JR岡山駅から北方面に伸びる大通りを歩くこと30分。一帯に高いビルはなく、空はどこまでも青い。正面に広がるのは岡山大学のキャンパス。道路沿いには青果店に自転車屋。牧歌的な風景が続く。
そんな春の散歩に終止符を打つように、目的の場所は突如現れた。1974年に開業した老舗ライブハウス『ペパーランド』。横長の四角い建物にはびっしりとポスターやサイン、ステッカーが貼られ、まだ昼間ということもあって、その扉は固く閉ざされている。
コロナ禍により、日本中のたくさんのライブハウスが閉業した。「不要不急」の言葉の下に「表現」の価値は軽んじられた。そんな世間の空気にあらがいたくて、僕らはここへやってきたのだ。
ライブハウスが町や地域で果たす役割ってなんだろう。50年にわたってシーンを引っ張ってきたこの場所になら、それを考えるヒントがあるはずだ。
店の前にいかついジープが止まる。運転席には全身黒一色のいでたちをした男性の姿。パイプを燻らせ、ゆっくりとした足取りでこちらへやってくる。ひと目でその人だと分かった。ペパーランドのオーナー・能勢伊勢雄さんだ。
挨拶をする僕らに、能勢さんは黙って頷いた。メガネ越しの、優しいが真っ直ぐなまなざしに、なにか見透かされているような感じがして一気に緊張が高まった。
金属製の、重い重い二重扉を開けて、僕らはペパーランドの中へと足を踏み入れた。
音楽に限らない、表現のための場
——ペパーランドは日本で2、3番目に古いライブハウスだと聞いています。当然ですが、ペパーができた50年前にこの辺りにライブハウスは……。
ないですねえ。
——ですよね。だから不思議なんです。東京とか大阪とか、そういう場所ならまだ分かるんですけど。日本で最も古いライブハウスの一つが、なぜこの岡山にあったのか。
その昔『ウォーホルE.P.I.』という映画があったんです、ロナルド・メナスが撮った。アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」の一部と、そこで行われたヴェルベット・アンダーグラウンドのステージのようすを映したものなんですけど。
——(いきなり固有名詞の連続攻撃)ああ、はい、ヴェルべットさんの。
それを70年代の初頭に見て「こういう場所を岡山に作りたい」と思って、作ったのがきっかけです。
——ええっと「こういう場所」というのは?
とにかく音楽があって、サイケデリックな照明があって、よく見えないけど壁にいろいろと展示物もあって。今で言うところの「ミックスメディア」。ああいう空間の原型がありました。それがすごく面白いと思ったんです。
——どれか一つではなく、いろいろなものが集まって一つの表現を成す、というような?
そうです、そうです。
——当時「ライブハウス」という呼び名自体はあったんですか?
一般にはなかったと思いますねえ。活字としてその言葉を使ったのは、恐らく『宝島』が最初。その後、吉田拓郎や井上陽水が在籍していたレコード会社が月刊誌を出して、その中でも「ライブハウス」いう言葉が使われてましたね。それをきっかけに広がっていったように感じるけども。でもどちらもペパーランドができた後のことですからね。
——そんな中で「こういう場所を作りたい」をどうやって説明していたんですか?
歌声喫茶とかジャズバーとか、前身と言えるものはいろいろありました。風俗営業になるかと思って警察に「こういうことがやりたい」と説明に行ったら、「歌声喫茶のようなもんだから風俗営業の届けなんて出さんでいい。保健所へ行け」みたいなことを言われて。そんな時代でした。
創業当時のペパーランド
——というと、参考になるのは映像だけ。
そう、つまりライブハウスのロールモデルを作ったような部分があった。当時のライブハウスは、映画とか詩の朗読会とか演劇とか、そういうものも含めてやっていたんですよ。
ところがその後、バンドブームになって。「イカ天」っていう番組、知っとるよね? あれでもう「ライブハウス=音楽専門店」みたいなイメージに。
——かつてのライブハウスは音楽に限らず表現全般を扱うものだったんですね。
ペパーランドでは今でもジャンルは一切問わないですよ。むしろそうあるのが本来のライブハウスだと思っとるんで。そういう運営をしてます。要するに「ライブ」は音楽だけのライブじゃなくて、「生きてる」という意味なんです。
ステージの高さ47センチ
——全国には経営的に厳しいライブハウスも少なくありませんが、ペパーランドの50年間はずっと盛況だったんですか?
