2011年3月11日に発生した東日本大震災。被災地には、当たり前ですがたくさんの子どもたちがいました。彼らは彼らなりの感覚で、「あの日」を記憶しています。
そして震災から数年後、「あの日」の記憶を語り始めた3人の子どもがいました。
当時、津波で大きな被害を受けた宮城県東松島市の小学5年生だった雁部那由多(がんべ・なゆた)さん、津田穂乃果(つだ・ほのか)さん、相澤朱音(あいざわ・あかね)さん。
彼らは中学3年生の時から「語り部」の活動を始めたのです。
そして2016年。3人の話は『16歳の語り部』という1冊の本になります。
大人でさえまともに受け止めることの難しかった「あの日」のこと。例えば雁部さんは、こんな風に綴っています。
息も切れぎれに図書室に戻ると、同じクラスの友だちと合流できました。ふと奥のほうに目をやると、体育館から移動してきた人たちが窓のところに集まって、口々に何かを言いながら外を見ています。津波が押し寄せる中、逃げ惑う人、車に乗ったまま動けなくなってしまった人に向かって「校舎に上がれ!」「逃げろ!」「早く!早く!」と、みんな大声で叫んでいました。
僕は呆然として窓に歩み寄りました。国道に面する窓から、車に乗ったまま津波に流されていく男の人が見えました。黒い津波が、がれきとともに、家や車、人を流していきました。大人も子どもも、日が暮れるまで、壊れていく町の様子を窓からずっと眺めていました。
(『16歳の語り部』より・以下引用部は同様)
僕はこの文章を読んで、衝撃を受けました。それまでにも震災の体験談は目にしていました。いくつもの息を呑むような話がありました。
でも、16歳の彼らがありのままに語る言葉は、なぜかとりわけ僕の胸に深く突き刺さったのです。
いつか、彼らに会ってみたい。直接、話を聞いてみたい。そんな思いは、出版から2年が経った今年、叶うこととなりました。
話を聞かせてくれたのは、「16歳の語り部」の一人である相澤朱音さん。
彼女は津波で家を流され、大好きだった子犬と親友を失いました。一時は 「私なんか生きてる価値ない」とまで思いつめるも、友人の存在や「語ること」を通じて、前を向くことができたといいます。
18歳になった彼女は今、どんな言葉で「あの日」のことを語るのだろう? そしてどんな風に日々を過ごしているのだろう?
それを確かめるべく、僕は宮城へと向かいました。
みんな、言えずに苦しかったものを抱えている
「相澤さん、こんにちは。本を出されたのが2年前なので、今は18歳に?」
「そうですね。昨日が高校の卒業式でした」
「なんと、卒業おめでとうございます! 高校生活は楽しかったですか?」
「はい。私は放送部だったんですけど、放送室って防音なんですよ。だから友達同士で気兼ねなくおしゃべりしたり、大音量で音楽をかけたり。楽しかったですね」
「いいですね、青春だ。話がいきなり逸れて恐縮ですけど、今の高校生って何を使って音楽を聴くんですか? CDとか買います?」
「Youtubeとかも使いますけど、CD買いますよ!私、デジタルは苦手なので…(笑)。電子書籍も目が疲れますよね。紙の本が好きです」
「僕も本好きなので、すごく親近感がわきました」
「さて、まずは震災直後のことについて伺ってもいいでしょうか」
「そうですね……家族は無事だったんですが、家が津波にのまれて全部ダメになりました。私の大事にしていたものも、ほとんど流されてなくなりました」
「それは大変でしたね……。相澤さんの住んでいた宮城県東松島市は津波の被害が大きかったんですよね。市内の97%の住宅が被害を受け、市の面積の65%が浸水したとか(※データは『16歳の語り部』より)」
「ただ、はじめは家がなくなった実感はなくて。それより、飼い始めたばかりの子犬のナイトが行方不明になってしまったことで、頭がいっぱいだったんです。それにその後、もっとショックな出来事があって」
学校がはじまる少し前、3月の終わりのことでした。
