ジモコロをご覧のみなさまこんにちは、吉川ばんびです。
私は今回、故郷の兵庫県神戸市にある、三宮に来ています。
この神戸という街は古くから港町であることもあり、異国情緒豊かな異人館(昔、神戸に住んでいた外国人の洋館)が今もそのまま保存されていたり……
夜景が美しいスポットとしても有名で、昼夜を問わず多くの方でにぎわっていたり、兵庫県を代表する「繁華街」として知られています。
ちなみに夜の港に撮影に行くとカップルしかいません。ただでさえ風が強くて寒い夜の海で、より冷え冷えとした気持ちになることができるので、興味がある方はぜひ。
そしてこの「スターバックス北野異人館店」は旧異人館をそのまま利用した超オシャレでレトロな店舗。ただでさえ敷居が高いスターバックスが、さらに入店のハードルを上げにきている……。
こんな文化的にも豊かで美しい神戸・三宮の街ですが、24年前の「阪神・淡路大震災」によって、壊滅の危機に陥ったことがあります。
多くの人が、この世の終わりとも思える突然の天災にぼう然とする中、「落ち込んでばかりじゃいかん!神戸に元気を取り戻さねば!」と被災者のみなさんの背中を押し、復興に尽力し続けた人がいます。
それが神戸市民にとって大切なシンボルとも言える、生田神社の宮司(神社で最高の神職)を当時務めていた加藤隆久さんです。
2000年には加藤さんに兵庫県文化賞が与えられるなど、阪神淡路大震災において、生田神社が果たした役割はとても大きなものと言われています。
数々の大きな災害が起こった2018年。少なくない人が自らの崩れゆく街を見て絶望に近い気持ちを味わう中で、大きな復興を果たした神戸の街や生田神社から見習うところはあるのではないでしょうか。
昭和から3度の崩壊を経て「よみがえりの社」とも呼ばれる生田神社を率いた加藤さんにお話を伺います。
ちなみに今回の取材は、ライターのニシキドアヤトさんに同行してもらっています。目が死んでいるのは、待ち合わせで寒い中待たされていたからです。ごめん。
「ニシキドさん、今回はこんな感じで取材を進める予定です」
「なるほど。今日お話を伺うのは生田神社の宮司さん…なんですよね?」
「加藤さんは宮司を引退して、今は名誉宮司ですね。あとは神社本庁と呼ばれる全国の神社を取りまとめる組織の『長老』をしているみたい」
「え、長老!? え、そんな人本当に現実世界にいるの?」
「全国に11人だけいるらしいです」
「マジで! ゲームの中でしか見たことない。というかめっちゃ偉い人じゃないですか」
「そうです。だから失礼のないようにしてくださいね」
「もちろんですよ!」
「(大丈夫かな…)よろしくお願いします」
「よみがえりの社」を導いた父の声
「加藤さん、こんにちは。 本日はよろしくお願いします」
「こんにちは。今日はよくきてくださったねぇ。こちらこそよろしくお願いします」
「すごく立派な建物ですね! 歴史もたしかすごいんですよね?」
「そうですねぇ。西暦201年にできたとされていますから、かれこれ1800年以上になりますか」
「すごいとは聞いてましたけど、1800年以上の歴史ってヤバいですね!卑弥呼とかの世界じゃないですか」
「『神戸』という地名の由来にもなる逸話もこの生田神社から生まれたんですよ」
「えっ、もしかして生田神社ってめちゃすごい場所?」
「だから最初に言ったじゃない」
「でもこれだけ立派な建物ということは、震災のときもほぼ被害はなかったとか?」
「いや、そんなこともなくてですな。あの日は寝ておりましたら、突き上げるような揺れが突然来たので、急いで外に出たんですよ。すると朝もやの向こうに、拝殿が崩れてペシャンコになっているのが見えましてなぁ」
「うわぁ、こんな状態だったんですか……。これを見たとき、さぞかし心を痛められたのでは……?」
「えぇ。その瞬間、頭を鈍器で殴られたような、ものすごい衝撃を受けたのを覚えています。石の鳥居もポッキリ折れてしまったし、楼門という神社の門も傾いてしまっていたしねぇ」
「震災当時、私はまだ小さかったのであまり記憶にないのですが、そんなにひどい状況だったんですね……」
