『B-BOY PARK MC BATTLE』、『ULTIMATE MC BATTLE』、『戦極MC BATTLE』など、数々のMCバトルで優勝を果たし、『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日)における史上初の全ステージクリアでも話題となったラッパーの晋平太さん。
その輝かしい戦歴の裏には、「弱みを握られないために人との接触を避け、本当の自分を隠していた」という知られざる過去があったといいます。
日本各地のローカルでヒップホップを愛する人たちとの出会ったのをきっかけに、「人間の心を取り戻した」と語る晋平太さんに、地元をレペゼンするという生き方について伺いました。
約15,000字の超ロングインタビューをお楽しみください!
※レペゼン(「代表する」という意味を持つrepresentを短縮した和製の言葉)
●取材の経緯
兼ねてからローカルとヒップホップの関連性について深く考えていたジモコロ編集長の柿次郎。とあるイベントで知り合ったラッパーの晋平太さんにその思いを伝えて、半年以上が経過した2018年11月上旬に本企画が動き出しました。
晋平太さんが東京都・東村山をローカルとして捉えた活動に本腰を入れた頃、「ジモコロ読者に自分の活動を知ってもらいたい。ヒップホップの話はできても、ローカル視点の話をしっかりできるメディアは他にないし、柿次郎さんは両方の価値を知っているでしょう」と連絡が。二人は奇しくも同い年。育った環境や仕事は違えど、ヒップホップに魅了された1982年生まれの共通項をエネルギーに取材が決まりました。
ライターは、函館出身でストリートカルチャーに明るい阿部光平。そしてカメラマンは長野・飯山出身でヒップホップ愛にあふれた小林直博。ローカル×ヒップホップの切っても切り離せない文化と言葉について、約15,000字のロングインタビューでお届けします。
●本記事の見出し(クリックで飛べます)
●登場人物一覧
東京生まれ埼玉育ち。1982年生まれ。フリースタイルのMCバトルで数々の優勝を勝ち得たラッパー。現在は東京・東村山を中心にローカル的な活動をしている。
北海道出身。1981年生まれ。旅行誌やタウン誌をメインに仕事をしつつ、地元・函館と東京を行き来しながら『IN&OUT-ハコダテとヒト-』というローカルメディアを運営。本記事のインタビュー・執筆を担当。
大阪府出身。1982年生まれ。ジモコロ編集長。大阪時代に音楽ライターを目指していて、23歳の頃に日本語ラップWEBマガジン「COMPASS」を立ち上げるくらいのヒップホップ好き。本記事の企画・編集を担当。
MCバトルで勝つことだけを考えていた東京生活
阿部「晋平太さん、はじめまして。本日はよろしくお願いします!」
晋平太「こちらこそ、よろしくお願いします。わざわざ東村山まで、ありがとうございます!」
阿部「もともと晋平太さんは、この辺りが地元なんですか?」
晋平太「えっと、生まれたのは東京なんですけど、小学生から二十歳過ぎまでは狭山ってところに住んでいたので、ずっとこの辺りで遊んでましたね。狭山、東村山、所沢あたりは地元って感じです」
阿部「当時、地元ではどんな日々を過ごしていましたか?」
晋平太「ここら辺は、やることが何もないんで、コンビニとか大型ゲームセンターに集まるみたいな感じでしたね。そこにいろんな人が来て、知り合いができてっていう」
阿部「いわゆる地方都市の若者ですね。そういう暮らしに物足りなさを感じることはありました?」
晋平太「ありましたね。地元にいても仕方ないと思ってました」
阿部「『地元にいても仕方ない』というのは?」
晋平太「僕にとっては〝何のチャンスもない場所〟っていうか。当時はもうヒップホップと出会って、ラップをやってたので、『東京でカマさないと、世の中に出て行けねーな』と思ってたんですよね。活動自体は地元でもできるけど、『ここから有名になるまでの道のりは果てしないなー』って。まだネットもなかったですし」
阿部「この街にいても夢は叶わないと」
晋平太「はい。それで、22歳のときに東京へ出ました」
阿部「東京では、ヒップホップの活動を中心に生活していたんですか?」
晋平太「そうですね、MCバトルで勝つために出て行ったので。東京でラップを仕事にしようっていう想いだけで過ごしていました。だから、友達とかはぜんぜんできなかったです」
阿部「それは、敢えてそういう風に過ごしていたんですか? ストイックに、自分を追い込んで」
