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釜ヶ崎のレジェンドが語る「大阪・西成」50年のリアル。治安、労働、福祉…実は”どんな人も排除しない町”だった

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釜ヶ崎のレジェンドが語る「大阪・西成」50年のリアル。治安、労働、福祉…実は”どんな人も排除しない町”だった

「阿部さん、今回は僕の地元・大阪にある西成区・釜ヶ崎エリア(以下、西成)へ向かいます」

「あー、20年前に一度ゲストハウスに泊まったことがあります。ちょっと雰囲気的に怖かった記憶が……」

「過去に暴動があったのは事実です。大阪で生まれ育っても怖いイメージは残っています。ただ、ここ数年で町が大きく変わろうとしているんですよね」

「なるほど。ところでピンクの髪の方は…?」

 

 

西成で暮らし、町の観察を続けてきて早50年

 

 

水野阿修羅(みずのあしゅら)さん

 

 

水野阿修羅(みずのあしゅら)。1949年生。大阪市西成区在住。1970年に開催された大阪万博を機に、仕事を求めて釜ヶ崎へと移住。以来、建設業・運送業を中心に45年間日雇い仕事に従事。その傍ら、88年に外国人支援組織「アジアン・フレンド」を立ち上げ、アジアからの出稼ぎ労働者問題に関わるようになる。91年にはメンズリブ研究会、98年にはメンズサポートルーム大阪を立ち上げ。以来、DV加害者に対し、自らの感情を回復させ、DVから脱却することを目的に「男の非暴力グループワーク」を実施している。ほか、部落解放運動・女性解放運動などの運動も進める。99年、NPO法人釜ヶ崎支援機構の職員となり、2014年1月に定年退職。

阿修羅さん個人のすごいインタビュー→「愛」はずっと、さっぱりわからないものだったんです

 

「50年も!? 西成のレジェンド的な存在ってことですか…?」

「そうなんです。確かなスジから紹介していただいて。今回の取材は、阿修羅さんと街歩きをしながらお話を聞いていきます」

「こんにちは。よろしくお願いします」

「いやぁ、西成の歴史に触れられるのが楽しみです。ちなみに阿修羅さんはなぜ髪色がピンクなんですか?」

 

「92年頃かな。ニューヨークのハーレムに行って、黒人の女の子が髪の毛をすごいカラフルにしてるのを見てかっこいいなぁと思ってね」

「へー、ご自身で染めてるんですか?」

「ドラッグストアで毛染めを買って自分でやってますよ」

「よくみたら顔も少しピンクになってますね…!」

「ははは(笑)」

 

改めまして、こんにちは。ライターの阿部光平といいます。

ここは、大阪市西成区。戦後の高度経済成長に伴って全国各地から仕事を求める人々が集まり、最盛期には2万人もの日雇い労働者が暮らしていた町です。

 

労働者の多くは「ドヤ」と呼ばれる「簡易宿所(かんいしゅくしょ)」に滞在して、建築業や清掃業などに従事。時には過酷な労働条件を巡ってヤクザや警察と衝突しながら、自分たちの暮らしを守ってきました。

 

今回案内をしてくださった水野阿修羅さんも、そのうちのひとり。1970年に西成へやってきて、50年以上に渡って、この町の変化を見続けてきた方です。

 

西成といえば、治安が悪く、近づき難いといったイメージで語られることが多いですが、阿修羅さんと街歩きをするなかで、時代に翻弄されながらも逞しく生き残ってきた町の姿が見えてきました。

 

阿修羅さんと一緒に行動したからこそ踏み込めた、2021年2月時点での最新の「西成」の現状をお届けします。

 

※編集部注

●地名の呼称について

西成区は大阪市の南に位置する。釜ヶ崎エリアは西成区の「北東部」の一部を指す。ただし、釜ヶ崎という地名はなく、萩之茶屋や太子が地図上の名称である。歴史の流れのなかでマスメディアが総称として「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」と呼んでいる。ジモコロでは「西成」として表記。

●ドヤ街の表記について

「ドヤ」は「宿」の逆さ言葉。そのニュアンスや意味合いは、一言で説明するのが難しく、やや複雑な言葉である。蔑称として使われた歴史もあるが、愛着を持って呼ばれることもある。今回、阿修羅さんの言葉をそのまま再現するために「ドヤ」「西成」「この町」として表記。

