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【高雄の伝統市場】台湾の港町で学ぶ、混ざり合う新旧文化の魅力|ガイドブックアウトサイドin台湾

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【高雄の伝統市場】台湾の港町で学ぶ、混ざり合う新旧文化の魅力|ガイドブックアウトサイドin台湾

こんにちは、台湾人のピギーです!

 

近年、日本の街中でも「台湾」をテーマとした飲食店を見かけることが多くなり、東京などの大きな都市では「台湾をテーマとしたイベントやフェス」が開催されることも増えてきました。

 

今回は取材終わりに市場で台湾のクラフトビールで乾杯

 

今、この記事を読んでいるみなさんは現在、台湾と聞くと何を思い出しますか?

 

記事を開いてくれているということは、実際に台湾を訪れたことがある方がほとんどでしょうか?

 

パンデミックによる国境の封鎖と、往来の再開。これから台湾への旅行を計画されている方に、ガイドブックにある「訪れるべき」ランキングだけではなく、もっと様々な文化や魅力に触れてもらいたい。 そんな気持ちで、この連載をスタートさせました。

 

先住民については台湾での呼称にあわせ、原住民族と表記

 

台湾には温泉があるものの、銭湯のような日常的にみんなでお風呂に入る文化はありません。そのため、台湾の人が銭湯などのお風呂文化を見ていると、日本の生活に根付いた文化だなと感じることがあります。

 

では、逆に、日本の方が台湾に来たとき、何を見たら「台湾の文化だ」と感じられるのかを考えた時、頭に浮かんできたのは「伝統的な市場(以下、伝統市場)」のことでした。

 

こちらは高雄の伝統市場のひとつ〈塩埕大舞台早市〉の様子

 

※「伝統市場とは?」 については、「ガイドブックアウトサイドin台湾 Vol.1」参照

 

スーパーマーケットが登場する以前の伝統市場は、野菜や魚、日用品などを売買する場所であると同時に、人と人との大切な交流の場でもありました。

 

日本ではほとんどが姿を消してしまったこうした市場ですが、台湾ではまだまだその姿を街中に残しています。

 

この伝統市場の「今」を見つめることで、台湾・各都市のそれぞれの文化や、風土を伝えられたらと思います。

 

今回は、台北から西へ向かい、新竹を経て、台湾第2の都市である港町・高雄を訪ねていきます!

 

👉はじまりの街、萬華。過去と未来がぶつかり合う「台湾の市場」最前線

はじまりの街、萬華。過去と未来がぶつかり合う「台湾の市場」最前線|ガイドブックアウトサイドin台湾

 

👉新竹、「文化の砂漠」に花ひらく、新世代による近未来の市場探求

新竹、「文化の砂漠」に花ひらく、新世代による近未来の市場探求|ガイドブックアウトサイドin台湾

 

潮風が吹く、人をつなぐ町

高雄は「人情味のある生き生きした港町」といわれ、 台北とは雰囲気が大きく違います。

 

その違いは、ゆったりとした土地の広さや、一年中太陽が見られる気候の良さにあり、そうした開放感は人々の朗らかさにも影響を与えているように思います。

 

気候もよく、外でご飯を食べる人もどこか気持ちよさそう

 

高雄は元々「打狗(ta-kao)」と呼ばれていましたが、1920年に日本政府の政策で、日本語の発音による「高雄(taka-o)」に改名されました。

 

そして1939年、日本政府はさらに、高雄の市庁舎を海の近い西側エリア・鹽埕(イェンチェン)に移し、そのエリアが街の発展の中心となっていったのです。

 

港に近く、 労働者から輸入品の商売で儲けたお金持ちまで様々な階層の人が行き交った鹽埕。当時は、レジャー施設やショッピング施設が立ち並び、その華やかさから「銀座」とまで呼ばれるようになりました。

 

 

同時期、居住人口の急増に伴って、今回の市場探訪の主役となる「鹽埕第一公有市場」(イェンチェン だいいちこうゆういちば。以下、「鹽一市場」)が日常生活を支える場所として誕生。

 

時は流れ、1980年代になると、高雄の経済や貿易の中心が移り変わり、人々は次第に鹽埕を離れました。

 

こうした流れは、過去の連載でもわかるように、台湾のどの都市、どの歴史ある市場でも起こっていた流れです。

 

今も残る〈鹽一市場〉の精肉店

 

鹽一市場では出店者が段々と減り、深刻な高齢化問題に直面しました。

 

