町の蕎麦屋はいい。筆者は立ち食いそばも好きだが、さらにうまい蕎麦やごはんものを食べさせてくれる所が数多いのだ。
しかも廉価だ。単品で500円台から、さらにセットメニューで1000円いかずとも腹いっぱい食える。
神田尾張屋飯田橋店のランチメニュー親子丼セット(980円)
送料無料が当たり前の「出前」も実に有用。そして自分の中でツボに来るお店を見つけたときの喜びは格別だ。飲みにも使える。
ただ、町の蕎麦屋の状況は順風満帆ではない。最盛期と比べると店舗数は約4分の1になったとも言われ、厚生労働省の調査でも個人店の苦戦が目立つ。最近よく通う筆者の肌感でもすいているお店が多い。
たしかによくクローズアップされるのも、立ち食いそば。しかし今こそ、町の蕎麦屋に光を当てるべきではないか。
ラーメン店が軒並み高級化するのに対し、町の蕎麦屋は「実はとびっきりおいしい料理」を隠し持ちながらも、親しみやすい価格で踏ん張っている。
筆者も好きな近所の店、広尾・巴屋で
「町中華」はいま一大ムーブメントになっているが、「町蕎麦(まちそば)」はまだそうなっていないのが現実だ。だからこのよさを伝えたい。
東京都麺類協同組合の理事長で、100年続く蕎麦屋・神田尾張屋の3代目でもある田中秀樹さんに、ライトに見えて深遠なる町の蕎麦屋さんのひみつと魅力を聞こう。
まずは「今のお蕎麦さんが、昔にお店を出したとき」の話からはじめてくれた。
昭和50年代、東京だけで約5000軒あった
「そもそも、いま町にある大衆的な蕎麦屋さんはどのように生まれたんですか?」
「戦後の昭和20~30年代、外食産業は少なかったんです。庶民的な価格だと、お蕎麦屋さんぐらいしか表で飲食できるようなところがなくて」
「蕎麦屋さんが庶民の助け船だったんですね」
「昔は出前も盛んだったし、ものすごく流行ったんですよ」
「昭和はベビーブームだけじゃなく、蕎麦屋ブームもあったのか……!」
「さらに、現在多くのお店がある更科さん、増田屋さん、長寿庵さんとかが、それぞれでのれん会を組んだ。その中で新しくお店を出すなら、お金が必要じゃない?」
「はい」
「資金の調達をしたり、借金の保証人になったりする会で、支店開業をサポートしたわけです」
「至れり尽くせりだ」
「店側も出前持ちとかがいっぱい必要だったから、自分の田舎から呼んだり、東京で学校出たらすぐ呼んだりして、お蕎麦の仕事を教えて独立させてあげるんです」
「蕎麦屋がたくさん生まれるシステムができていたんですね」
「そうして昭和30~40年代くらいに、お蕎麦屋さんがすごく増えました。他に外食できるお店があまりないし、蕎麦屋さんが街中で食べるものの中では値段的にも一番安かったんだ」
広尾・巴屋のたぬきそばは今も600円。筆者も愛する一杯
「ラーメンよりも安いですか?」
「ラーメンより安かったかもしれないな。昭和50年代の東京では組合の登録だけで5000軒前後あったようです」
「東京だけで5000軒!?」
「今は1200軒くらいです」
「減りましたが、まだ相当多いですね」
「いや、だいぶ減りましたよ。ただ、立ち食いそばや、手打ちの生粉打ち(十割)蕎麦とかを売りにするような新しいお店は、組合に入らないのが多いね」
蕎麦屋さんは昭和のファミレスだった
「いわゆる町の蕎麦屋さんのスタイルっていうのは、お店が一気に増えたときに完成したんですか?」
「そういうこと。メニューもおそばにごはんもの、ラーメンとかカレーライス……」
見ていて楽しくなる、バラエティにあふれたメニュー
「目移りするようなメニューがたくさんありますね」
「蕎麦屋さんは大衆レストランじゃないけれども、いろんなものが食べられたんですよ」
「いわば昭和のファミレスですか。ちなみに、多くのお店での人気メニューは何ですか?」
「人気メニューはまずたぬき。きつね。リーズナブルだし」
「たぬきそばとかきつねそばが人気なのは合点がいきますね。廉価かつ、かけそばより具材が多くてさみしくないですし。あと、カレー南蛮が人気のイメージがあります」
「人気です。秋口から冬場はよく出るね。あと、うちなら鴨南蛮とかの方が出るかもしれない」
神田尾張屋の鴨南蛮そば
「尾張屋さんで人気のメニューは何ですか?」
「天ぷらそばですね」
「海老天、町の蕎麦屋さんのごちそうって感じがしますね」
神田尾張屋飯田橋店の天ぷらそば。他のメニューより少しごちそう感が出る
