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雑念日記|コンビニのクジ/割れたiPad/本のヒモ

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雑念日記|コンビニのクジ/割れたiPad/本のヒモ

ほとんど家から出ずに黙々と一人で生活していると、さまざまな雑念が頭に浮かんでは消えてゆくもの。

この日記では、家から出ないことに定評のあるライター・上田啓太が、日々の雑念や妄想を文章の形にして、みなさんにお届けします。

 

今回は、

・コンビニのクジびきには祝祭性がない

・iPadの画面が割れた

・本のヒモは不思議

の三本です。

 

上田啓太

文筆業。ブログ「真顔日記」を中心に、ネットのあちこちで活動中。
ブログ:真顔日記 Twitter:@ueda_keita

人は2000連休を与えられると、どうなるか?

 

コンビニのクジびきには祝祭性がない

一時期、やたらとクジびきをさせられた。近所のコンビニでキャンペーンをしていたからだ。

1000円ほど買い物すると、店員が箱を持ってきて、クジをひけと言われる。私が行くのは深夜が多い。そして深夜のコンビニの店員は、基本的にテンションの低い男である。義務感まるだしでクジの箱を出される。言われるがままに引く。

たいていは「応募券」が出る。要するにハズレである。集めると何かに応募できるようだが、私はよく知らない。たまに当たりが出る。これは「商品引換券」である。その場でコンビニの商品がもらえる。店内の商品を店員が取ってきて、事務的に終了する。

 

小学生の頃、近所のお祭りがあると、友だちと一緒に遊びに行った。なけなしのこづかいでクジをひく。商品にはファミコンやラジコンもあるが、実際に当たるのは100円のオモチャである。

あの時のクジびきの緊張・高揚・落胆を思うと、三十歳をすぎた自分がコンビニで引いているこのクジは、ほとんど虚無に近い。そこにはクジをひく緊張も高揚もなく、ボヤーッとした意識状態と、事務的な手の動きがあるだけだ。コンビニのクジびきには祝祭性がない。

 

ある時、プレミアムモルツが当たった。これは割と嬉しかった。店員と乾杯したかったが、店員の目は死んでいた。たしかに、プレミアムモルツが当たったのは私であって店員ではない。そりゃ目も死ぬ。店員の目に黙祷をささげて帰った。

別の日、キシリトールガムが当たった。これもけっこう嬉しかった。自分で買うほどじゃないが、景品で当たると嬉しいものとして絶妙だ。しかし、このキリシトールガムが業務用のような大きさだった。ボトル型の容器に大量の粒が入っていた。

注意書きには「1日7粒を目安に食べろ」と書いてあった。ものすごい頻度を要求してくる。キシリトールガムの関係の詰めかたが思っていたよりも近い。せいぜい1日に2、3粒じゃないのか。1日に7回もキシリトールガムのこと考えられないよ。

 

iPadの画面が割れた

昨冬、カフェで隣の席の客がiPadを使っていた。その画面がバキバキに割れていた。悲惨であった。同時に親近感をおぼえた。ああ、あなたのiPadもバキバキに割れているのですね。そんなふうに話しかけたくなった。というのは、私のiPadもだいぶ前から画面が割れているからだ。バキバキ仲間がここにいた。握手しましょう。

 

画面が割れた経緯は、すこし説明がむずかしい。

コードに繋いで充電中だった。気まぐれでスピーカーの上に置いていた。iPadの面積のほうが大きいため、非常に不安定な状態だ。当時の自分を叱りつけたくなる。そして案の定、なにかの拍子に腕をコードに引っかけてしまい、くさり鎌でも振り回すかのように、私の腕を中心にiPadはぐるんぐるん回転した。そして床に落ちた。画面を見るとバキバキであった。

 

ちなみに私は、スマホの画面も割れている。冬、コートの胸ポケットにスマホを入れたまま散歩していた時、ふいに全力疾走がしたくなって走り出したら、胸からスマホが元気に飛び出した。地面に落ちて画面が割れた。元気なスマホでけっこう!

別の日、胸ポケットにスマホを入れたまま玄関で靴を履こうとしてしゃがみこむと、またもや元気に飛び出して床に落ちた。画面のヒビは悪化した。愚かもの。

しかし、私はスマホをほとんど使わないのでショックは小さかった。安物だったし。iPadのほうは本当に落ち込んだ。修理方法を調べると新たに買うのと大して変わらない金額が必要になると判明して、ますます落ち込んだ。

 

以来、Kindleでマンガを読むときも、Youtubeで動画を見るときも、画面のヒビが視界に入る。自身の過失であるゆえ他の何かのせいにすることもできない。割れたのは俺の自尊心だ。終わりだ、終わり。なにもかも終わり。酒を持ってこい!

fin.

 

本のヒモは不思議

本には、しおりとして使えるヒモがついている。

たまに、このヒモが不思議になる。誰が思いついたアイデアなんだろう。かなりすごい発想である。たしかに、本のここからヒモが出ていれば、しおりがわりに使える。最低限の存在感で、最大限の機能を備えている。まさに「アイデア」という感じがする。

しかし、これは説明なしで「しおりとして使うヒモ」と理解できるんだろうか。私はこのヒモの使用法を自分がいつ知ったのか覚えていない。親か教師にでも習ったのか。気づいた時には知っていた。

 

世界は広いんだから、一人くらいこのヒモの意味を知らない人がいればいいと思った。非常な読書家なんだが、このヒモの意味は知らない。本を買うたびに、なんなんだこのヒモは、と思っている。すこし腹を立てているほどだ。

制作の過程でどうしても入りこむ不要なもの、と認識している。神経質な人間なので、ハサミでいちいち切っている。そのうち、それもまどろっこしくなり、無理やりブチッとちぎるようになる。この作業さえなければ本を読むことは楽しいのに、と考えている。

 

あまりに不快なため、ある時、男は推測をはじめる。これは要するに、スーパーでリンゴやナシを買った時、てっぺんに枝が残っているようなことなんだろうか? つまり、世界のどこかに書物のなる木があって、誰かがそれを収穫しているんだろうか?

この予測は彼を満足させる。それならば仕方ない、とはじめて思うことができる。アメリカ文学というのは、アメリカの農園で収穫された書物のことだ。サリンジャーというのは、書物を収穫した農夫の名前だ。じゃがいもの袋に生産者の名前が書いてあるように、本には作者の名前が書いてあるのだ。

 

ヘミングウェイ、カポーティ、フィッツジェラルド。アメリカ文学史を彩る、さまざまな名前の農夫たち。種をまき、芽吹きがあり、すくすくと書物は育つ。それを収穫する瞬間が、作家のいちばんの喜びなんだろう。僕は、サリンジャーの収穫した書物がいちばん好きだ。

 


 

ということで、今回は三本の日記でした。

それでは、また次回。


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