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観光バブルは終わった。佐賀の老舗旅館が挑む「地元ファースト」への回帰

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観光バブルは終わった。佐賀の老舗旅館が挑む「地元ファースト」への回帰

お茶、うめ〜〜〜〜〜!

 

温泉、最高〜〜〜〜〜!!!

 

器、かっこいい〜〜〜〜〜〜!!

 

冒頭から大声で失礼しました。ジモコロ編集長の柿次郎です。本日は佐賀・嬉野に来ています。

 

見渡す限りの茶畑。『天空のラピュタ』並のスケール感!

 

「なにをしに佐賀へ?」と思う方も多いかもしれません。

なにせ2019年度発表された「都道府県魅力度ランキング」によると、佐賀県はワースト2位。少し前までキャッチフレーズとして掲げられていた「さがをさがそう!」という言葉も、どこか切なげに聞こえます。

 

でも、冒頭で紹介した、お茶・焼き物・温泉の3つを全て同じ市内で楽しめるとしたら、すこし印象も変わりませんか?

 

そう、実は佐賀・嬉野は3つの伝統文化が渦巻くスーパーパワースポットなのです!!

 

え? ……ちょっと言い過ぎではって?
いやいや、これからお伝えする旅館の話を聞けば、きっと佐賀のパワーを実感していただけるはずです。

 

今回、皆さんに紹介したいのが、嬉野温泉の老舗旅館「大村屋」さん。

 

創業はなんと天保元年(1831年)、「湯上りを音楽と本で楽しむ宿」をコンセプトとし、土地の魅力を生かした企画を売りに、多くの旅行客から人気を集めています。

 

大村屋さんが行ってきた企画の一部を紹介すると……

・街のゴミを拾うと宿泊客にワンドリンクサービスの「一日一善プラン
・宿泊客や旅館のスタッフも参加し、毎回大賑わいとなる「スリッパ温泉卓球大会
・地元の鍼灸師たちによる本格的な鍼灸を気軽に体験できる「もみフェス
・嬉野に住む人々が選書した本を読める「湯上がり文庫

 

どうですか、この老舗とは思えないほどのユニークな試みの数々!「温泉×音楽×本」のコンセプトにある通り、館内でも音楽へのこだわりをめちゃめちゃ感じるんですよね。

大浴場横のラウンジではDJピーター・バラカンさんが選曲したプレイリストが流れる

 

さて、そんな大村屋さんも、猛威を奮う新型コロナウイルスは他人事ではありません。

なにしろ観光業全体が影響を受けまくっており、政府が発表した資料によると、新型コロナの影響により約9割のホテル・旅館業で前年比売上が50%減となり、過去最大の危機に直面しているとのこと。

 

先行きの見えない時代、大村屋の15代目である若旦那・北川健太さんはこの状況を受けて、次のように語ります。

 

「旅館ビジネスの崩壊は、今に始まった話ではありません。だからこそ大村屋は『開かれた旅館』を目指し、新しい挑戦を続けてきたんです」

 

旅館ビジネスの崩壊、そして「開かれた旅館」とは? 優しい笑顔の奥にグツグツ煮える覚悟を秘めた北川さんに、話を聞きました。

 

話を聞いた人:北川健太さん

1984年嬉野市生まれ。嬉野温泉で一番古い旅館「大村屋」の15代目。東京の大学を卒業後、旅館を継ぐべく旅館やホテルを運営する会社に就職、25歳でUターンし、代表取締役に。

 

コロナ以前から起きていた、旅館ビジネスの崩壊


「各方面でコロナによる影響が叫ばれていますが、なかでも観光業はかなりの大打撃だったと聞きました。大村屋さんはいかがでしたか?」
「いやー、大変でしたね。コロナ渦中もずっと旅館自体は通常営業を続けていたのですが、4、5月はキャンセルの嵐で、売り上げは前年比9割減という有様でした

「僕たちメディア業も影響がないわけではないですけど、売り上げ9割減はさすがに半端ないですね」

「リーマンショックの時でもここまで人が止まることはなかったので、さすがに焦りました。でも……」

 

「旅館業界の厳しさは今に始まった話ではないんです」

 

「今に始まった話ではない……。コロナ以前はインバウンド需要が盛り上がっていて、観光業は景気のよいイメージがありましたけど」
「たしかにインバウンドには助けられていましたけど、そもそも旅館業が抱えてきた課題はかなり根深くて。かいつまんで言うと、昭和30〜40年代に旅館側が客を囲い込み、街のパワーが弱まってしまったんですね」
「というと、旅館オーナーというラオウが世紀末覇者として君臨していた? 温泉街というディストピアで?」