親友が亡くなったことを、父に聞かされました。
私の心の中には ずっと引っかかっていることがあります。そして、それは今も引っかかったままなくなりません。
震災の前日、3月10日の帰り道、実は、その子とケンカ別れをしていたんです。たぶん、本当にちょっとしたきっかけだったと思います。今となっては、どうしてケンカをしてしまったのか思い出せません。理由は思い出せないけど、ケンカをしてしまったことだけはずっと覚えています。
「あのときのこと、私、謝れていない」
かわいがっていたナイトは、今も行方不明のまま。家も流された。
そして、大切な親友も亡くなった。
津波が、私の大切にしていたものを全部、持っていったのです。
「親友との最後の思い出が、ケンカ別れしたことに…」
「はい」
「本を読んでいて、そこから相澤さんが『自分の生きている価値が見出せない』とまで塞ぎ込んで行く様子がすごく苦しくて。死にたいから具体的に行動に移そうとかではなく、ただ漠然とネガティヴな想いに捉われ続けていたというのに、より切実なものを感じたんです」
「そして、そのネガティヴな想いをなかなか吐き出せなかった」
「そうですね。心配をかけるのがいやで、大人には話せなくて。亡くなった親友とも仲の良かった穂乃果にだけは、唯一話せました」
実際、穂乃果に話すことで、気持ちの整理がついてラクになりました。でも、ラクになるのは少しの間だけ。しばらくすると、自分の中のどろどろした気持ちが、またぐるぐると回りはじめます。そのたびに、私は布団の中で毎晩泣きました。
そして、それを自分の中で溜め込んでいると一気にあふれ出てしまいそうになるから、また少しずつ吐き出さないといけない。
苦しくて、いっぱいいっぱいだったんだと思います。
「日常が一変して、それだけでもショックじゃないですか。その上、お友達のことがあり……震災の『目に見えない影響』も大きかったんだと感じます。皆さん、心の中にさまざまな想いを抱えていて、なかなか言えなくてという」
「小学校の時の友達が本を読んで『そんな風に思ってたんだ』と泣いてくれたんです。その時、やっぱりみんな、言えなくて苦しかった思い出があるんだな、と思いました」
「語ること」が、前を向かせてくれた
「その後、相澤さんが語り部としての活動を始めたのは、中3の春休みからでしたよね。石巻西高校でのシンポジウムが初めてだったとか」
「そうですね。『16歳の語り部』を一緒に出した雁部と穂乃果と一緒に参加しました」
「二人とは小学校からの同級生で、中学校では同じ生徒会執行部のメンバーでもあったんですよね」
「はい。だから小学5年生のときの震災も、すごく近い場所で経験しました。だけど、シンポジウムで二人が話した被災のときの話は、初めて聞くことばかりだったんです。そこで震災の経験は人それぞれ違った体験や感じ方があるんだな、と驚きました」
「もう一つ、そのシンポジウムの前に、被災の経験を話すことの意味に気づく出来事がありました。中3の夏休みに、2泊3日で三重県の中学生と交流したんです。当時は南海トラフ地震について発表された時期で、海の近くに住んでいた現地の子はとても不安そうでした」
「南海トラフ地震が起きれば、三重をはじめ広い地域で津波の影響が報道されていましたね」
「それで『あんなことがあったのに、海が怖くないの?』と、その子に聞かれたんです。私は『別に、怖くないよ』と答えました」
「怖くはなかったんですか…?」
「昔から海が好きでしたし、震災でショックだったのは親友が亡くなってしまったことと、子犬のナイトがいなくなってしまったことだったので。すると、その子は少しだけ安心してくれたようでした」
「これから来る災害を心配している人に、私の経験を話すことで少しでも不安を減らせるかもしれない。親友が亡くなったことをただ悪かったことにするのではなく、震災を前向きに考えることができるかもしれない。そのとき、そう思ったんです」
「うまく言えないんですが、そんな風に外向きに変われたのはすごく強いことだと思います」
