史上最大の店舗数を誇ったラーメンチェーンは、どこだと思うだろう。「幸楽苑」か。それとも「日高屋」か。どちらも400を超える店舗数で、現代では日本最大級のラーメンチェーンだ。
しかし、ホントの答えは「どさん子ラーメン」(以下、「どさん子」)だ。1967年に創業の同店は、最盛期の店舗数は記録が残る範囲で1,157店。
中野駅前にある札幌ラーメン どさん子 中野南口店
なぜそこまでのお店を出店できたのか。1960年代後半~80年代前半ごろ、ご当地ラーメン史上、最大とされる「札幌ラーメンブーム」が巻き起こっていたからだ。
それまでラーメンといえば、いわゆるあっさり醤油の「中華そば」くらい。そもそも味噌ラーメンがメニューになかった。
しかし、「どさん子」が知らしめた濃厚で味わい深い「札幌味噌ラーメン」は、タピオカブーム顔負けの旋風を巻き起こし、瞬く間に全国へ波及する。ここから、味噌ラーメンが全国の中華料理店・ラーメン店で当たり前にメニューに並ぶこととなったのだ。
そのブームにより袋麺の商品として「サッポロ一番味噌ラーメン(サンヨー食品)」らも登場。さらには、「どさん子」の模倣(?)と呼ばれたチェーン「どさん娘」「どさん子大将」まで現れ、それらですら最盛期はともに800店ほどとされる、巨大な店舗数を誇った。
1987年当時でもまだあちこちに札幌ラーメン店を見かけた
ラーメンのひとつの定番となった味噌ラーメンが、かつてそれほどまでにムーブメントを巻き起こしていた事実。味噌ラーメン好きの筆者としてはあまりにも心惹かれる事実だ。
ブームから50年ほど経つ今でも、当時の店舗が全国に点在していることも、そのブームのすさまじさを物語っているだろう。
ならばぜひ、そのブームをけん引していた「どさん子」にぜひ話を聞きたい。創業者の故・青池保氏の長男である青池啓忠氏に、貴重な証言を伺った。
「どさん子」創業者の長男、青池啓忠氏
1日8軒も増えた「どさん子」
辰井「そもそも、なぜ『どさん子』を開業したんですか?」
青池「当時から百貨店の北海道物産展が非常に人気でした。東京で食べられない北海道のものが人気なことをヒントに、『味噌ラーメン』を東京にもってこようとしたんですね」
辰井「味噌ラーメンの東京上陸ですか」
青池「ええ、北海道へ実際に行って、味噌ラーメンを東京に持ってこようとしたんです。そこでのれん分けみたいな形で権利を分けてほしいといったところ、すごい金額を吹っ掛けられたんです。ならば自分でつくろうと、1967年に『どさん子』ができました」
辰井「そこでケチらずのれん分けをしていたら、今の『どさん子』はなかったんですね」
今のペリカンキャラが出る前の店構え。北海道と札幌をより強調していた
辰井「最盛期で1,157店とすごい店舗数だったそうですが、お店はどれくらいのペースで増えたんですか?」
青池「最初は少しずつでしたけど、ある程度からどんどん倍増していきました。1日に8軒開店した日もあったようです」
辰井「1日8軒……!」
青池「すべてが当時珍しい『フランチャイズ店』だったから可能でした」
「どさん子」チェーン加盟店推移(『経済界』1978年9月12日号より)
辰井「いつからフランチャイズ制を導入したんですか?」
青池「思い切って1号店から。まだ職人じゃなくてもラーメンを作れるように作業をパッケージ化しました。スープに味噌を溶いて、もやしとひき肉を軽くあぶってトッピングするだけ。素人の方でも2週間の研修で始められるようにしました」
辰井「カンタンさが1,157店の秘訣だったのか。なぜヒットしたと思いますか?」
青池「高度成長期で所得が増えて、外食できるようになってきたのがひとつ。あと、いまより遠い世界だった『北海道』に行かなきゃ食べられなかったものが、東京でも食べられるのもあったでしょうね」
それまで味噌ラーメンは「なかった」
辰井「当時、そもそも味噌ラーメンが身近になかったと聞きますが?」
青池「ええ、ありませんでした。『中華料理屋さんの中華そば=ラーメン』の認識でした」
辰井「今じゃどこでも当たり前にある味噌ラーメンがないんですか。ヘンな感じですね」
青池「その当時、ラーメン専門店という業態すら本州になかったようです」