鹽埕エリアにある周辺の飲食店や美容院が時間の流れから切り離され、時代の変化とともに老朽化。そうした建物は、今でもちらほらと見ることができます。

 

そんな古い街に、新しい息吹を吹き込んだのが今回ナビゲーターとなる邱承漢(チョウ・チェンハン)さん。

 

彼は〈銀座聚場(House of TAKAO GINZA)〉などの宿泊施設やカフェを鹽埕エリアで運営し、ローカルなイベント制作や、出版・編集を手掛ける『叁捌地方生活(サンバー・ディファン・シェンフォー)』の創設者です。

 

邱さんと一緒に市場の歴史や、このエリアがどのように生まれ変わったかを紹介していきます!

 

話を聞いた人:邱承漢(チョウ・チェンハン)

1980年、高雄生まれ。1998年の頃、進学のため台北に移住。2011年に金融関係の仕事を辞めて高雄に戻り、〈銀座聚場〉などのカフェ、宿泊施設の運営で地域での活動に力を注ぐ。『叁捌地方生活』を創設し、地方誌、ガイドツアー等の活動を続けている。

 

「祖母が大切に使っていた建物を残したい」というのがホテルを始める最初の動機

高雄の発展の歴史を紐解くと、いくつかの顔が見えてきます。

 

貿易と商売の街、石油化学や鉄鋼を中心とした重工業の街、そしてバナナなどを中心とした農業の街。

 

しかし、近年は2002年に〈駁二芸術特区(ボォーアー)〉が出来たのを皮切りに、高雄には多くの芸術関連の施設が集まってきています。

 

また、2006年からは『大港開唱』と呼ばれる人気の音楽祭が鹽埕エリアで開催されるようになり、毎年チケットが発売されると、10分以内に必ず完売するほどの人気イベントに成長しました。

 

 

こうして、高雄の文化産業の可能性を、若い人たちが少しずつ信じられるようになってきています。そんな変化が起き始めていることを、台北に住んでいる私も時々実感します。

 

こうした大規模な都市のうねりとはまた少し別のお話。しっかりと地に根をおろした活動で、ローカルに鹽埕エリアにカルチャーを作り上げているのが、邱さんなのです。邱さんは2011年に高雄に戻り、祖母のウェディングドレス店をホテル〈叁捌旅居〉として生まれ変わらせました。

 

〈叁捌旅居〉の階段にはウェディングドレスのラフらしきものが飾られている

 

「まず、10年ほど離れていた高雄に戻ろうと思ったきっかけについて聞かせてもらえますか?」

「それでは、高雄を離れる前から話を始めるのがよさそうですね。僕は生まれ育ったこの場所の良さがわからなかったんです」

「詳しく教えてください」

「生まれてから18歳まで高雄に住んでいたので、この場所にあるものの何もかもが当たり前だと思っていたんです。離れてから、太陽と海、そして人と人との距離の近さが、自分らしく生きていくためにはとても大切な要素だと気付かされました」

 

「大学から住まわれていた台北は、湿度が高くて、高雄のように洗濯物も乾かない。気候も、そこで育まれる人間関係も大きく変わりそうですよね」

「あと、台北は生活のスピードが早い。そして住んでいる人たち同士がなるべく互いに迷惑をかけないようにしていると感じました。でも、鹽埕では『近所付き合い』という意識がとても強くて。子供の頃の思い出も、近所の人たちとよく遊んでいた記憶があります。今でも、外出するときは必ず誰かが挨拶をしてくれますよ」

 

「その後、銀行の仕事を辞めて、2011年に台北から高雄に戻られましたよね。きっかけはあったんでしょうか?」

「最初はただ、祖母が大切に使っていた建物を残したいと思って、この場所を使った活動をしたかっただけなんです。昔、ここは祖母の営むウェディングドレスをつくるお店で、母もデザイナーとしてここで働いていたので、強い思い入れがあって。でも、会社が移転してしまってからは使われないスペースになり、残念に思っていました」

 

ウェディングドレス店時代の名前をそのまま扉に残している

 

「てっきり、今の活動につながる『地方創生』のような目標が、当初よりあったのかと思っていました」

「いやいや、当時そもそも台湾には『地方創生』なんという言葉がなかったんです。そして僕には鹽埕エリアにもう一度賑わいを取り戻そうなんて大きな展望もなかったですね」

 