「ただ、心は目に見えないので、『心の復興』がどこまで進んでるかはわからないです。暮らしの復興以上に、ずっと時間がかかると思います」
「誰でも語り部になれる」
「その後、東京をはじめ各地の講演などでお話されるようになり、『16歳の語り部』が出版されます。本についてはどのように思っていますか?」
「本だったら、声が届かないところや行けないところまで私たちの経験を伝えてくれるんじゃないかな、と」
「そんな風に、できるだけ広く伝えたい、と思うようになったきっかけはあったんですか?」
「高校1年生の1月に、東京の防災サミットに参加したんです。そのときの、二つ上の先輩の言葉ですね」
「先輩は『今日聞いたことを、帰った時に家族や友達に話して、話を広げてください。語り部になれるのは私たち経験した人だけじゃないんです』と言っていたんです。その言葉にすごく感動して、私が語り部の活動をするとき、いつもその話をさせてもらっています」
「それはつまり、僕でも語り部に……?」
「例えば『16歳の語り部』を読んで、本のことを誰かに話してもらえたら、それは語り部だと思います」
「自分が感じたことを、自分の言葉で語る。そして震災の話を広めるということですね。 『語り部』という存在を、どこか特別視してしまっていたことに気づきました」
「その先輩の言葉を聞いて以来、輪を広げることを意識するようになりました。たくさんの人に私たちの経験を知ってもらって、少しでも次の災害が起きた時に被害を受ける人が少なくなればいいなと思うんです」
災害への意識の違い
「僕は今回、初めて宮城へ来たんです。そこで町の風景を見ると、まだあちこちで工事をしていることに驚きました」
「そうですね。仮設住宅に住む人も徐々に減っていますし、復興は進んでいますが、まだ終わりには遠くて」
「恥ずかしい話、普段東京にいる僕は、現地に来てみて初めてそのことを実感しました」
「高2の夏に、震災について学ぶスタディツアーを自分たちで開催したんです。その時、資金を集めるために東京の百貨店で地元のものを販売したんですね。そこで売り子をしていて、すごく心に残っているのが『えっ、熊本じゃないの?』と言われたことなんです。熊本の震災の少し後だったんですけど……」
「おそらく素直に発した言葉なんでしょうけど、だからこそ相澤さんたちにとっては辛辣に響きますよね……東京の人には上書きされてしまっているというか」
「そこで『すみません、東北なんです』と答えたのを覚えています。やっぱり、東北は復興しきってるんだと思われてるんだな、と……」
「ふだん、震災のイベントに来てくださる方は、東北の被災地の状況も知っている方が多いです。でも、普通に暮らしている方は、そうじゃないんですよね」
「そこの意識の差は大きいかもしれません。先ほど地元新聞の『河北新報』で、もっと全国メディアで震災のことを取り上げて欲しいという記事を見たんです。時間とともにメディアでの報道量が減るなかで、『どう知るか』はどんどん難しくなっているなと」
「私の通っていた高校は、防災教育に力を入れているんです。年に2回、丸一日かけて防災について学ぶ日があったり、海外の高校生を呼んで防災について話し合うフォーラムを開いたり。だから普通に日常会話のなかで、防災に関する話がでてきます」
「例えばどんな会話を?」
「例えば、同級生が通っていた小学校が震災遺構になる際、『半分は壊して、半分だけ残す』ってなったことがあって。それに対して、放送部で討論が始まったんですね。わたしはそれが普通だと思ったんですが、別の高校の子にそのことを話すと、とても驚かれて」
「同じ宮城の中でも、意識の違いはあるんですね」
「その子は年下なので、学年の差なのかなとか、うちみたいに防災教育に力を入れていないからかなとか考えました」
「それは、震災について話しづらい感じなんでしょうか?」