●簡易宿所について

簡易宿所(日雇い労働者向けの宿泊施設)とは、旅館業法上の宿泊施設の名称。1人部屋や多人数部屋が設置されていて、浴室やトイレなど衛生施設が共用になっている。

いま語られる西成暴動の記憶

1970年代の「あいりん労働公共職業安定所」

 

「昔は、この辺りがたくさんの労働者が集まるエリアでね。当時は、みんな若くて血気盛んだったから、夏になると暴動って感じでしたよ」

「夏になると暴動……?」

「私がこの町に来たのは1970年なんだけど、当時、西成の仕事を手配していたのはヤクザだったんですよ」

「日本のドヤ街の話で聞いたことがあるやつだ」

「ピンハネもすごくて、逆らうと殴ってくるのも当たり前。かといって、警察に行ってもまともに取り合ってくれないわけです。そういうストレスが常に労働者にはあったから、ちょっとしたことで警察に対する暴動が起こってね」

「ほほお」

「暴動が起こると労働者が道路を占拠して、交通も遮断して、3日くらい投石合戦みたいなのが続くわけ」

「暴動が3日間も。それって、どうやって収束するんですか?」

「だいたい暴動は夜にやるんですよ。みんな顔が割れるのが嫌だからね。昼は休戦して、夜になると再開する。それを3日くらいやると、みんな疲れて終わるんですよ。仕事にも行かなあかんしね(笑)」

「はぁー、すごい話だなぁ(笑)」

 

西成の生き字引・阿修羅さんと巡る街歩き

「西成って怖い人が多いとか、いろんなものが路上で販売されてるとか、宿が安いとか、そういうイメージがありました」

「まぁ、多くの人がイメージする危ない光景も確かに存在するんだけど、それだけではないですよ。若い人たちの新しい動きも出てきてるしね。その辺りは、実際に歩きながら見てみましょうか」

「僕も歴史含めてちゃんと学んだことはないので、お願いします!」

 

 

「あそこにある『三帖 500円より』ってドヤが、この町で一番安いかな。冷暖房なし、窓もなしだから、夏は大変。冬はいいけどね。この辺には、インバウンドの旅行者をターゲットにした宿泊施設もあって、そっちは部屋の中に風呂とトイレが付いてて7000円くらい」

「普通のホテルと同じような宿もあるんですね」

「同じエリアでも対照的でしょ。いろんな宿が混在してるんですよ」

「コロナの前はインバウンド客が増えてるって話は聞いたことあります」

「そうだね。関西国際空港からも近いし、宿代が安いから、西成を拠点に観光をする外国人観光客がとても増えました」

 

「この『あいりんシェルター』っていうのは、無料の宿泊所です。毎日夕方にチケットを配って、人を泊めてるの。今はコロナの影響で名前の提出が必要になってるけど、基本的には誰でも泊まれるし、身分証明書もいらない

「最後の駆け込み寺的な場所なんですね。ベッド数は、どれくらいあるんですか?」

 

あいりんシェルターのベッドの様子

 

「今は450くらいで、利用者は毎晩210人ほどかな。労働者が多い時代は1000ベッドあっても足りないくらいだったんだけどね」

「なるほど」

「高齢者は生活保護を受ける人もいるから、そうするとアパートに引っ越すわけ。まだ生活保護を受けられない人とか、国に頼りたくないって人は、こういうところを利用してますね」

 

「『禁酒の館・シェルター三大ルール』って張り紙がありますね」

 

『1.酒を飲んで来ない!』

『2.酒を持って来ない!』

『3.酒を中で飲まない!』

 

「西成らしい標語だなあ」

「この町は酒で失敗した人が多いからね。それで『禁酒の館』って名前がついてるんだよ。お酒が入っちゃうと人格が変わっちゃう人がいっぱいいるから、飲まないようにってことでやってますね」

 

「これはなんだかわかる?」

「『三角公園 みんなのテレビ』……。あぁ、街頭テレビですか?」

「そうそう。昔は日本中にあった街頭テレビです。今も夕方6時になったら扉が開いて、見られるようになってます。以前は相撲や野球を見るのにすごい数の人が集まってたんだけど、今は4、5人しか見てないね。みんなテレビを持ってるから」

「街頭テレビは誰が操作できるんですか? チャンネル争いとか起きません?」

「前は警察だったけど、今はまちづくり合同会社が操作してる。みんな平和に見てますよ。地デジ化で、この街頭テレビも一度は廃止になったんです」

「大事な日常の娯楽が!」

 