「神戸の街全体も建物が倒壊していて、『いよいよ私の人生もおしまいだ』という気持ちになりましたよ」
「それから『そういえば、拝殿の中にある御本殿は?御神体(神様が宿る物体)は無事だろうか?』とハッと気が付きまして」
「あ、そうか……拝殿の中には御神体が……」
「『こんなにペシャンコになってしまっては……』と思っていましたが、これがなんと無事で。そのときは、思わず涙が出るほど嬉しかった」
「あれだけの被害の中で御本殿と御神体が無事だったというのは、とても不思議というか、神秘的な話ですね」
「そうですなぁ。でも、これまた不思議なものでね、倒壊した拝殿を前に私が落胆しておりましたら、頭の中で突然、亡き父親の声が聞こえましてな」
「えっ、声が?」
「『こら、何をしょげとるんだ!あなたは神社を建てたことがあるか?今こそ、この神社を復興させるのがあなたの使命じゃないか!』と」
「なにそれすごい、まさに神の声」
「お父様も以前、神社を建て直されたことが?」
「そうそう。戦争で600発の焼夷弾を受けて焼けてしまった生田神社を再興させたのは、以前宮司であった私の父だったんですな」
「600発……!?」
「もう全て焼かれて、草木一本残っとらんかったと思いますよ。戦後、父はこの神社を復興させねばと、神社の氏子である商店なんかに寄付のお願いに行くわけなんですが、どこも大変な時期なので、門前払いを食らうわけです」
注:氏子…氏神と呼ばれる地域の神様が守ってくれる範囲に住む人たちのこと。
「終戦後ですから、仕方のないことでしょうね……」
「それでも父は諦めることなく何遍も何遍も、通って頭を下げ続けたと言うんですよ」
「神社を復興させるためとは言え、私なら心が折れてしまいそうです」
「するとある日突然、ある商店の店主が謝ってきたというのですよ」
「突然! 何か理由があったんですか?」
「毎日、神様や氏子のために歩き回って頭を下げ続ける父の姿に、自らの浅はかさが恥ずかしくなった、と。お願いしていた額の10倍もの金額を募金してくださったんですよ」
「すごい、お父様の思いが届いたんですね」
「はい。そうしてみなさまのご協力もあり、父は朱塗りの御社殿を再び造りあげることができました。父は生田神社の宮司になる以前にも、滋賀の多賀神社の大造営や、焼失した岡山の吉備津彦神社の復興にも携わっておったもんですから、『造営宮司』なんて呼ばれておりましたな」
「建て直しのプロじゃないですか! 『造営宮司』って二つ名かっこ良すぎでしょ」
「そんな父の言葉が聞こえたものですから、『そうだ、これこそが私の使命だ!生田神社を復興させることが、神戸の街やみなさんの元気を取り戻すきっかけになるのではないか』という気持ちになりましてね」
「加藤さんを奮い立たせてくれたんですね」
「そんなわけで震災の翌日にはもう、業者に連絡をして、神社を建て直す準備に取り掛かりました」
「震災の翌日に!?」
「まずは神戸の中心であるこの生田神社を建て直すことが、街の復興への第一歩じゃないかと思ったんですよ」
「『造営宮司』の後継ぎは復興長老だった」
「なにそれ今考えたの?」
「でもめちゃくちゃ大変だったんじゃないですか?」
「それがですね、大変ありがたいことに氏子のみなさまからご寄付をいただいたり、全国各地の方々や神社が次々と支援をしてくださったんです。あのときのご恩は忘れることができませんよ」
音に飢えた神戸の人々に、お祭りを
「ちなみに、生田神社の再建にはどのくらい時間がかかったんでしょうか?」
「震災から1年半くらいでしたね」
「えっ、たった1年半で!?」
「一刻も早い復興を目指して、必死でしたからね。『もう二度と崩れないように』という願いを込めて、耐震強度の面にも配慮しながら造り上げました」
「復興が終わるまで、一般の方が境内に入ることはできなかったんですか?」
「いえいえ、工事をしている最中も、実はお祭りとかやってましたよ」
「お祭り?」