晋平太「うーん。そのときは、誰も彼もがライバルに見えちゃってたので、自然とそうなってたんだと思いますね」
阿部「目に入る人すべてが敵みたいな」
晋平太「そうそう(笑)。東京では郵便局で働いてたんですけど、職場でもぜんぜん馴染めなかったですねー。『俺はお前らとは違うんだ』みたいに思ってないと、やってられなかったんですよ。結果を出さないと、続けられないとも思ってたし」
阿部「とがってたんですね(笑)」
晋平太「だから、ヒップホップの現場にいても、仕事場にいても、周りの人を受け入れられない人間でしたね……。そんな人間が他の人から受け入れてもらえるわけがないっていうのは、今になればよくわかるんですけど」
阿部「ラッパーの言葉って、自分の生い立ちや、地元のことを背景として語られることが多いじゃないですか。当時の晋平太さんは…」
晋平太「そういうのは一切なかったです」
阿部「そうなんですね。MCバトルで戦うときの言葉は、どこから生まれていたのでしょう?」
晋平太「『個』ですね、完全に『個』。僕、晋平太という人間がすべてでした」
阿部「自分が置かれている境遇から言葉が生まれていたってことですか?」
晋平太「境遇というか、自分のメンタルですね。何かを背負ってるとか、誰かのためとかは一切なくて、とにかく自分が勝つため、相手を負かすために、どんな言葉を使えばいいのかを考えてました」
阿部「『相手を負かすために生み出す言葉』かぁ」
晋平太「『どこで生まれて、どこで育っても、自分はこういう人間だ』と思って生きてましたね。それに、当時はもう物事をメリットかデメリットかでしか考えていませんでした。人付き合いとかも含めて」
〝武器〟から〝楽しみ〟へと回帰したヒップホップ
阿部「『自分が、自分が』というマインドだった晋平太さんが、今は志村けんさんの『東村山音頭』をラップにしたりだとか、お年寄りを対象にしたラップ講習を実施したりだとか、地元に根ざした活動を積極的にされているじゃないですか。その心境の変化に、とても興味があって」
晋平太「MCバトルをやりまくって、『B-BOY PARK MC BATTLE』で優勝したり、『ULTIMATE MC BATTLE』(以下、『UMB』)で2連覇したりできたんですけど、ぜんぜん満たされなかったんです」
阿部「それだけの結果を出しても」
晋平太「もちろん嬉しかったんだけど、『自分以外のためにはなってないな』って思うようになって……。そうなってきたら、なんか疲れちゃったんですよね」
阿部「MCバトルで勝つために上京して、結果を出したにも関わらず、満たされることはなかったんですか」
晋平太「満たされなかったですねー。だけど、幸運なことに2013年からUMBの司会をやらせてもらうことになって、それで日本全国を回ったんですよ。本当に47都道府県のすべてを。その経験が自分の転換期になったんです」
阿部「具体的に、どんな経験をされたんですか?」
晋平太「全国を回っている中で、自分が今まで見向きもしなかったような、地元でヒップホップをやってる人たちの世話になった経験が大きくて。そうやって地方でシーンを作っている人たちがいないと、全国大会なんかはできないんですよ。そればかりか、そういう人たちがいないと日本のヒップホップとか、僕自身の存在とかもあり得ないんだなっていうのがわかってきて」
晋平太「僕が育った埼玉よりも、環境的にいったら活動するのが容易じゃない地域の人もめちゃくちゃいっぱいいるんですよ。人口の総数が少ない中でも、それが好きだからっていう理由で、クラブを経営したり、ヒップホップをやってる人たちがたくさんいて」
阿部「それぞれの地方のシーンを支えている人たちが」
晋平太「そうです。その頃にちょうど、『高校生RAP選手権』がブームになっていて、若いラッパーが一気に増えて、地方で出会った子たちがスターになっていくってことも目の当たりにしてたんです」
阿部「あー。次世代の台頭ですね」
晋平太「そういうのを見ていて、『この子たちのために環境を整えてあげないとダメだな』って思うようになったんですよね。自分と同い年くらいの地方の人たちも、同じような意識を持っていて。彼らからすごく刺激を受けて、『今まで自分がかっこいいと思っていた人物像は間違ってたのかもしれない』と思うようになったんです」
阿部「そこで価値観が崩壊したんですか。『自分が、自分が』っていうスタイルでやってきたのは、もしかしたら間違いだったんじゃないかと」