「そんな中で、どうしてホテルという事業を選んだんでしょうか?」

「この場所で新たに事業を行うと考えたときに、『ローカルな鹽埕に触れてもらいたい』という純粋な気持ちがあったんです。それを達成するために一番ダイレクトな方法は、訪れた人が鹽埕で過ごす時間を長くすることではないかと考えました。長く滞在できる空間を提供することで、自然と、ローカルな生活や、そのゆったりとした時の流れを体験してもらえると思ったんです」

 

「人に伝えられるような鹽埕の文化」、その答えが見つからなかった

また、邱さんは「実は、子どもの頃からずっとホテルという仕事に憧れを持っていた」と、ホテルを始めるもうひとつの理由を語ってくれました。

 

その源泉となった体験は、幼少期によく両親と海外旅行をしていたこと。そのことで、世界中のレストランやホテルへの憧れを抱くことになります。

 

そして、その憧れをうっすらと抱えたまま大学では経済学を専攻。大学院では経営管理を学んだものの、卒業後は成り行きに任せて、彼は銀行業界に入ったそうです。

 

銀行員時代の邱さん

 

仕事には懸命に打ち込み、結果も付いてきましたが、心の奥底ではどこか「銀行業は自分の仕事ではない」と感じていたと言います。

 

その時、ポッと火が灯るように頭に浮かんできたのは、人々が交流できるホテルへの憧れ。

 

その後は、邱さんは銀行を辞め、ホテル経営に必要なビジネススキルを身につけるため、経営コンサルタント会社に就職。

 

その時に、場の経営に加えてリサーチのやり方や、企画書の書き方を一つひとつ学びました。同時に、祖母の店を〈叁捌旅居〉にすることに着手していったのです。

 

この場所は、その後『叁捌地方生活』という地域の編集チームに繋がり、そして鹽埕の魅力や、老舗の知恵を残す取り組みに広がっていきます。

 

 

「どうして邱さんは『生活や、そのローカルな時間の流れの体験』が重要だと思ったんですか?『地方創生』という言葉もなかった当時であれば、わかりやすい観光スポットや、いわゆるインスタ映えするような施設を作ったりするのが主流だったと思うのですが」

「そのやり方はたしかに結果が出るのが早いですよね。でも正直、その土地の本当の文化が見えてこないと思ったんです」

「その土地の本当の文化」

実は、高雄に戻ってきたばかりの数年間、私は必死に『人に伝えられるような鹽埕の文化とは何か』を探していました。でも正直にいうと、その答えは見つからなかったんです(笑)

 

鹽埕エリアを代表する七面鳥料理屋の〈庄脚囝仔火雞肉飯〉

 

「なるほど」

「鹽埕にはおいしい食べ物もありますし、何より語るべき歴史があります。ただ、過去の美しさを見れば見るほど、考古学をしているような気分にもなってしまって(笑)。言い換えれば、今の私たちの生活にないものは、私たちの文化として伝えられないと感じてしまったんです

「それで、じっくり滞在して『文化を感じられるような体験』を提供しようと思ったんですね。そもそも文化は一言で言い表せるものでも、自動販売機で買えるようなものでもないから」

 

「そう、『鹽埕の文化をください』と言っても何か目に見えるものが出てくるわけではない……。でも、少なくとも一晩は鹽埕に滞在できれば、地元の人たちと交流したり、もしかしたら飲みに誘われるようなことが起こるかもしれません。それこそが、鹽埕の『本当の文化』に触れることなんじゃないかと考えたんです」

「そしてホテルは訪問者にとっても街でどのように遊ぶかを決める羅針盤のような場所だから、更に一歩踏み込んだ体験も提供しやすい」

 

〈叁捌旅居〉の入り口には高雄の街のイベントなどのチラシが多数置かれている

 

「そうですね。より質の高いホテルで鹽埕に人を集めること。そして、それを入り口にガイドツアーや出版物を通じて街に人を導いていくという流れが、今私たちが取り組んでいることです。

正直、時間のかかるプロセスですが、効果は大きいと実感しています。鹽一市場の再開発はまさにそうした活動の末に、ようやく『この場所で培われたオールドソウル』が現代に具現化されたと言っても差し支えないでしょう」

 

街の呼吸を新鮮な状態に保つ方法

鹽一市場は小さな屋内型の市場でありながら、いくつかの北・東にそれぞれ商店街と隣接しており、このエリア全体の活況を大きく左右する舵のような役割。

 