「ちょっとよくわからないんですが、その頃は高度経済成長期真っ只中。企業の慰安旅行や接待を中心に団体旅行客が急増した時代でした。当時は200〜300人規模の予約もざらにあったそうです」
「(流された……)300人規模の旅行って、幹事めちゃめちゃ大変そうです」
「ブームの勢いに応えるため、旅館もどんどん大型化していきました。旅館自体の拡張から始まり、飲食やお土産の販売、ゲームコーナーといった、さまざまな設備が充実していったんです。これがいわゆる”囲い込み”というやつですね」

「なるほど! 旅館の中で全てを完結できるように。昔からある大型旅館に行くと、居酒屋やスナックなんかも異常に充実してますもんね」
「はい。するとその結果、本来温泉街に流れるはずだった人やお金が旅館に留まり、結果として街全体の賑わいが失われてしまったんです
「なんと……! ディストピアの例え、ある意味で正解だった」
「その後、追い打ちをかけるようにバブルがはじけ、団体旅行客は激減。そのあおりを受けて全国で旅館の廃業が相次ぎました。この嬉野温泉でも、全盛期は80軒以上の旅館があったのですが、今はもう30軒程度しか残っていなくて……
「温泉地を訪れた時、たまに感じるもの寂しさはそういった背景があったんですね。街の建物は豪華に見えるけれど、やけに生気がないというか」
「そうですね。とはいえ当時の需要を考えると、旅館の大型化自体は間違いではなかったと思うんです。ただ時代は常に変化していきますし、インバウンドバブルが崩壊した今こそ、旅館のスタンスや考えを見つめ直すタイミングだと思います

嬉野にもう一度『交流』を。大村屋が考えるこれからの旅館


「旅館の形を見つめ直すために、北川さんは色んな試みをされていると」
「はい。大村屋が目指しているのは『開けた温泉旅館』ですね」
「無料で開放して建物もガラス張りにしちゃうみたいな?」
「それは流石にやりすぎですが、『開放』という意味では正解です。もともと嬉野は、江戸時代からたくさんの人が行き交う宿場町でした。当時の旅館は素泊まりのところが多く、ご飯やお酒は外で楽しむのが一般的。だからこそ町が発展していったそうです。いわば嬉野は『交流』によって栄えた町だったんです
「高度経済成長期とは真逆の考え方だったんですね」
「そういった史実に則って僕は、旅館の間口を広げて開放することで、街に『交流』を取り戻したいと考えているんです」
「間口とは具体的にどういうことですか?」
「一般的に旅館って、どこか格式高く思われていることが少なくないと思うんです。だからこそ大村屋は、これまでの旅館が避けてきた『素泊まり』や『一人客』用のプランを提供したり、地元の方のために温泉やラウンジを一般利用できるようにしました

 


大村屋の温泉。ぬめりのある泉質は「美肌の湯」とも呼ばれ、湯上りは38歳男性の肌でもスベスベに

 

「大村屋が、嬉野と旅行者をつなぐ『橋渡し役』を担っていると。温泉を銭湯代わりに使えるのは羨ましい!」
「そして、僕が最近力を注いでいる『嬉野茶時(うれしのちゃどき)』は、まさに地域で交流を図り、嬉野が誇る文化を面で伝えるために立ち上がったプロジェクトでして」

 

「ほう、どんな内容なんでしょうか?」
「ざっくり説明すると、嬉野に古くから続く温泉・お茶・焼き物という3つの伝統文化を、一つの軸の中で紹介するといった活動ですね。実は嬉野のように伝統産業が3つも残っている土地はかなり珍しいんです」

「僕も全国あちこち回ってますけど、たしかに3つ全部揃ってるところは少ないですね。かつ、それぞれのクオリティも高くて」

「せっかく素晴らしい文化があるのに、今まではそれぞれが独立していて、セットで体験できる機会がありませんでした。だからそれらを全てまとめて『食事会』を企画したんです」

 

「その日のためだけに肥前吉田焼で器を作り、料理人は全員嬉野出身。食前茶・食中茶・食後茶はもちろん嬉野茶。そして会場は、嬉野が誇る温泉旅館。オール嬉野にこだわって、写真の撮影やコピーライティングからなにまで、全て自分たちでやってみようと」

 