いや、お客は……。例えば今日来てるバンドはメジャーだからお客を呼ぶと思うけども。東京の小さなライブハウスをいっぱいにできて、それならツアーに出てみるかということでやってきたバンドでも、地方に来ると客は3人だけ、というのも結構普通なんですよ。
——ああ、そうなんですね。
そういう時は、音楽の傾向が合う地元のバンドをブッキングして対バンをお願いしたり。逆に音楽性が離れている方が面白い時は、そういう提案もするし。なるべく寂しい思いをさせんようにしてますけどね。
——そういう中から食えるようになったバンドも?
当然、います。
——でも、売れることは彼らにとってはいいことですけど、それがライブハウスを潤すとは限らないですよね?
いや、そんなことは考えてないですね。ミュージシャンが自分の表現を広げていけるんだったら、店としたらもう大歓迎です。
——改めて、なぜ50年も続けてこられたと思いますか?
「真剣に向き合う」ということに尽きると思うけどねえ。例えば昨日はbetcover!!いうバンドが来たんだけど、彼らの音はすごく新しいと思えたし。プロモーション一つですぐに売れるだろうなと僕は思ってますけども。
——そういう出会いが原動力に?
というのもそうだし、そのbetcover!!を観に来たいといって、岡山の感覚の鋭い連中が来てくれるわけじゃないですか。そうすると、今すぐにかは分からんけども、何年か後には必ずいろいろな形に変わっていくと思うし。そういうものを信じていなかったら、ライブハウスはやれんですよね。
——冒頭「ライブハウスのロールモデルを作った」というお話がありましたけど、今あるライブハウスのことはどう映ってますか? 変化を感じる?
むしろ悪なったような感じはしますけどね。ライブでなくなってる。
——ライブでなくなってる。それはどういうところが?
ビートルズにしても何にしても、最初はパブのようなところから始まるんですよね。段差のない、一つのフロアの奥の方でやっていて、それを客が聞く。でも今のステージは平気で1メートルはあるじゃないですか。僕に言わせれば、それはもうライブハウスじゃない。なんというか、ホールみたいなもので……。
——確かにペパーランドのステージは一般よりだいぶ低いですよね。
オープンした時は完全にフラットだったんですけど。でもお客さんがギュウギュウに入ったら、やっぱり見にくいんですよ。それで、ステージの高さについていろいろ試したんです。地続き感を保ちながら、それでいて見やすい高さは何センチなのか。
——実験したんですね。
そうそう。その結果、今の47センチにフィックスしてるんです。
——中途半端な数字がリアルですね。その3センチに何かがある。
50センチまで上げると、もう、ステージの上と客席が切れた感じがしてくるんです。そうなると、ライブ本来のものじゃなくなると僕は思ったから。同じフロアにミュージシャンが居て、自分自身もいる。それをすごく大事にしたかったんです。出演者と観客の「地続き感」がライブですから。
表現者のバックグラウンドを育む「遊会」
——能勢さんはペパーランドの他に「遊会」という集まりを主催していますよね。
遊会は、何を話してもOKの勉強会のようなものです。完全無料で、参加は誰でもウェルカム。もう42年間続けていて、去年500回を超えたんだけども。音楽でもなんでも、表現をする人のバックグラウンドを作りたいという思いがあって続けてます。
——ペパーランドが表現をするための場なら、遊会はそのバックグラウンドを育む場。
まさにそうです!
——きっかけは編集者の松岡正剛さんとの出会いだったとか。
松岡さんの工作舎が1971年に『遊』という雑誌を出すんですよ。その創刊号が岡山の書店にも並んでね。その頃、僕は「サイボーグ論」というZINEのようなものを作っていて。『遊』を見て「この出版社だったら分かってくれるかな」と思い、編集部宛に送ったんです。
「オブジェマガジン」と称した雑誌『遊』は、あらゆるジャンルを融合して独自のスタイルを築き上げ、日本のアート・思想・メディア・デザインに大きな影響を与えた。
そうしたら当時「いろんなところからこういうものが送られてきたけど、能勢が送ってきたものが一番奇妙だった」と連絡をくれて。それからの付き合いなんですよ。
——長い付き合いなんですね。
最初の「遊会」は工作舎主催のもと、雑誌『遊』の企画として全国各地で開かれたんだけど、1回きりで終わったんです。僕はやってみて「これは自分でもできる」と思ったから、翌年に改めて「岡山遊会」をスタートさせた。だから今も「遊会」が残ってるのは岡山だけです。
「岡山遊会」の開催風景(本人提供)
——表現者のバックグラウンドを育むというのは、具体的にはどうやるんですか?