晋平太「そうそう。もちろんそれも大事なんだけど、『自分ばっかりだと意味ねーな』って思ったときに、地方でヒップホップ全体の未来を考えてる人たちと会って、そっちの方がかっこいいなと思ったんですよね。自分ひとりのためじゃなくて、場所を作って、繋げて、広げて、それを続けている人たちの方が」
阿部「自分ひとりではなく、ヒップホップ全体の未来を見据えるスタンスで活動している人は、晋平太さんの地元にもいたんですか?」
晋平太「いたんですよ。若い頃は、ぜんぜん目がいかなったんですけど、東村山にも、所沢にも、そういう先輩がいて。そういう人たちと一緒に何かやりたいなと思って、所沢で地元のダンスチームと『KIDS HOP PARK』というイベントをはじめたんです。中学生以下のMCバトルとか、ダンスバトルをするヒップホップのイベントなんですけど。
そこには小学生も中学生も、僕の先輩とかもチームメイトとしていて、そういう環境でやってみたときに、『これがヒップホップだ!』って心の底から思ったんですよね」
阿部「東京で自分ひとりで戦ってた時代と、地元の人たちと一緒にやってる今とでは、ぜんぜん違うものになったんですね。晋平太さんにとってのヒップホップが」
晋平太「もうまったく違います(笑)。だけど、今やってるのが自分にとってのヒップホップなんだってわかったんですよね。もちろんそれは、ひとりで戦ってきた時代を経たからわかったことだし、その時代に得たものもあって。例えば人が見てくれるようになったとか、発信力を得たっていうのは、ずっと地元にいたら達成できなかったことですから。
そういう意味で、僕が持ってないものを地元の人は持っていて、地元の人が持ってないものを僕が持っている。それが一緒にやれると、ヒップホップがもっと広がるんだってことを実感してます」
阿部「今のお話を聞いてて思ったんですけど、『自分のためだけじゃないヒップホップをやりたい』という意識の変化が、場所を必要としたってことなんですかね?」
晋平太「きっと、そうなんでしょうね。自分のためだけにヒップホップをやって、全国を回って、各地のライブにお客さんが入ってくれれば、食っていける。それも、もちろん正しい道だし、それができるなんてものすごい才能だし、素晴らしいことなんだけど、それよりも僕は全国大会をみんなで運営したときに、力を合わせるっていうことの重要性を肌で感じたんです」
阿部「純粋に楽しかったんですか? そっちの方が」
晋平太「大変だったけど、楽しかったですね。みんなで大会を作り上げていくと、イベントを開催するためには、フライヤーを作ってくれるデザイナーさんがいて、ライブの音響をやってくれるPAさんがいてとか、たくさんの人が関わっているのがよくわかるじゃないですか。僕はそういうスタッフに支えられながらやっていたので、自分ひとりでできることは少ないってことに気づいたんです」
阿部「目指すところがちょっと変わったんですかね? 『自分が有名になりたい』というところから、例えば、ヒップホップの裾野を広げたいみたいな目標に」
晋平太「ヒップホップが楽しいものなんだってことに、スッゲー久しぶりに気づいたんですよ」
阿部「あぁ、戦いの武器だったものが、楽しいって思えるように」
晋平太「そうなんですよ。もともとヒップホップって、〝Peace Love Unity & Having Fun〟っていう原則のもとに成り立ってるんですけど、僕にとっては武器になっちゃってて」
阿部「武器に」
晋平太「もちろんバトルもすごく重要な要素ではあるんだけど、なんのためにバトルをするのかっていったら、〝Peace Love Unity & Having Fun〟のためなんですよ。だけど、いつの間にか自分の中では、バトルするためのヒップホップになっちゃってて」
晋平太「だけど、そうじゃないヒップホップが地元にはあった。そこで、一緒にやらせてもらうことになって、『楽しいなヒップホップ』って思い出したんです」
阿部「ヒップホップの原点回帰に!」
晋平太「そう。変な話、地元で子どもたちのイベントやるとか、東村山音頭をラップでやるとか、そういうことより外に出て行って仕事をした方がお金になるし、面倒臭いことをやらずに済むんですよ。地元ではイベントひとつやるにしても、自分たちでステージを作るところからスタートなので。
でも、イチから作り上げるのがスゲー大切だなって思うようになったんです。ステージに『立ってもらう』ことも、自分が『立つ』ってことも、そういう土台の上に成り立っているんだとわかったので。昔はあって当たり前だと思っていたことが、本当はそうじゃないってことに気づけたんですよね」