辰井「『ラーメン屋』がなかった? じゃあ、当時の人はラーメンをどこで食べたんですか?」
青池「街の中華料理屋さんですね。ですが北海道ではすでに、味噌ラーメンの専門業態というのができていたんです」
辰井「北海道、進んでいたんだなあ。味噌ラーメンもあるし、ラーメン専門店もあるし」
青池「ですがそれは北海道の札幌、とくに『すすきの』あたりに集中していました」
辰井「じゃあ北海道でも札幌以外だと、あんまりなかった?」
青池「そうですね。なので『どさん子』のフランチャイズ店が北海道に出店して、札幌以外では『唯一、札幌ラーメンが食べられる店』として『どさん子』が機能した例も多かったはずです」
辰井「札幌以外の北海道に札幌ラーメンを広めたのか……」
青池「それ以外の地域には言わずもがなで、『どさん子』が全国に札幌味噌ラーメンを広めたと思います」
模倣店も約800店に
辰井「この札幌ラーメンブームのときは、ライバルのチェーン店はいましたか?」
青池「いえ。出始めのころ、ほかにラーメンチェーンは見かけなかったようです。当時はチェーン店自体が非常に少なくて、多店舗展開するのは、飲食店の場合はのれん分け。親方に認められて支店を出す方法しかなかったんですよ」
辰井「味噌ラーメンの先駆けはラーメンチェーン店の先駆けでもあったのか」
青池「味噌ラーメンが一気に普及してからは、他のところも似た業態の店をたくさん出しました。『くるまやラーメン』さんとか、『元祖札幌や』さんとか」
辰井「名前が似すぎている、『どさん娘』とか『どさん子大将』とか……」
青池「それはもう『どさん子』のフランチャイズ加盟店が勝手に独立したり、仕入れ先の業者が店を建てたりしたと聞きますね」
辰井「下剋上というか、裏切りというか……。そちらも約800店まで増えたのがすごい。じつは私、ずっと系列店だと思っていたんですが、やっぱり『見分けつかない』って言われましたか?」
青池「そんなお声はありましたね。だから彼らを訴えて、裁判で勝ったんです。けれども、そのころには向こうに体力がなくて、もう全店の看板を下ろすことができませんでした」
辰井「もうチェーンとして統率ができなくなっていたんですか。諸行無常だ……」
「どさん子街道」があった
当時のフランチャイズ店募集パンフレット。日本全国からニューヨークまで店を出していた
辰井「当時、とくに『どさん子』が多い場所ってありましたか?」
青池「新潟に向かう国道17号には高崎から新潟まで、『どさん子』が軒を連ねました」
辰井「おお、見たかった」
青池「『どさん子街道』とも言われました。『また“どさん子”だ』っていうくらいに頻繁に出てきて。大きな駐車場もあって、トラックドライバーさんの休憩所になりました」
辰井「当時は、ラーメン屋さんの駐車場で休んでいい雰囲気があったんですね」
青池「ええ、コンビニもまだなかった時代ですし。店の人に『何時に起こして』って頼んで、寝るとか」
辰井「店員さんが目覚まし時計なのか、お客さんとしては最高だ」
青池「ええ、トイレも貸していました」
ドライブイン型の店舗はドライバーが休める貴重な場所だった
辰井「ちなみになぜ新潟に多かったんですか?」
青池「商材が味噌ラーメンですから、寒い地域ではとくに繁盛したそうです。東北方面なんかも出店が多かったですし」
辰井「当時は『えぞ菊』さんによる『800人並んだ伝説』がありますけど、『どさん子』さんも行列はすごかったですか?」
青池「ええ。昔からのチェーン店さんは『当時よく儲かった』と言われますね」
辰井「財産を築いた人も?」
青池「いっぱいいるみたいですよ。チェーン店の建物の裏側を見ると、すごい御殿が建っていることもありますから」
辰井「どさん子札幌ラーメン御殿か……!」
1974年に進出を果たしたニューヨークの店舗。現地にラーメンブームを巻き起こした
青池「『子どもたちに家も買ってあげたし、もう何も思い残すことないんだ』みたいな方も結構います」
辰井「子どもたちに家を買ってあげたんですか!?」
青池「そうです。儲けたお金で」
辰井「高級車も買った?」
青池「それはさすがに周りの目があるので、『せめてクラウンにしなさい』と言っていました」
1988年式のクラウン「GS131-ATPQR」(トヨタ自動車)。かつては「いつかはクラウン」とのキャッチコピーもあった高級車だった(Photo by いつかはアレですよ)