旅館経営者、窯元、茶生産者など、嬉野市内の産業に従事しているメンバーが主となっている

「撮影・ライティングまで自前! すごい覚悟だ。反応はいかがでしたか?」

「初回からたくさんの問い合わせがあり、大好評でした。本当はその1回で終わる予定だったのですが、予想以上の手応えを感じて、このプロジェクトは続ける意味があると確信したんです。『やっと地元の人と手を取り合うことができる』と」
「今まではあまり手を取り合う機会がなかったんですか?」
「そうですね。『嬉野茶時』を企画する前は、嬉野で旅館を営む僕らでさえ、お茶のことを全然知らないし、逆にお茶農家さんが旅館に入ったこともありませんでした。だからお互いにどこか他人事だったと思うんですよね
「『地元の人がその土地の宿に泊まったことがない』はあるあるかもしれませんね。同じ土地で活動していながらも、お互いのことを見ていなかった……」
「以前は、どの産業も都市部に向けて商売することばかり考えていました。でも、それでは結局ほとんどのお金が中央に流れるだけですよね」

「そこで、地元に目を向けたと」

「はい。『嬉野茶時』を通して、嬉野産業に関わる人たちで手を取り合い、地域を面として見せていくことの可能性に気づいたんです

 

「例えば、大村屋のバーカウンターでは地元の肥前吉田焼で嬉野茶を振る舞っています。そこでお茶を入れ、提供しているバーテンダーは地元のお茶農家さんなんです」

「さっき僕にお茶を出してくれた好青年が! つまり僕の全力の『うめ〜!!!!』のリアクションは、作り手本人に届いてたということですね」

「ええ、とても喜んでいましたよ(笑)。そうしてお客さんのリアルな反応を見るとお茶作りの励みになりますし、色んなフィードバックにもなりますよね」

 

「でも、それだけ色んな人が関わるプロジェクトとなると、まとめるのが大変そうですね。今まで旅館に入っていなかった人たちなわけですし」
「それが、ほとんど議論になったことはなくて」
「意外です。長く続いてきた産業同士、それぞれの主張があったりしません? 『うちの敷居はこんなお茶には跨がせられない!』みたいな……」

 


「昔、叔母から聞いた家訓に『一番になるな、一番はその土地だ』という言葉があるんです。僕たちはこの土地に温泉が湧くからこそ、商売ができている。だから、大村屋を一番にしたいというより、嬉野という土地を盛り上げたい。これはプロジェクトメンバー全員、同じように考えていると思います」
『一番になるな、一番はその土地だ』……いい言葉だ。みんなが土地のことを一番に思い、支え合っているんですね」
「はい。そういった意味では運命共同体みたいな存在に近いと思います。だからこそ、なおさらこの土地のことを考えながら商売をする必要性を感じますね」

25歳で借金6億円。突然訪れた15代目の継承


「旅館経営は、その土地の歴史と未来を背負うことでもあると。ちなみに北川さんは、かなり若い頃に旅館を継いだんだとか」
「25歳のころですね。でも、昔は旅館を継ぐ気は特になかったんです」
「え! なのにどうして宿泊業に?」
「高校を卒業したあと、東京の大学に進学してバンド活動をしていたんですよ。一時期は本気で音楽の道を志していて。そうなるとCD作ったりライブしたりで、お金がかかるじゃないですか。それで時給がよいバイトを探していたら、ホテルのベルボーイがかなり割がよくて(笑)。そこで初めて宿泊業の仕事を始めたんです」

「意外と不純な動機だった!」

 

「それが、やってみると予想以上に楽しくて。小さい頃から旅館で過ごしていたので、身体にその感覚が染み付いてたんでしょうね。その時に『ああ、やっぱり自分は旅館の息子なんだ』と感じて
「やっぱり小さい頃からの環境に受ける影響って大きいんですね」
「ええ。そこから一気に宿泊業に興味が湧いたんです。そこで、まずは外で経験を積もうと思って、大学を出た後は、新卒で旅館の立ち上げを手掛ける会社に就職しました」
「順調に宿泊業を極めるルートへ進んでいますね」
「でも就職して一年半くらい経ったある日、突然母親から『帰ってきてほしい』と連絡がありました」

「物語が動いた。一体何が……?」

「当時大村屋はバブル崩壊の煽りを受け、廃業寸前の状態。旅館を存続させるには、息子である僕が社長を継ぎ、新たに借金をする道しか残されていなかったんです
「ひい〜、25歳でそんな選択を迫られたと。借金の額としてはどれくらいだったんですか?」

 

