として活動している宮古観光文化交流協会の学ぶ防災ガイド・小幡実さんに解説をしてもらったんですが、それまでテレビやネットの記事で認識していた情報との差に正直愕然としました。

センセーショナルな映像ばかりが頭に流れ込んで来ていて、細かいディテールに思考が向いていなかった。もしかしたら「知ること」への恐怖心がそうさせていたのかもしれません。 

 

 

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季節は11月末。沿岸部の凍てつくような海風が身体の体温をグングンと奪っていきます。シリアスな話を聞くにつれて、僕自身の表情もこれまでと全然変わったものに…。

 

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小幡さんはパンフレット片手に慣れた口調で話し始めました。

 

小幡さん:赤い線が第一防潮堤です。昭和8年の津波の後、関東大震災の復興に加わった技師二人をわざわざ田老に移り住んでもらい作ってもらいました。両脇をコンクリートで固めて頑丈に作ったそうです。

 

今回の大津波で一番損傷がなかったのが、この第一防潮堤。高波対策で作られた第二防潮堤(青線)は巨大なエネルギーの前に破壊されて、第三防潮堤(黄色線)はなんとか原型を留めていました。

 

この3つの防潮堤を合わせたのが、世界一と言われたX型の防潮堤です。俯瞰して地図を見るとよくわかります。津波のエネルギーを左右に分けて散らし、その間に避難する時間を作ろう。そういう理屈で作られたX型の防潮堤だったそうです。

 

小幡さん:地震から約37分後、3mぐらいの津波が岸壁を少しかぶるぐらいでやってきた。誰もがこれまでの津波同様に引いて終わると思ってたんですね。

 

次は5分後に太平洋全体が10mぐらいバーンとせり上がったような勢いで第三防潮堤へ。跳ね返った波が第二防潮堤を襲いました。

 

そのあとに第3波がすぐ追いつく感じでやってきて湾全体が16mぐらいまで盛り上がり、第一防潮堤をも乗り越えてたった4分の間に町は飲み込まれてしまったんです

 

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たった4分の出来事。寒空の下、小幡さんは矢継ぎ早に言葉を続けます。まずは町の避難状況について。

 

小幡さん:第一防潮堤の内側に田老第一中学校があって、校庭に300人ぐらいが避難していました。ただ、10mの防潮堤で津波の第一波は見えなかったそうです。

 

しかし、第二波は岸壁にぶつかったこともあり、35mぐらいの波しぶきがあがった。その様子は見えた。

 

その後すぐに津波がグッと入ってきたから、『つなみてんでんこ』で裏山に逃げた。そしたらば案の定、地震から45分後に16mの津波が第一防潮堤を乗り越えて、校舎一階まで入ってきました。とっさの判断が功を奏して、生徒たちは全員無事だったんです。

 

 

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東日本大震災の後、この「つなみてんでんこ」のおかげで多くの命が助かったと報じられています。小幡さんも「過去の津波で親が子どもを、子どもが親を助けようとして一家全滅した悲劇が多かった。そんな悲しいことはないから、何とか防ぐために生まれた言葉です」と語っています。

 

 

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小幡さん自身、親戚のおばあさん、兄嫁、孫の3人が津波にのまれてしまったそうです。当事者だからこそ伝えられる重い言葉。当時の心境についても語ってくれました。

 

小幡さん:私は、たろう観光ホテルの近くで40〜50人が泊まれるような民宿をやっていました。大きな地震の後、テレビの方が確かだと思って点けようとしたら停電でダメだった。

 

モノも何も落ちてこなかったけど、大地の底からググっとくるおっかない感じがあって、近くの高台の駐車場まで逃げました。ただ過去に田老を襲った津波は約40分後くらいに来てるんです。

 

避難してから10分ぐらい経ってくると不思議なもんで少し余裕が出てくる。大事なモンを家に忘れて来てる気がするんですね。私も一度家に戻ろうとしたことをハッキリと覚えています。ただ、何かの勘で踏みとどまった。そこで助かった。

 

地震直後、停電の影響もあって町のサイレンは鳴らなかったそうです。とにかく静かだったと。過去何度も3mの津波程度で落ち着いた経験が町に浸透していて、「今回もきっと大丈夫だろう」と判断した人が少なくなかったようです。

 

小幡さん:今まで78年間、津波が来るぞ来るぞと言ってこなかった。いつもと同じだと判断して家に残った人、一度は避難したものの家に戻ってしまった人、そういった人が地震から45分後の津波であっという間に飲み込まれてしまったんですよ。

 