「『東京佼成(こうせい)ウインドオーケストラ』という、世界中で公演をやっている有名な楽団から70人ほどの人が演奏をしてくださると言うので、すぐさま境内に舞台を作ってですね。それで実際に来ていただきましたら、大盛況で」
「どんな音楽を演奏していただいたんですか?」
「『くるみ割り人形序曲』とか、『坂本九メロディ』とかですね。ポピュラーなやつを」
「しんみりした曲でなくて、そういった曲を演奏してくれたのも、何だか愛を感じますねぇ」
「そうですね。他にも色んな芸能の方が来てくださいました。ほら、こういうブラジルからサンバのお姉さんが来たり」
「ほんとだ!神社ってサンバOKなんですね!!」
「んん……?うん…………」
「急に大きい声出したら加藤さんビックリするから」
「あとは震災の翌年、節分祭にシンディー・ローパーが来てくれたんですよ」
「シンディ・ローパー?」
「アメリカで『ロックの女王』と呼ばれた世界的な女性歌手でねえ」
「えええ!でも、あのシンディー・ローパーがなぜ生田神社へ?」
「彼女が前年に神戸で公演をやったとき、それがすごく良かったそうなんですよ。あの震災は世界でもニュースになったもんですから、それを見た彼女が『ぜひ神戸に行って支援をしたい』と」
「まさかのシンディー・ローパー側からの申し出だったのか」
「そんな折に生田神社で節分のお祭りがあったもんですから、着物を着てもらって、『福は〜うち!鬼は〜外!がんばって神戸!アイラブユー!』と豆を撒いてくれたんですな」
青い着物を着ているのがシンディー・ローパー
「ものすごい人が押し寄せたんじゃないですか……?」
「そうそう、それがこのときの写真なんやけども……」
「えっ?これ全部人? 駅から神社まで人でギュウギュウになってません!?」
「いや〜まさか15,000人も集まってくれるなんて思いませんでしたなぁ……。安全が確保できないから、豆まきが始まって2分で中止になっちゃった(笑)」
「彼女はとっても気さくな人で、『宮司さんありがとう!がんばって!』と私の頰にキッスをしてくれましてな(照れ笑い)」
「すごい、今日一番の笑顔」
「素敵な人なんですね〜。でも震災後『お祭りなんて不謹慎だ!自粛しろ!』みたいなムードというか、批判のようなものはなかったんですか?」
「さすがに震災のあった年にすぐお祭りをするというのは、自粛しました。翌年の開催もみなさん躊躇っておられましたが『いや、ここはぜひやりましょう』という私の提案で、お祭りをやったり音楽を演奏してもらったりしたんですね」
「さすが復興長老」
「最初、どんな雰囲気でした……?」
「これが意外にも、ものすごい活気を生み出しまして、みんなが神社に集まってくれるようになりました。当時、神戸のみなさんは、音に飢えておられたんです」
「確かに被災地の生活となると、娯楽や音楽を楽しむ機会が失われがちですもんね」
「そうそう。自粛も大事なんやけど、いつまでも落ち込んでいられませんからなぁ」
「被災者の方たちはお祭りに参加したり、その様子を見たり聞いたりすることで、『いつまでも暗い気持ちではいられない』と、元気付けられたのかもしれませんね」
「そうですね。もちろん街を修復することも大切なのですが、『心の復興』というのもとても重要なことだと思うんです。お祭りを通してみなさんが助け合い、支え合い、一つになって、幸せを分かち合う。それは復興に繋がる大きな力を生み出すのだということを、認識させられましたね」
「あとは加藤さん、多分お祭り好きですよね?」
「えへへ、そうそう。実はお祭りが好きなの」
「復興」に尽力した加藤さんが伝えたいこと
「2011年の3月に、東日本大震災がありましたよね。その時私はテレビの向こう側の風景を見て呆然としてしまって」
「ラジオで初めてニュースを聞いた時『これは大変なことだぞ』と思いましたですね。阪神淡路大震災の記憶が蘇ってきて、さらにあちらは津波まで来たといいますから、それはとんでもない被害だろうと……」
「やっぱり加藤さんもそうだったのですね」
「だからまず私どもにできることはと、義援金を神社から送りまして、それから拝殿前にも義援金の募金箱を設置して、参拝者の方からいただいたものをお送りしたんです」