しかし、近年、鹽一市場には7、8軒のお店しか残っておらず、邱さんが戻ってきた時は寂れた雰囲気に包まれていたといいます。

 

そんな中、2022年、鹽一市場は高雄市の行政によって全面改装され、木の屋根が復活し、日当たりも風通しもよくなりました。また、市場が再開された時、12軒ほどの若い出店者が決まりました。

 

夜は地元や、遠方から美味しいご飯とお酒を求めて人が集まってくる

 

こうしたリノベーションや、出店者の募集を支えたのが、邱さんがリードする『叁捌地方生活』チームです。

 

今では伝統市場の古い青果店や精肉店の横に、ブリトー屋、クラフトビール専門店、居酒屋などが並ぶ少し変わった市場となり、再びこのエリアの顔に。新しい出店者は自分たちの商売を試しながら、根付いたり、入れ替わったりして市場の風通しをよいものに保っているそうです。

 

「鹽一市場との出会いはどのようなものだったのでしょうか?」

「この数年間、私たちは〈叁捌地方生活〉をベースにこのエリアのガイドツアーを続けていて、最初に『什貨生活(シェフォーシェンフォー)』という地域を紹介する出版物も刊行しました。そのおかげで、近所の多くのお店と知り合いになり、次第に『市場』はやはり我々の生活文化に欠かせない要素であると感じていたんです」

 

鹽一エリアの紹介を朝昼晩の時間軸で紹介する最新の刊行物の『鹽埕老派生活指南』

 

「その『不可欠』とは具体的にどのようなものですか?」

すべてが効率化された時代において、生活のテンポをスローダウンさせてくれるものはとても貴重。市場はまさに、都市におけるそんな存在なんです。人と楽しく会話する、効率的ではない、自分の思うままにできない空間です」

「今までのインタビューでも聞いてきた質問なのですが、そんな大切なものでありながら若い人が市場に足を運ばなくなっているということについて、邱さんはどう感じていますか?」

「若い人が市場に足を運ばないのは、シンプルに市場に好きなものがないからですよ。ただ、その時に大事なのは新しいもので『過去』を覆い隠さないこと。新旧はお互いに学び合うもので、積極的に一緒の場所に隣り合わせていくことで、街の呼吸が新鮮に保てるはずです

 

古いカウンターがこの場所の歴史を感じさせる

 

「2022年、市場のリノベーションに関わる以前から、いろいろと取り組みをされてきたんですよね。どういったことを始められたんでしょうか」

「鹽一市場との関わりを始めたのは2017年。最初は市場の人間関係や場所の力学を観察するために、自分たちでひとつのブースを借りて、中古品や本を交換するイベントからスタートしました。その後、ポップアップショップをしたり、2018年にはミュージックパーティーを開催したり……」

 

イベントでのポップアップの様子

 

「意外かもしれないですが、『市場ではそれらをやっちゃダメ!』というルールはないですもんね。近隣からの反対はなかったですか?」

「それが、なかったんです。ミュージックパーティでは、いろいろな世代の約200人が市場に電子音楽を聴きにきましたよ。このような実験を少しずつ、自分たちが当事者になりながら段階的に重ねていきました。そして『市場の限界』というのは、実は私たちの固定観念によって制限されているものだと確信していったんです」

 

ミュージックパーティの様子

 

「2022年のリノベーションのタイミングの時には、年配の出店者も私たちの活動に賛同してくれていたので、有志者を公募してお店を出してもらおうと決めることができたんです」

 

どんなに時代が変わっても、人は「出会い」を求める

こうした様々なステップを経て決まった鹽一市場の新しい船出。挑戦的な取り組みを重ねる中で、年配の人たちからも「また来たい」という声があがるようになっていったそうです。

 

次に邱さんは、若い人たちが自分のアイデアを小さく試すためのスペースが必要だと感じました。そこで最初は台湾で有名なお店をいくつか呼んで、市場に短期間入居してもらい、ビジネスの可能性があることを証明しました。

 

そうした丁寧な実績づくりが市と交渉する際の材料になり、リノベーションや、若い出店希望者の公募につながり、これまでに30軒以上の出店者を数えるほどに。

 

中には、この場所でのブースでビジネスをスタートさせ、市内にレストランを開いた人もちらほら。

 

 

驚くのは、かつて鹽一市場で商売をしていた出店者が、また市場を訪れるようになったり、市場での常連の作り方など商売の経験を新たに加わった若い世代に共有するようになったこと。市場のおしゃべりを介して世代間のバトンタッチが芽吹き始めています。