例えば、先祖の位牌を取りに帰る。大事だからね。すると人間というのは次から次に『あれも持っていこう』と欲が出てしまう。その点でいえば事の大きさを伝えるテレビが点かなかったのは大きいかもしれないね…。町には44箇所も避難場所が用意されているから、地震の後にすぐ山の方に向かって逃げれば助かったんだよ。判断ミスは怖いね。

 

防災の町として準備はできていた。ただ一瞬の判断ミスで生死を分けてしまう。 6年経った今も、小幡さんの言葉の端々に悔しさが残っているようでした。

 

 

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次に案内されたのは製氷貯氷施設という見慣れない建物。

 

よく見ると… 

 

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昭和=10メートル、明治=15メートル、平成=17.3メートルと書かれた目印が。

あの高さまで津波が押し寄せたなんて…。写真で伝わるでしょうか。

 

 

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被害状況について書かれた「災害復旧事業概要」の情報を引用します。

 

H23.3.11 東日本大震災に伴う大津波は、二重防潮堤(標高10.0m)を越え、背後地は堤防高まで湛水し甚大な被害をもたらしました。津波痕跡で最大痕跡高 標高16.3m(岩手県調査)、地震による地盤沈下は約70cmであったことが確認されました。

 

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一体どれほどのエネルギーがこの土地を襲ったかというと、地殻変動によって震災前から東南の方向へ2.18m移動し、0.31m地盤沈下したそうです。

 

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大陸自体が震源地の海側にググっと引き寄せられたような図が…。ちなみに移動量の最大は、宮城県牡鹿半島地区。東南東の方向に5.30m移動し、1.14mの沈下が観測されたそうです。

 

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これが…

 

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こうですからね。意味わかんないレベルの地殻変動だ…。

 

津波遺構「たろう観光ホテル」の爪痕

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続いて案内されたのは津波遺構「たろう観光ホテル」。高さ17メートルを超える大津波を受けて4階まで浸水し、1、2階部分は柱だけを残してゴボッと流失しました。目に飛び込んできた瞬間のインパクトがすさまじい建物です。

 

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被災地では被害のあった建物はほぼ取り壊してるんですが、この「たろう観光ホテル」は防災意識向上のために保全し、綺麗に残されています。

 

被害を受けた建物の取り壊しが進む中、宮古市は甚大な震災の記憶を風化させることなく、後世に伝えるための「津波遺構」として保存することを決定しました。

 

2014年(平成26)3月に宮古市が取得、2016年(平成28)3月までに被災した「ありのままの姿を残すこと」を目的とした保存整備工事を終えました。

 

今後は、訪れる人々に津波の恐ろしさを伝え、訪れる人々の防災意識を高めることにより、震災による被害が繰り返されないことへと繋がるよう、現在の姿のまま保存していきます。

 

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ちなみに現地では「学ぶ防災ガイド」として、防潮堤→たろう観光ホテルの順で解説してもらえるガイドコース(1時間=4000円)に申し込み可能。

※ガイド1人につき復興支援協力金4000円を募る。協力金は全額、市に寄付される。

 

●「学ぶ防災」ガイドのお申込み・お問い合わせ

宮古観光文化交流協会 学ぶ防災
受付時間 9:00~18:00 / TEL:0193-77-3305  

 

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参加者のみ、たろう観光ホテル内に入ることができて、無事だった6階の部屋でマスコミ未公開のDVDを観ることができます。これがまたすごいんです…。

 

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※写真使用の許可をもらっています 

2011年3月11日。たろう観光ホテルのオーナーは地震直後、6階のこの部屋にいたそうです。騒然とする町。「この高さなら大丈夫だ…」とビデオカメラを構えて、窓から町の様子を撮影していました。きっと津波が来るであろう、と。

大きな黒いうねりとなった津波が遠くから押し寄せてきます。その規模は想像以上。目線の下には逃げ遅れた車や、一度家に戻ろうとする人の姿が見えてオーナーは必死に「津波が来たよー!逃げてー!早く逃げないとー!」と何度も叫びましたが…たった4分で町をどんどん飲み込んでいきました。

 

 

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次の瞬間、映像は反転。オーナーのいたホテルに津波が直撃したのです。起き上がって再びカメラを構え、窓の外を見てみると6階部分ギリギリまで津波が押し寄せていて、海が17メートルせり上がったような景色が広がっていました。左右の引き波が大量の瓦礫と共にゆっくり動いているだけの光景。防潮堤を越えたたった4分の出来事でした。

 

 

・・・

 

・・・

 

 

 