「だけど、その様子がテレビで放送されたことでカンパが集まって、デジタルテレビになったの。それからはまちづくり合同会社が管理をするようになってますね」

 

誰でも体ひとつで来れば仕事をはじめられる仕組み

写真は2015年8月撮影

 

「迫力ある建物ですよねぇ。昭和の映画に出てきそうな」

「ここが『あいりん総合センター』。仕事が集まってきて、それを労働者に手配する場所です。1970年にできた建物で、老朽化による建て替えのために2019年で閉鎖されたんだけど、今も壊すことに反対運動が行われてるんよね」

「建て替えても仕事を手配する機能は残るんですよね。それでも反対している方々がいるのは、なぜなんですか?」

 

 

 

 

 

「このままでも、まだ使えると。耐震基準がクリアできないから閉鎖になったんだけど、反対派のグループは耐震基準を補強して使わせろといってます。それに対して大阪府と大阪市は、『いや、新しい労働施設を建てるから』と。もう予算も通ってるんで、建て替えは進むと思いますけどね」

「行政の施設活用と存続の議論は、全国各地で起きてますね」

 

「建て替えまでの間、労働者に仕事を手配する機能は、敷地内の別の建物に仮設されてます」

「ここでの仕事はどういう流れで決まっていくんですか?」

「まず、朝ここに労働者を派遣する業者がズラーっと並ぶんですよ。その人らが、ここに集まった労働者を現場に連れていく。その受付をするのが、この施設の機能なんです」

 

「一般土工、職人、解体、運転手、ガードマン…」

「あそこにいろんな求人情報が出てるでしょ。大阪だけでなく、東海や東北からもたくさんの仕事がきてます」

「これを見て行きたい現場を選ぶってことですか?」

「そうそう。ここから選ぶと、施設の人が業者を紹介してくれるんです。だから、ここにくれば誰でもとりあえずは仕事ができる。日雇いの場合は、身分証明がなくても大丈夫だしね」

「体ひとつで来れば仕事をはじめられるんですね」

「朝ここに来て仕事があれば、そのまま現場に行って、お金がもらえるっていう。日雇いっていうのはそういうことだから」

「阪神大震災の後は西成に日雇い労働者が集まって、東日本大震災の後は福島に流れて行ったって話を取材で聞いたことがあります」

「日本の災害とも大きな関わりを持ってるんだなぁ」

 

無料の資格講習も行われている

 

「最近は建設関係だけじゃなくて、パソコンとか清掃業、ベッドメイキングとか、そういう軽作業の講習も増えてきたね」

「なんでだろう。時代の変化?」

「あ、わかりました。高齢化によって重労働が難しくなってきたから?」

「そうそう、高齢者とか女性とか、軽作業しかできない人のためにこういう仕事も増えてきています。今はベッドメイキングの仕事もけっこうあるし、ヘルパーさんの需要が増えて女性の仕事も多くなってきたね」

「なるほどなあ。今、西成には何人くらいの労働者の方がいるんですか?」

「昔は、ここの職安に24000人くらいが登録してたんだけど、今は700人。そのくらい変化してきてますね」

「激減だ。日本の高齢化問題と産業の変化をモロに受けてるわけか…」

 

時代と共に姿を変えてきた西成のまち

「西成の労働者の方も、ずいぶん減ってきているんですね」

「そうだねえ。ただ、ドヤ街に変化はつきものだから。まず、大阪には江戸時代からドヤ街があったんですよ。油絞りだとか米つきの仕事があって、地方から働きに出てくる人がたくさんいたからね。でも、それは今のドヤ街がある西成じゃなくて、心斎橋のほうだったんです。でね、西成や新世界のあたりがどんな様子だったかというと畑でした」

「心斎橋って、今やめちゃめちゃ都会じゃないですか」

 

江戸末期に描かれた『浪華名所独案内』 提供:大阪市立中央図書館

新今宮の北、現在の日本橋1丁目から5丁目までは、江戸時代より長町と呼ばれ、堺筋沿いに木賃宿(※)が立ち並び、一歩裏路地に入るとさらに条件の悪い安宿や粗末な民家が密集していた。大坂へ流入する人々の一時的な滞在地となっていた。
(※きちんやど:安宿の意。宿泊客が自炊し、燃料代だけを払う宿であったことから由来する。大部屋で雑魚寝の粗末な宿であった)