「すごい、さっそく支援を!確かに生田神社がそうだったように、復興のためにはお金が必要ですもんね……」
「次に奈良の東大寺で少しでも早く人々の心が落ち着くようにと祝詞(のりと)を読み上げて祈りを捧げたり、被災地で虎舞(とらまい)という民族芸能をやったり、ということもありましたね」
※祝詞:神事の行事で、神主が神への祈りの言葉を捧げること
「お寺で、神社の宮司さんが祝詞を上げるというのは初めて聞きました……」
「なかなかないでしょうな。でも、祈りの気持ちというのは重要なものだと、そのとき感じました。あと復興支援でやったこととしては、水ですね」
「水、ですか?」
「はい。阪神淡路大震災のとき、水がなくて大変困ったんです。そんなときに、みなさんが全国からタンクで水を運んでくださったことが、本当に助かった。だから、今度はこちらから被災地へタンクに入れた水をたくさん運んで行ったんですな」
「水がないというのは、あらゆることで困りますもんね」
「我々も被災する前には、水なんて当たり前のことのように思ってましたけども、それじゃあいかんと思いました。だから阪神淡路大震災の後、神社の裏にある『生田の森』の中に、井戸を掘ったんです」
「そういえば確かに森の中に水が流れてましたけど、あれもそのときに掘り当てたものですか?」
「そうそう。私の勘で『ここや!掘ってくれ!』と言いまして、80メートルほど掘り進めましたら水が出てきました」
「えっ、勘?」
「勘!」
「ふつう、勘で80メートルも掘る……? 復興長老、すごすぎじゃない?」
「阪神淡路大震災では、神戸の長田あたりは火事もひどかった。そういうこともあって震災後、もしものときのために、神社の池にポンプを作って、消火栓とホースを設置しました」
生田神社の御池。鯉やカモ、アヒルたちがたくさん!
「すごい、震災後に色んな設備を整えられたんですね。ものすごいパワーだ」
「人生というのは順風満帆に行くものではないと思うんですね。必ず挫折が訪れるんじゃないかと。その時のために備えることはとても大切なことですねぇ」
「挫折というのは地震や他の災害だけでなく、色々なことで起こりうることですもんね」
「しかし、『挫折をしたときに、泣いている心をいかに切り替えて前向きに進んで行くか』、というのは震災を体験して、とても大切なことだと思いましたですね。それを、ぜひみなさんに伝えたいですね」
自粛ムードから一転、活気を取り戻すための「心の復興」
震災当時、私は3歳でした。実家がほぼ全壊したためしばらく避難所で生活していました。寒さや飢え、絶望からか、被災者の方たちのストレスは想像を超えるものだったのでしょう。避難所の小学校で、夜中に男性同士が怒鳴り合いの喧嘩をしていたのをおぼろげに覚えています。
今回の取材に関して、私は「復興とは何か」という疑問を持ちながら臨みました。
学校や会社にまた通えるようになったら。電車やバスが、元通り街を行ったり来たりし始めたら。崩れている建物が目立たなくなったら。
多分色んな基準があるんだろうけれど、加藤さんの言う「心の復興」は、私にとって最もしっくり来るものだったように思います。
震災という、人間の力では食い止めることができない自然災害。特に阪神淡路大震災は明け方であったためほとんどの人が就寝中であり、建物の倒壊や倒れてきた家具の下敷きになって多くの人が亡くなりました。。きっと、多くの人が心に大きな傷を抱えたと思います。
でもその傷を癒すための第一歩は「自粛」や「不謹慎」などではなくて、人と人とのつながりを感じたり、音や娯楽に触れたりして、少しでも元気を取り戻すことなのかもしれません。
「神戸の人たちは元気で、一致団結する力が強いんですよ」と加藤さんは言います。
阪神淡路大震災から24年。今、神戸は再び活気を取り戻しています。
みなさんにとって「復興」とは、どんなものだと思いますか?
この記事を通して、改めて「災害と復興」について考えるきっかけとなれば幸いです。