「うちはえびが特別大きいのを使ってるから、ある程度の値段でも、ご納得いただけているみたいです」
「ちなみに卵とじそばが好きなんですけど、なぜ立ち食いそばには見かけないんですか?」
「立ち食いそばは、上に具材を乗っけておつゆにかけるだけの店が多いんです。卵とじはおつゆを沸かしといて上に卵をとじて煮ないとダメだから」
「卵とじそばは、ひと手間かかるメニューなんですね」
「だから立ち食いそばも、月見そばは出すでしょう」
「ありますね。そういえば海老天も見かけません」
「海老天は原価がかかるから」
「町の蕎麦屋さんでしか食べられないようなメニューこそ食べたくなるなぁ」
「蕎麦屋さんって麺はどう調達するんですか?」
「ラーメン屋さんは製麺所から買うのが多いけど、基本的に蕎麦屋は自家製麺です」
「おお、すごい」
「機械製麺か手打ちのどちらかだね」
「尾張屋さんはどちらですか」
「うちは店によっていろいろです。機械も使うし、手も使います。手打ちでも、麺を切るのは機械でやる所もありますよ」
鰹だしで作る名作、蕎麦屋のラーメン
「蕎麦屋さんの意外な人気メニューが『ラーメン』ですけど、なぜ人気なんですか?」
広尾・巴屋のラーメン(650円)。つい夢中になるおいしさ
「蕎麦屋のラーメンって独特なんだよ、さっぱりしていて……昔の中華そばのようなイメージだと思うんだよね」
「僕も好きです。独特の『これこれ!』って味です」
「昔から蕎麦屋さんは、鰹だしのスープでラーメンを作るお店が多かったんです」
「期待を裏切らない味わいですね」
「あと昔は、多くの蕎麦屋がラーメンを出していたんですよ。もう麺だったら何でも売っていた状態で」
「今だとラーメンを出す蕎麦屋さんは限られますもんね。ちなみにラーメンが人気のお店ってそればかり出る所もありますが、お店は『そばも食べて』と思うのでは?」
「うちラーメンやってないからわかんないけど、『蕎麦屋なんだからおそばも食べてよ』って言いたいだろうね」
「それで、こんなにたくさんのメニューを出していたんですね。そうなると、準備もひと苦労では?」
「大変ですよ。みんな仕込んでおきます」
「みんな!?」
「昔の蕎麦屋は高性能の冷蔵庫もなかったし、仕込んだものはその日に売り切るのが鉄則だったの。だからぜんぶの仕込みを朝にやっていました」
「ええ?」
「なので、朝はものすごく早かった。ところが今は冷蔵庫や冷凍庫があるから、出る分だけを解凍します」
「冷凍すれば、日持ちしますからね」
「だから容量の大きい冷蔵庫・冷凍庫をみなさん持ってますよ」
「メニューと言えば、食品サンプルも味がありますよね。蕎麦屋さんの食品サンプルを作るのが得意な業者さんもいるんですか?」
「かっぱ橋にいますよ。リースなんです」
「リース?」
「1年、2年使うと自動的に変えてくれる。でも、最近人手不足でやたら待つこともあるよ」
「人手不足がそんな所にも……」
「それはさておき、綺麗なほうがお客さんにおいしく見えるから」
「文字だけのメニューを、サンプルの存在が補ってくれますね」
のれん分けの店でも「実は共通点が少ない」
「のれん分けのお店って、やはりいろいろ似ているんですか?」
「共通点はあまりないと思うよ」
「ええ?」
「だから同じ長寿庵さんでもいろいろ違います」
「なぜですか?」
「だって住宅街とオフィスじゃ商売のやり方がぜんぶ違うから。値づけも違うし出すものも違ってくるんですよ」
「じゃあ、全然違うんですか?」
「もちろん共通点もある。更科さんは白い『更科そば』を出しているし、薮(そば)さんの場合は『1本びき』といって、そば粉を全部挽いて黒めのそばを出すお店が多いです」
「ピンポイントな特徴はあるんですね」
「あと、最初は修業していたお店の特徴が出ると思うよ。作れるもののレパートリーはその店によるし、似たメニューではじめる人が多い」
「そこからは自由ですか?」
「うん、のれん分けのお店だって自分の店を持てば一国一城の主だから。チェーン店とは全然違います」
東京の蕎麦屋は細麺と濃いつゆが多い
「我らが東京の蕎麦屋さんの特徴はありますか?」
「東京の蕎麦屋さんは何でもあり。ただ製麺機がない時代はみんな手打ちでね」
「はい」
「そこで、麺を細く作れる職人は、そばが売れるいい職人でした。だから細麺の蕎麦が多いんじゃないかな」
神田尾張屋本店のたぬきそば(770円)。非常に細い麺。口の中で渾然一体となって吸い込まれていく。うまい