 

「ドヤ街の位置が変わったということですか?」

「そう。なぜ変わったかというと、日露戦争のとき、今の新世界がある場所にロシア兵の捕虜収容所ができたんですよ。そうすると、そこに見物客がいっぱい行くわけ。人が集まると、そこに露天商が出てきて、次第に繁華街になっていく。それが新世界のはじまりなんです」

「大阪生まれだけど、ぜんぜん知らなかった…!」

「見物客が集まることで商売が生まれ、そこに町ができあがったと。日露戦争の頃ってことは、今から120年くらい前の話ですよね」

「そうですね。新世界に大きな動きがあったのは1912年。遊園地のルナパーク(1923年に閉園)と一緒に初代・通天閣が建てられました。残念ながら映画館の火災で一度は解体したんですが、地元住民の出資によって1955年に現在の二代目・通天閣が再建されたんですね」

「大阪人の心意気! 新世界のシンボルなんですね」

 

「でね、ドヤ街が西成に移ってきたのは、もともと簡易宿所が集まっていた心斎橋のほうでペストやコレラなどの伝染病が大発生して、大阪市が『簡易宿所があるから伝染病が発生している』ってことで排除に動き出したんです」

「流行病が西成の誕生に関係してたとは…!  その頃はまだ、西成は畑ばかりなんでしたっけ」

「そうそう。畑が今みたいなドヤ街に変わっていきました。こうして新世界や西成の成り立ちを見ると、町ってものがどうやってできていくのかがよくわかるよね」

「町を見る解像度がグッと上がりますね」

「ドヤ街に泊まってる人たちっていうのは、仕事がないときにいろんな物を拾ってきてお金に変えるわけ。鉄だとか紙とか、衣類だとかを。だから、今いる堺筋のあたりは、大正時代は古本屋街だったんですよ。ドヤ街の人たちが本を拾ってきて、それを換金した物が商品としてずらっと並んでたの」

「だいぶ文化的な眺めだ。東京の神保町みたい」

「ところが、戦争で辺り一帯がみんな焼けちゃうでしょ。そしたら、今度は米軍の中古品を拾ってきて、それを売り物にする電気屋街ができたんです。さらに電気屋がダメになると、次にメイドカフェやアニメグッズの店が並ぶオタロードができていったわけ」

「日本橋(にっぽんばし)ですね。僕もよくガンプラ買いに行ってました」

「時代に合わせて商売が変わり、それによってまちの姿も変わってきたんですね」

 

新今宮駅の景色。後ろでは2022年4月開業予定の星野リゾート「OMO7 大阪新今宮」を建築中

 

「今は労働者も高齢化して、人数も少なくなってるから、簡易宿所をバックパッカー向けのゲストハウスに作り替えているところもあります。それが大成功で、コロナ前はインバウンドの旅行者が大勢来てたんですね」

「そういう転換は、いつから起こりはじめたんですか?」

90年代の終わりにバブルが崩壊して、だんだんと仕事がなくなり、その影響で労働者が少なくなっていきました。それで、困ったドヤの経営者たちが対策を考えて、ここをカオサンロードみたいにしようということになったんです」

「カオサンロードって、世界中のバックパッカーが集まるバンコクの安宿街ですよね」

「そうそう。海外にどんどん発信すると、西成に大勢のバックパッカーが来るようになったわけ。その流れに民泊が加わって、安く泊まれるってことで日本人の若者も利用するようになってね。今は暴動も起こってないから、来やすくもなって。それが、今のドヤ街の流れです」

「いわばドヤの経営者による町のブランディングが成功したわけですね! 面白い」 

「もうひとつの流れが、簡易宿所を1階にデイサービス業者が入っている高齢者向けマンションに建て替える動きです。要するに、介護ケア付きのマンションですね。そうやって労働者が少なくなったドヤの経営者たちは、外国人と高齢者をターゲットにして経営を続けています

「なんてやり手なんだ。しかし歴史的な背景を知ると、印象がずいぶんと変わりますね。歴史を紐解くと、すべてが繋がってるんだなと思いました」

 

昔は駅や電車で雑誌や新聞を拾ってきて売る人がたくさんいたものの、スマホの普及で電車内で雑誌や新聞を読む人が減った影響で、現在は1軒しか残っていない古本屋

 

西成は日本の「課題先進地」だった?


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