要はどうドライブをかけられるか、ですよね。遊会というのは「どこまで枠を広げて話ができるか」いう世界なんで。
例えば、ある人がコーヒーの話を始めたとして。コーヒーにまつわる音楽なんてごまんとありますから、そういうものと、音楽とつないでやる。あるいは、コーヒーがどのようにして日本社会に受け入れられてきたか、という方向に話を広げれば、社会学の問題ともつながりますよね?
——はい、はい。
(目の前の紙の一端を示して)ここがコーヒーならコーヒー。(反対側の端を示して)ここが音楽なら音楽。その両端を折り重ねてやる。で、ここに出てくる対角線が、両方の領域が混ざった世界なんですよ。常にここを意識して、遊会をドライブさせていく。
——そうやっていろいろな刺激を受けて興味関心が広がっていくのって、やっぱりリアルな場があるからこそできるものなんですかね。情報自体はネットで入手できても……。
いや、できんのですよ。そうだな、例えばインスタグラムで「#戦争」と検索してみてくださいよ。あるいはもう少し広げて「#争い」でもいいんだけど。どうです? 出てきたもののどのへんに戦争のイメージがありますか?
——ああ……。
本来であればウクライナとかがまず挙がってこなければならないのに、実際は今見ているような状態です。こちらが意識的に関われば情報を拾うことはできるかもしれないけど。ネット空間になんでもあるかといえば、それはかなり怪しいですよ。
ライブハウスは社会を彫刻する
——個人的にコロナ禍の2年間は「表現」の優先順位が下げられた印象もあって。当時の状況はどう映っていたんですか?
僕の一生のうちでこんな感染症のパンデミックが起こるのかと、ものすごくワクワクしましたね。
——ワクワク。それは新しい表現が生まれるかもしれないから?
そういうことですね。そもそもライブハウスは決して“安全な場所”じゃない。ドアを1枚開けて中に入ったが最後、一生が変わるかもしれないものと出会う場所なんで。ちっともセーフティな場所じゃないんですよ。
——人生が変わってしまうかもしれない場所、それがライブハウス。
ペパーの斜向かいにもコンビニがあるけれど、コンビニのドアって自動ドアじゃないですか。自動ドアを開いた先に、思想性なんてこれっぽっちもないですよ。「どうぞお金を持ってきてください」的な世界でしょ? ペパーのドアは重いです。もうそのことからして始まってるんですよ。そういう場所って絶対死なないです。
——死なないというのはなくならないということ?
そうです。消滅しない。表の世界に色目を使ってる世界じゃないんで。
——アンダーグラウンド。
そう、アンダーグラウンドには次の時代を創る「潜勢力(せんせいりょく)」がある。だから次の文化を作り上げられるんですよ。今、オーバーグラウンドにあるものは常に叩き落とされる立場にある。音楽でもなんでもそう。
イギリスのミュージック・チャートを見ていても、上位にいる連中は非常に短命じゃない? どこから生まれたかもしれないアンダーグラウンドのものがすぐに乗り替わってしまうでしょ? 音楽とはそういうものなんですよ、本質的に。もし乗り替わらなかったら、それはもう音楽が死んでますね。
——とはいえ、あの頃は営業を止めたライブハウスも多かったですよね。止めざるを得なかったという表現の方が正しいのかもしれませんけど。
ペパーは1回もライブを止めてないですよ。バンドの出演申し込みがなくなって、休業状態的な時期もありましたけど。こちら側から「コロナ禍だからライブはできない」とは1回も言ってない。「やりたい」という人がいたら出演してもらう。それがライブハウスじゃないんですか。
ペパーランドはコロナ禍中、無観客の配信ライブにもいち早く着手。発表の場を求めるバンドのために、ステージと客席の間にビニール幕を張る、観客にオリジナルの使い捨てフェイスシールドを配布するなど、対策に奔走した。
——芸術や文化の価値ってなんなんですかね。腹が膨れるわけでもないから分かりづらい。だから気を抜くとすぐに「いらないものだ」とか言われるのかなって。