辰井「そんなお子さんたちで、あまり跡を継いだ人を聞かないような……」
青池「公務員とか、一般企業へお勤めになる方が多くて」
辰井「なぜ継がなかったんですか?」
青池「親が寝ずに働く姿を見て、『手堅く安定した職に就こう』と考えたそうです」
辰井「繁盛していたからこそ大変だと思われていたのか……」
青池「親がお金を稼いでいたことも、子どもはわからなかったでしょうし」
醤油でも豚骨でもない「味噌」がキングだった
同じく加盟店募集のパンフレット。当時の勢いを感じさせるコピー
辰井「最近は醤油や豚骨が多い印象ですが、当時は『味噌ラーメン』がそれだけよく食べられていたんですか?」
青池「客観的に店舗数を見ても、圧倒的ではありましたから。突出した扱いでした」
辰井「なぜ味噌ラーメンが、日本中でこれほどまでに受け入れられたと思いますか?」
青池「日本人は習慣的に味噌汁を飲んでいましたから、味噌味になじみがあったんじゃないでしょうか。さらに味噌ラーメンの専門店が『北海道の有名店くらいしか食べられないようなもの』と見られたのが大きかったんじゃないですかね」
辰井「『どさん子』のスープは味噌汁を彷彿させるというか。味が強いなかにも人なつっこさがありますね」
青池「北海道の赤味噌は味が濃くて。味噌汁に使うような種類らしいんですけども、そこへいろいろなスパイスなどを入れて、ラーメンで使えるように加工してあるんですね」
辰井「たしかに味噌汁の片りんがあるテイスト。パンチがあって、今食べても新鮮で、味が他の味噌ラーメンに埋没しませんでした」
青池「そのレシピが『どさん子』の特徴だし、それが他ではまねできないものと思います」
豚骨ラーメンブームを乗り越えて生き残れたワケ
辰井「札幌ラーメンブームに陰りが見えてきたのはいつごろですか?」
青池「1989年ごろでしょうか。豚骨ラーメンや塩ラーメンが増えてきたころじゃないかと思います。みんなが他の味に移り出したところだと思うんですね。とくに『ラーメンとん太』らを輩出した豚骨ラーメンブームのころにうちの店舗も減り始めまして、今では120店ほどになりました」
辰井「10分の1になったと言えますし、創業から54年経ってもまだそれだけ残っているとも言えますね。今ある『どさん子』の店舗はなぜ生き残ったんですか?」
青池「ひとつは、もう何十年も営業しているので、町の中華料理屋さんみたいに定着しているんじゃないかと思います」
辰井「存在自体が街の当たり前になったと」
青池「そうですね、独自のメニューが好評のようで、半ば居酒屋化している店もありますよ。その一方で、いまだ味噌ラーメン主体で続けている店舗もございます」
「札幌ラーメン どさん子 ニュー国分店」のメニュー。定食やつまみなど独自のものが多い
辰井「この店のメニューはおでんに、もつ皿。ホントに自由ですね」
青池「昔から、縛りが強いフランチャイズではなくて、ある程度『地場産(の食材による)メニュー』を出していいとなっていたみたいです。いまではラーメン以外に定食で、地場の野菜や果物を使う料理を出す店が非常に多いですね」
辰井「地域性もメニューに表れているのか」
青池「そうですね。それが残っている理由のひとつでもあると思います。何も自主性を活かせない店は残らないでしょうから」
辰井「そんな『どさん子』で、新たにお店を出したい加盟店さんはいらっしゃいますか?」
青池「今、加盟するオーナーさんがやるお店は、こんな新業態のお店が多いです」
「どさん子ラーメン 大手町店」。最新の研究の成果を注ぐ「どさん子リブランド進化版」の店
辰井「あのポップな『どさん子』の看板じゃない?」
青池「ええ。創業時から大事にする、もやしなどの野菜や挽肉をしっかり炒める工程も踏襲しつつ、若い人向けに新たな味噌ラーメンを追求した店です」
「どさん子」得意の赤味噌で勝負する「赤練」(750円)
辰井「『赤練』うまいですね。『どさん子』伝統のもやしと挽肉の風味はそのままに、今風の濃いスープで食べるモッチモチでつるつるのめんがたまらなくなります」
青池「ありがとうございます。札幌ラーメンブーム当時から積み重ねた『どさん子』のノウハウが活かされていますよ」