「というより、話すことじゃない…普段はあまり気にしてない感じがあると思います。私の周りが変わってるのかもしれません。『生きてるってなんだろう』『世界ってなんであるんだろう』って突然話し始める人たちなので(笑)」
「哲学的ですね!(笑)」
「哲学好きなんですよね、みんな。本とか映画とかも好きです」
「最近、相澤さん的に面白かった作品ってありますか?」
「ディズニーの『ディセンダント』です。ディズニーに登場する悪役の子どもたちの話で、差別ってよくないなと考えさせられました」
「面白そうですね。ディズニー好きなんですか?」
「いえ、どちらかというとサンリオの方が。卒業旅行でサンリオピューロランドに行きたいんです」
「制服で行っちゃうやつですね。ぜひ全力で楽しんできてほしい!」
将来、地元に貢献したい
「語り部を始めて3年以上が経ちますが、震災の捉え方は変化しましたか?」
「本を出してからでいうと、あまり変わってないと思います。『16歳の語り部』を書いた時が、語り部への思いが一番強かったと思います」
「語り部への思い……それは『伝えたい』という気持ちでしょうか?」
「そうなのかな、たぶんですけど。書いた頃と今だと、話すことが違うと思うところがあります。うまく言えないですけど……」
「本の中で、将来は地元の市役所で働きたいと書いてましたね。それは今も変わらず?」
「はい。一般の企業だと、利益を求めなきゃいけないと思うんです。でも、利益を求めずに、純粋に地元の人に貢献できる仕事がやりたくて」
「地域のために貢献したい、という思いが強いんですね」
「そうですね。やっぱり震災以降、地元愛は強くなってるんじゃないかと思います。春からは地元の短大へ進みます」
「我々『ジモコロ』は若者が多く読んでいるメディアなんです。被災地以外の人も多いと思うのですが、彼らに特に伝えたいことはありますか」
「まず、『語り部にみんななれる』というのは知っておいてほしいです。それと、日々を大切に生きて欲しいなって思います。生きることって大事。今あるものが次の日にはなくなるかもしれないんです。私自身、いま死んでも大丈夫って言えるように生きてます」
「……自分がそうできているか、考えてしまいました。普段、当たり前すぎて忘れてしまいがちなんですが、本当にいつ何があるかわからないんですよね」
「震災の話を聞いて、対策をとっておくことももちろん大事です。だけど、自分の住んでいる場所でもし同じことが起きたらどうしたらいいだろう、と想像しておくだけでも違うと思うんです」
「はい。僕自身、お話を聞いて改めてちゃんと災害について知らなくてはと思いました。大学へ進んでも、語り部の活動は続けられるんですか?」
「はい。これからも伝えていきたいです。『誰でも語り部になれる』と言った先輩のことは、今も私の心に残っています。そんな風に私もなれたらいいなと思うんです」
おわりに
『16歳の語り部』の中に「私たちは災間を生きている」という言葉が出てきます。もしかすると明日、災害が「自分ごと」になってしまうかもしれないのです。
だからまず、誰かの体験を聞き、想像してみること。自分だったらどうしようと考えることが大事なのだと思います。
そして、この記事を見て気になった方は、ぜひ『16歳の語り部』を読んでみてください。3人の言葉が少しでも広がることで、この記事もまた、小さな語り部としての役割を果たせたらと願っています。
書いた人:友光だんご
編集者/ライター。1989年岡山生まれ。Huuuu所属。インタビューと犬とビールが好きです。Facebook:友光 哲 / Twitter:@inutekina / 個人ブログ:友光だんご日記 / Mail: dango(a)huuuu.jp
写真:藤原 慶
21歳からカメラとバックパックを持って日本放浪の旅に出る。
全国各地を周りながら撮った写真を路上で販売し生き延びる生活を続け、沢山の出逢いと経験を積む。
現在は東京に落ち着きカメラマンとして活動中。
Instagram : @fujiwara_kei