「生きるのに必ずしも必要のないもの」って言い方も文化やからね。そういうことを言う人は、それで自分の生き方を保っているわけでしょう。だけど、実際にはもっと素晴らしい文化のあり方もありますよね? 僕はそういうものを人と共有していけば、人は絶対に変わっていくと思ってるんですよ。
ヨーゼフ・ボイスいうドイツの現代美術家がいますよね。彼は1960〜70年代にかけて発生した前衛芸術運動「フルクサス」の一員で、晩年、屋外に市民を集めて、黒板を使ってアートの概念を説明していくみたいなことをするわけです。ボイスはそれを「社会彫刻」と呼んだ。ペパーがやっているのもそういうことで、音楽とか映画とか詩の朗読会とかを通じて、社会を彫刻しているんだと思ってる。
——社会を彫刻する。
要するに、人の考え方を変えていく。人が変われば、社会は変わる。ライブハウスというのは本来、社会彫刻を仕事としてやっていく場所だと僕は思ってる。だから店内にはボイスのシャツと、東京で会った時にもらったサインを掲げているんです。スピーカーや照明器具より、ペパーにあるもので一番高価なものですよ。
——人の人生を変え、社会を変える。それがライブハウスの本分。
「変わる」ことが本人の幸せかどうかは分からないですよ。この50年の間には「この子は音楽をやらずに別のことをやっていた方が幸せだったんじゃないか?」と思う人にも会ってきました。文化というのは魔物ですから。僕が「危ない場所ですよ」とずっと言っているのは、そういうことなんです。
これからも表現者の背中を押していく
——最後にペパーの今後についても聞きたいです。コロナ禍の規制も落ち着いて、また状況が変わりましたね。
これから一番大事になってくるのは「forgiveness」。
——「forgiveness」……赦(ゆる)し?
そうです。分断や批判ではなく、赦し。もう少ししたら絶対にテーマになってくると思う。親が殺された、息子が殺された、でもその恨みを持って何十年生きていっても、ポジティブなものは何も生まれないわけだから。もちろん赦せない。それでも赦すということがテーマになっていくと思う。
——それがライブハウスや、ペパーランドの活動とどうつながりますか?
僕は「時代の精神を最も早く映し出すのが音楽だ」という言い方をずっとしていて。だからね、表現者を通じてそういうものが出てきた瞬間を捕まえてやって「今歌ってる世界って、僕は大事だと思うよ!」と言ってあげることが、店がやる役割だと思ってる。
——背中を押してあげるというか。
まあ生意気かも知らんけど……。そういうふうに接してます。
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岡山で生まれ、岡山のカルチャーを支え続けてきた能勢さん。岡山という土地にこだわる理由を改めて尋ねると、次のような答えが返ってきた。
「それは簡単なことで。岡山は東京から見れば田舎ですよね。でもその東京だってニューヨークから見れば田舎じゃないですか。人類の歴史を辿れば、ニューヨークはロンドンの田舎。ロンドンはローマの田舎。ローマはエジプトの田舎です。
今のところ、一番古い文明はエジプト。でも、正直エジプト文化にどっぷり浸かったところでどうなのかというところがありますよね? 田舎でない世界に憧れたって仕方がない。だったらもう岡山で十分だ、というのが自分の中にはあります」
能勢さんがいたから、ペパーランドがあって、遊会がある。次のカルチャーが生まれる土壌がある。すべてのライブハウスがそうなのかは分からないが、少なくともここ岡山では、ライブハウスは町に欠かせない役割を果たしているように思えた。
予定していた1時間の取材が終わると、「もしよかったら」と近くのコンビニの2階に誘われた。パソコンを開き、能勢さんは再び語り始める。
全共闘時代の現場を撮影・監督したドキュメンタリー映画『共同性の地平を求めて』。日本の公立美術館で初めて網羅的にグラフィティを取り上げた2005年の展覧会『X-COLOR/グラフィティ in Japan』……知の洪水を浴び続ける贅沢なレッスンは、ここから実に6時間に及んだのだった。
「思想性などこれっぽっちもない」自動ドアを開いて外に出ると、あれだけ青かった空がすっかり暗闇に染まっていた。扉を開けるとはこういうことなのか。
撮影:草加和輝
編集:日向コイケ(Huuuu)