情熱大陸に出たい。
本日は、この欲望について考えてみます。実際に情熱大陸に出ている人ではなく、「出たがる心理」のほうに注目してみるということですね。
便利なので「情熱大陸」と限定しちゃいましたが、実際は「プロフェッショナル仕事の流儀」もそうでしょうし、自伝の出版や、インタビューで半生を語ることなんかも同じだと思います。
自分はこういう人間で、こういうことを考えていて、これまでこんなふうに生きてきた。いわゆる「自分語り」というやつですが、情熱大陸のようなものが魔力を持っているのは、この自分語りに「太鼓判」を押してくれそうだからだと思うんですね。
そのへんのことを書いてみます。
恋愛とストーカーのちがい
なぜ、自分の物語に「太鼓判」を押してほしいのか?
なぜ、「認めてもらう」というステップが必要なのか?
勝手に自分の物語を作って、
勝手に語っちゃえばいいのでは?
そう開き直れないのが、なかなか辛いところなんですね。
たとえば、「恋愛」というのは、もっとも小さな物語の共有です。「僕は君に出会うために生まれてきた」と片方が言い、「わたしもあなたに出会うために生まれてきた」と返ってくる時、そこに「恋愛」が成立するのです。
そして、「僕は君に出会うために生まれてきた」と言い、「完全に迷惑です」と返ってきたのに付きまとう時、「ストーカー」が成立するわけですね。
「僕は君に出会うために生まれてきた」という言葉は、相手の同意がなければ、「ヤバいやつの思い込み」なわけです。
「自称」という言葉に込められた悪意
「自称」という言葉に悪意が込められることもあります。たとえば誰かを「自称アーティスト」とか「自称アイドル」と表現するときの悪意ある視線ですね。
本人のほうで「まあ自称ですけど」と言ってしまう場合は、他人の視線をシミュレートして、ひるんでしまったと言えます。これまた「勝手に語ること」に開き直れないということですね。
このへんの心理があるから、なかなか「自分の物語を勝手に自分で語る」というふうにはならない。どうしても「誰かに認めてもらう」というステップを踏みたくなる。
そのとき出てくるのが、「情熱大陸に出たい」という気持ちだったりするわけです。
ナレーションの「神っぽさ」
「私はこういう人間です」というふうに語って、それを認めてほしい。
昔は、そんな気持ちに答えてくれる装置が「神様」だったりしたんでしょうが、今は「情熱大陸」だったりするわけですね。
ということで、情熱大陸の場合、「淡々としたナレーション」がひとつのポイントだと思います。抑制された雰囲気が「神っぽさ」を演出する。現代において、神とは客観性のことだったりもしますので。
ナレーションの声質で「信頼性」が消える
出川哲朗や板東英二がナレーションをしても、情熱大陸は機能するか?
そんな問いも考えられます。ものすごく癖のあるナレーションだと、「ナレーターの信頼性」を意識しちゃうということですね。
これは文章でもそうなんですが、語り手が透明になったときに、なんとなく「客観性」が成立したように感じるわけです。その意味で、ドキュメンタリーは「感情を排したナレーション」であることが重要なんだと思います。
まあ、個人的には板東英二がナレーションする情熱大陸を見てみたいですが、たぶん、悪い冗談のような番組になると思います。「板東英二がナレーションする情熱大陸でも出たいか?」と問いかけてみると、意外に面白いかもしれません。
「イチロー」という美しい物語
このへんでイチローの話をしてみます。
イチローは情熱大陸じゃなくてプロフェッショナルのほうだった気もしますが、それはいいとして、「イチローという物語」は、やはりすごく美しいと思うんですね。
私が好きなエピソードは色々とあるんですが、たとえば中学生のとき、クラスメイトに成人式の話をふられてイチローは言ったそうです。
「ごめん、俺は成人式に出れないと思う。そのときはプロ野球選手になってるから」
これにたいするクラスメイトの反応は、「爆笑」なわけです。この時点では、ギャグとして受け止められてしまう。
「笑われながらやってきた」とはどういうことか?
似た話として、小学生のイチローが父親といっしょに熱心に野球の練習をしている。それにたいする周囲の反応も、「あいつ、プロになるんだってよ(笑)」なわけです。いや、ここはもっとリアルな表現を使うべきで、キツめのニュアンスを入れるならば、
あいつwwwwwプロになるんだってよwwwwww
イチローは「笑われながらやってきた」と言うときの、具体的な意味はこれでしょう。イチローのカッコよさというのは、「現段階では笑われてしまう」という状況だろうが、黙々と行動を重ねてきたところにあるんだと思います。
未来を根拠に語っちゃってもいい
ということで、実際に情熱大陸に出る人は、ハナから自分を情熱大陸の上に置いてたりするわけです。それはまあ笑われるし、ヤバい奴あつかいもされるわけですが、知ったこっちゃないということですね。
「自分で勝手に語ってしまう」というのは重要なんですよ。
何かを確信している人間の迫力は、他の人間に影響を与えるんですね。べつに過去だけを参考に自分を語らなきゃいけないというルールはないんで、未来を根拠に語っちゃってもいいわけです。確信の強さは「行動」というかたちで、実際に未来を作るからですね。
へんな例ですが、宗教を作るときは、教祖はマジモンの狂人で、参謀に計算高い人間を置くべき、みたいな話もあります。理屈で考えたものには、どうしても迫力が宿らないんですね。人は理屈じゃ信じない。どうしても最後は「確信者の迫力」が必要になる。理屈は迫力に負けるのです。
本当に「何者にもなれない」のか?
このへんで終わりにしますが、最後に。
情熱大陸的なものの裏面に、「自分は何者にもなれなかった」という嘆きがあります。これはこれで、よく見かけます。んで、これもひとつの「物語」だと思うんですよ。「語る物語がないときの物語」というか。
私はこの連載で、2000連休がどうとか、離人症がどうとか言ってんですが、これはむしろ「普通、人はすでに何者かになってしまっている」という問題を扱ってるんですね。
「何者にもなれなかった」とかつまんないこと言ってないで、
「なぜ、何者かにならなければならないと思い込んでいるのか?」
「なぜ、何者かになりたいという心理のプロセスそのものを観察しないのか?」
という方向に進んでみると、面白いんじゃないかということです。「自分という物語を無自覚に語る、その一歩手前に何があるか?」ということですね。
最近の私は、どうしたらみんな離人症になってくれるのかな、とか考えてるんですが、ひとまず今回はこんな感じで。
ライター:上田啓太
京都在住のライター。1984年生まれ。
居候生活をつづったブログ『真顔日記』も人気。
Twitterアカウント→@ueda_keita