「ざっと6億円近かったと思います」

「ロト6の一等を当てても全然足りないじゃないですか! 当時はまだ社会人二年目とかですよね。もはやイメージできる金額を超えてるというか、怖くなかったですか?」
怖かったですね。嬉野に帰ってくるなりすぐ、金融機関や税理士が一堂に集まる会議に参加したんですけど、議題は『どうすれば大村屋を再起できるか』という重たいテーマで」
「宿泊業に関わり始めたとはいえ、まだ2年目で中々どうこうできるテーマじゃないですね……」
「訳もわからないまま会議を終えて呆然としていたら、その会に出席していた強面な金融マンに呼び出されて『やる気あるのか?』って言われたんです」
「え! まさかのいきなり折檻?」
「いやいや(笑)、その人は続けて『君は若くて、まだ何も知らないんだからチャンスだよ。数字の見方を1から教えてあげるから、毎月の決算が出たら私のところに来なさい』って言ってくれたんです」
「めっちゃいい人〜〜! 『ビビらせてから、めっちゃ優しくする』という人身掌握術一級の持ち主ですね」
「その人には本当に助けていただきましたね。それで決算書や数字の見方を勉強しつつ、同時並行でお客様を呼ぶための企画を考え、余った時間は部屋の改装に充てて……。当時は必死でしたが、今まで大村屋と接点がなかったお客様に加え、少しづつ地元の方にも足を運んでいただけるようになりました」
「学びながら、同時に実践もしていったと」
「当時はちょうどインターネットが盛んになった時代で、自分から情報発信をできるようになったのは大きかったですね。もしこれが2、30年前だったら、きっとここまでうまくいかなかったと思います」

 

10月からはnoteで連載も開始。インターネットを使い精力的に発信を行う

旅館を閉めるな。旅館経営者が背負う宿命

「そうして頑張られていたさなか、コロナが襲ったと。渦中もずっと通常営業を続けていたそうですが、お客さんのキャンセルも続いているなかでなぜ?」
「うーん、そもそも温泉旅館って物理的な面で止めたくても止められないんですよ。毎日つけているボイラーやポンプを長期間運転を止めてしまうと故障してしまうことが多かったり……。あとは、思考停止になりたくない。こんなときだからこそ試せることもあるんじゃないかなって思ったんです」
「走りつづけながら考えようと思ったんですね」
「実際、未曾有の事態でしたから深く考えられていたわけではなくて、判断の決め手はなんとなくの勘だったんですけど……。良かったのか悪かったのかは未だにわかりません。リアルな話をすると、まだ2億近い借金があるんですよ。事業再生計画が順調に進んで金融機関さんの理解もあり、12年でなんとかここまできたんんですけど……」
「6億が2億になっただけでも超すごいですよ。僕なら気が狂いそう」
「借金が何億くらいになっちゃうと、もう今さら宿業を辞めてサラリーマンになっても返すのは相当難しいわけです(笑)。だから僕は、『旅館の歴史は借金の歴史』だと思っててて
「旅館の歴史は、借金の歴史……! すごいパンチラインだ」
「結局、旅館の相続や温泉の権利は、血縁関係にいる方が繋げやすいし、箱も大きいから借金も大きい。だから、仮に辞めたくてもやめられないっていうのが正直なところです。もしくはバンザイして破産するか、そのどちらか。これは旅館を家業に持つ人の宿命ですね」

 

「いや〜、すごいものを背負ってますね。宿命を背負った上で楽しむって言うは易しですけど、その精神でずっとやり続けるのは本当にすごいと思います」
「僕の場合は経営が一番厳しい状況で戻ってきたので、もうあとは楽しむしかないって割り切ってるところもあるんです。明日晴れてほしいと思っても、雨が降る時は降るじゃないですか。それくらい人間一人の力って無力なので、うまくいかないことはいかないし、うまくいくときは思いっきり楽しめばいい」

「人間ひとりにどうこうできることじゃないから」

「そうですね。楽観的に見えるかもしれないけれど、僕はそう思うんです」

おわりに

取材後は大宴会となり、北川さんとビールを酌み交わしました。これも旅館の醍醐味!

 

彼が手掛けるアイディアはどれも独創的なものばかり。しかし「企画を考える時に心がけていることはあるか」という質問に対して、北川さんは「自分がやる意味がないことはやらない」と答えました。

土地の歴史や文脈を理解し、一時のムーブメントに流されず、自分にとって、旅館にとって、地域にとって必要なものを考え、実践する。

 

その根底には、地元や人との繋がりに対する「愛情」と、嬉野に貢献したいという強い「想い」、そして全てを背負った上で“楽しむ”という北川さん流の「覚悟」があるように感じました。

 

その姿勢を崩さずにやり続けるからこそ、旅館に人が集まり、地域によい交流が生まれているのかもしれません。アイディアと地元愛に溢れる若旦那が、今後どのようにして嬉野を盛り上げていくのか、とても楽しみです。

みなさんも佐賀に訪れた際は、ぜひ嬉野に寄ってみてください。それではまた〜!

 

撮影:安東佳介

 

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