「そういえば鹽一市場が再開した時に、邱さんは若手出店者の選定にも関わっていたんですよね。その時に、大切にしていたことがあればお聞きしたいです」

「『出店者が鹽埕を気に入っているか』『出店者同士の交流を積極的に行ってくれそうか』ですね。市場は他者との関わりを前提に成り立つ共生社会ですから」

 

「交流というと、『おしゃべり』みたいな軽い感じのものも含みますか?」

「はい、市場に行くと、人々は本当によく喋っているんです。だからこそ自然と、より多くの人同士が接する機会が生まれています。新しい出店者はこの場所での対話を通じて、伝統的な市場で培われた食材や、商売に関する知恵、そしてこのエリアの遺産ともいえる生活のペースを自然と学ぶことに繋がります。そうして受け取ったものをまた、新たな出店者に語ってもらいたいですね」

 

「出店者が鹽埕のことが好きだと、積極的な共生にもつながりますね」

「そう。結局、私たちが選んだお店の方は、本当に鹽埕の生活が好きだし、この場所の文化に敬意を払っているように見えますね。だからこそ、ここに若者が好むようなお店が新しく増えたとしても、昔からある古いお肉屋さんが離れてしまうことはない。出店者同士、世代を超えて会話が弾むシーンもよく見ますし、素晴らしい共生関係が生まれていると思います」

「コミュニティとも少し違う、こうした『場』としか言えないものって、今、ゼロからつくりだすことはできるんでしょうか?たとえば、日本でも台湾でも、本質的な文化を感じられる新しい場づくりっていろいろなところで求められています」

 

邱さんが手掛けるもうひとつの施設〈銀座聚場〉はカフェとホテルが一体となっていて、近隣住民と旅行者をつなぐ

 

「特に、日本の生活や文化にはそれほど詳しくないので、具体的なやり方をお伝えするのは難しいですね……。ただ、ポイントをお伝えするとすれば、『自分の生活の中から探す』というのが私のやり方です」

「邱さんが言葉では表せない市場の価値に気がついたような」

「実際、私たちが市場に目をつけてからのこの4、5年の間に、台湾では多くの人が伝統的な市場のことを口にするようになってきました。なぜなら、市場は台湾人にとって共通の思い出であり、生活文化の礎であるにも関わらず、徐々に失われてきているからです」

「オンラインで何もかも便利になってきちゃってますもんね。市場での買い物だって、Uber Eatsを使えることもあるくらいだし……」

「場所と組み合わせて、新しいサービスや事業を考えていくことはまだまだ可能性がありますからね。ただなにより、ローカルで何かを続けることはやっぱり、課題が多いことも事実です。だからこそ、それを支える強い心のつながりや絆はあったほうがいい。そのために、生活の中から必然性や、共通点を見つけることから始めないと、何をするにも定着しないと思うんですよね」

「小さく、たしかな人間関係や距離感の中にこそ、生活文化は潜むんですね」

どんなに時代が変わっても、人は『出会い』を求めると思います。鹽埕は小さな港町ですが、ここの緊密な人間関係を生かせば、ここに生まれ育った人もそうでない人も、そうした『出会い』に応えられるような場所に育つのではと期待していますね」

 

あとがき

 

数年前に高雄を訪れた際、バイクに乗って、鹽埕の長い商店街を回りました。

 

「生まれてから死ぬまでの生活必需品はすべて市場でまかなえる」と、私のおじいさんから聞いたことがあります。長い時間、市場は生活と密接に関わり、掲げられた看板はどれもその時代の生活を象徴するもの。それを眺めているとまるで時間が圧縮され、時代時代の地層を見せてくれているような感覚に陥ったことを覚えています。

 

今回の、邱さんの活動は、その地層に新しいものをひとつ積み上げるような活動でした。その活動は地道で、派手なものではないかもしれませんが、そうして小さく、踏み固めながら積み上げられた土はちょっとのアクシデントでは吹き飛んでしまうことがないように思います。

 

今までは台北、新竹、高雄という、西側にある北・中・南エリアにある三つの市場を回ってきました。次の最終章は台湾の東エリア、宜蘭(イーラン)という街に出かけます。

 

東のエリアは台湾の原住民の文化などが色濃く残る、また西とは少し違った文化を持つエリアです。お楽しみに!

 

編集:堤大樹/くいしん
撮影:堤大樹
イラスト:小林ラン


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