「しいて言えばそれが特徴と」
「はい。あと関西の人は、『なんで東京のそばこんな真っ黒なの?』って言うけども、東京のお蕎麦はこういう濃いつゆで、こういう味ですから」
「私も関東の人間ですが、やっぱりこの濃いつゆが好きですね。あと、開花丼・たぬき丼あたりは東京の蕎麦屋さん独特のメニューともいわれます」
「町の蕎麦屋は地元密着型だから、いつも来てくれるお客さんは飽きさせないように手を加えたんじゃないかな」
「開花丼なんかもそのアレンジメニューの一つと考えれば、合点がいきますね」
「出前」は人手不足で減少
「私の周りで蕎麦屋さんは『出前で食べるもの』の意識が強かったです。出前で稼げている部分は大きいですか?」
「出前をやるお店はそうだろうね。ただ、今は人手不足で減っています。出前は時間の効率も悪いし、品物ものびるし」
「少しのびた蕎麦もまた味がありますけれどもね」
「それでも出前をやればよさそうな店も多いけれども、減少傾向です」
「出前ってすごいですよね。2人前以上頼めば送料無料で届けてくれるところも多いですし。送料がかかるUber Eatsがかすみますね」
「素朴な疑問ですけど、積み上げたセイロを片手で持って出前をする芸当は、なぜやらなくなったんですか」
「危ないから、警察に怒られるんだ」
「片手で持っていると、そうかもしれないですね……」
「昔、うちの若い人は皆50枚くらいかついでいましたよ。それで落とさない」
「すごい……中国雑技団も顔負けだ」
「テレビ局なんか面白がって、20枚担いで震度いくつまで耐えられるかなっていうのがあった」
「いろいろ危ない企画ですね、昔のテレビっぽいな」
蕎麦メニューの具材で作るからうまい「蕎麦前」
「町の蕎麦屋さんで、注目してほしいところはありますか」
「味と心意気だよね。お客さまに『自分の店』だって感覚で入ってほしいです。行きつけの喫茶店みたいに」
「いいですね」
「おつまみもいくつもあるし、お蕎麦屋さんで飲んでほしいな」
神田尾張屋飯田橋店の「蕎麦前」
「たしかに前行ったときも、落ち着いて飲めましたね」
「けっこういけるだろ? たとえばカツ丼の上の部分だけ『カツ煮』なんかで飲むのもいいよ。『蕎麦前』って言うんです」
「どんな意味ですか?」
「〆の蕎麦の前に、いろいろなおつまみとともに酒を楽しむんだ。蕎麦に使われている食材で作るものが多いよ」
「どのようなものですか」
「たとえば板わさ。おかめそばからかまぼこを流用しているわけです。焼きのりだってざるそばのを使うし、かも焼きも鴨南蛮があるから出せる」
「食材の扱いも熟練されているから、必然的に味もいいものになるわけですね」
調理技術のベースの高さを感じてほしい
「時代とともに変えるべきことと、変えてはいけないことはなんだと思いますか」
「経営方針は初心忘るべからず。変えちゃいけないと思うけど、流行りはある。そばは太めと細めか、汁も濃い目と薄めか。時代の流れにある程度乗るべき」
「尾張屋さんでのれん分けされた方もいますが、伝統の細麺を『太くしたい』と言われたら?」
「もちろん『どうぞ』です」
「柔軟性で時代を乗り越えてきたわけですね。ご自身も味を変えてきましたか?」
「はい、かつお節のダシの濃さに合わせて、味を調整してきました」
「最近『町中華』に注目が集まっています。片や町の蕎麦屋さん、『町蕎麦』にしかない魅力はありますか?」
「やっぱり一店一店がきちんと調理していること。おつゆもかつお節から全部煮出して、お醤油も工夫しているからおいしいんだと思う」
「この価格でそこまでやってくれるのはありがたい」
「セントラルキッチンでなくその場で作って、とにかくできたてを出すから。そば粉含有率も高いし」
「たまには微妙なお店もありますが、とびっきりおいしいお店も多いですね」
「値段は安いかもしんないけど、これ以上はお客さん出せないでしょう。それで毎日来てくれるのがありがたい。やっぱりお客さまにおいしかったよと言ってもらえるのが一番うれしいんです」
筆者も最近ようやく知った、町の蕎麦屋さんの魅力。
今まで単なる町の背景のように見えていた一軒に意を決して入ってみると、まるでずっと通っていたようにその場へ溶け込める。
大変な状況下で頑張る、町の蕎麦屋さんはまだまだ東京だけで約1200軒ある。ぜひ気軽にのれんをくぐり、「町蕎麦」のワンダーランドを体感してほしい。