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撮影していた場所で、その映像を観る。こんなにも怖い疑似体験は初めてです。

マスコミ未公開の意味も、この映像の生々しさを観れば分かると思います。とにかく巨大な津波が町を襲うスピードが早すぎる。そして建物に津波のエネルギーがぶつかったときの衝撃。オーナーの声。起き上がったら一面が瓦礫まみれの海に切り替わっている意味のわからなさ。大津波、怖すぎるだろ…。

 

 

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小幡さんは「最後に」と前置きした上で、言葉を選びながら話し始めました。

 

小幡さん:もし田老で防潮堤をつくっていなければどうなっていたのか? その世界を想像してみたいと思います。

 

あれだけの大きな地震ですんで、いかに津波に慣れた図太い田老の人でも、10mの防潮堤が視界を遮っていなければすぐに逃げたでしょう。もし防潮堤がなかったら…エネルギーは分散されずに今回助かった小学校やお寺、役場にまで津波が押し寄せていたかもしれない。

 

結果、ハッキリ言えることは防潮堤がなかったら全滅だったということです。

 

本当はあんなコンクリートの壁なんてない方がいい。海が見えた方が精神的には絶対良いわけですから。

 

だけど田老は過去の津波の経験で、あの防潮堤を作るしかなかった。あったがゆえに大勢の命が助かった。

 

先人の知恵を積み重ねた防潮堤は、充分に役割を果たしたんじゃないかな、というのが田老町の考えであり結論です。

 

もしもっと被害が大きかったら、今のような復興の姿はなかったかもしれません。

 

私自身でいえば、津波の宿命の町に生まれ育った、そういう諦めの悟りを今回の津波で学びました。

 

 

 

まとめ

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正直、今回の取材で何度か言葉を失う瞬間がありました。自分の目で見た景色と自分の耳で聞いた言葉の数々は、それまで触れてきた情報とは質感が違う…。それも語り部の小幡さんだけでなく、この土地に住む一人ひとりが当時の壮絶な体験を抱えている。そんな当たり前の事実を目の当たりして、たじろいでしまったのかもしれません。

当初はジモコロとして、メディアとして…なんて大義的なことを考えていましたが、今となっては「ああしろこうしろ」という気は一切なく。ただ単純に「現地に赴いてしっかり話を聞いて良かったな」と思っています。

そもそもの前提として、いつ自分や家族に災害が襲いかかるかもしれない。日本で暮らしている以上その可能性からは避けられません。その環境下で、小幡さんに津波の恐ろしさや災害時の心構えを教えてもらったことはかけがえのない経験になりました。

 

 

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ちなみに今回宿泊でお世話になった「浄土ヶ浜旅館」は、朝食とは思えないくらい豪華な激ウマ料理が出てくるし、女将さんの笑顔満点なおもてなしに癒されること間違いなし。ホテル選びに困ったら候補のひとつにぜひ!

 

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さらにフラっと夜中に入った宮古市の寿司屋「大寿司」は、人生トップレベルの寿司体験でした。職人技術を惜しまず使った寿司がこんなに美味いなんて…。たぶん東京だったら1万円以上しそうなのに、お会計をしたら1人3000円ぐらいでした。

 

どうなってんだ!

この寿司のためだけにもう一度宮古市に行きたい!!

 

というわけで岩手県含め東北の復興はまだまだこれからです。一度は岩手県宮古市を訪れてみてはいかがでしょうか。次は釜石市、遠野市、平泉町あたりもまわりたいな。

 

最後に…

 

●チャリティーソングを買って応援!

ジモコロ熊本復興ツアーでもお世話になったミュージシャンの[.que]くん。東日本大震災への寄付金、今後日本で大きな災害が起きた際の寄付金に活用されるチャリティーソングを制作しています。春の力強さ、美しさを表現した楽曲。めっちゃかっこいい。試聴した上で、iTunesで購入=寄付するのも1つの応援です。よろしければ!

 

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  • ¥600

 

 

記事を書いた人:徳谷 柿次郎

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株式会社Huuuu代表取締役。ジモコロ編集長として全国47都道府県を取材したり、ローカル領域で編集してます。趣味→ヒップホップ / 温泉 / カレー / コーヒー / 民俗学など Twitter:@kakijiro / Facebook:kakijiro916 Mail: kakijiro(a)gmail.com

写真:小林 直博

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長野県奥信濃発のフリーペーパー『鶴と亀』で編集者兼フォトグラファーをやっている。1991年生まれ。ばあちゃん子。生まれ育った長野県飯山市を拠点に、奥信濃らしい生き方を目指し活動中。

 


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