こんにちは。上田啓太というものです。
京都在住の31歳です。会社勤めはしてません。まあ、無職とライターの中間のようなアヤフヤな存在だと思ってください。「真顔日記」というブログを長年やっています。
さて、この6年ほど、私はほとんど人とも会わず、本ばかり読んでいたんですね。
私はテレビとマンガとゲームとネットで育った世代で、子供のころからビジュアルでパッと入ってくるものを大量に浴びていたから、活字というのはダルイものだったんですが、そんな自分が大量の本を読んだわけです。
もちろん最初は簡単な本から読みはじめ、徐々にむずかしいものも読むようになっていったんですが、その結果、「人はいかにして難解な長文を読むことに慣れていくのか」を自覚的に体験しました。
その過程で色々なことに気づきました。難しい文章とは何なのか、人はどんなところでつまずいてしまうのか。
この連載では、私が学習したことを書いていきたいと思います。
ということで、今回は「文章と息継ぎ」の話です。
文章を読むことと海にもぐること
文章を読むことは水に潜ることに似ています。それは慣れない者を溺れさせます。
だから、読み手を溺れさせないために、文章にはさまざまな「息継ぎのポイント」が設定されています。
どのようなものがあるか具体的に見てみましょう。
〇イラスト・画像
子供向けの小説には挿絵というものが入ってますね。子供にとっては文章を読むこと自体が大変だから、挿絵に辿りつくたびにホッとします。
ウェブの記事における「画像の挿入」も、この延長にあると思います。
〇会話文
一般的に地の文よりも会話文のほうが読みやすいため、挿絵のない本を読めるようになった子供は、次は会話文を頼りに長文を読んでいくようになるでしょう。
〇見出し
あるていどの分量ごとに見出しをつけることも、息継ぎのポイントになります。
〇改行
改行が増えるほど、息継ぎの回数も増えるため、簡単に読める文章になります。
〇句読点
もっとも小さな息継ぎの単位です。
〇見慣れた単語
いわゆる「難解な文章」には、見慣れない語句があふれています。その場合、見慣れた単語が息継ぎのポイントになります。
知らない言葉に出会うというのは、鼻に水が入ってくるようなもんです。次々と見慣れない単語が出てくれば、ゴボゴボと水が入ってくることになりますので、当然、溺れることになるでしょう。
息継ぎ不可能な文章の一例
上記の要素によって、文章の要求する「肺活量」が决まります。
自分の肺活量を大幅に超えた文章を読むと、人は「わけわかんねーよ」となります。
つまり、画像やイラストもなく、会話もなく、見出しも改行もなく、難解な語句が説明なしに次々と出てくるうえに、句読点なしでダーッと文章が続いている場合ですね。
極端な例をひとつ、でっちあげてみましょう。
カントからヘーゲルを経てマルクスに至る哲学の展開、それは物理学における特殊相対性理論の超観念論的錯誤の形而上学的誤謬、あるいはクリプキの議論を思い出すまでもなくポストモダンの超越論的湯豆腐と言えるだろう。しかし言語論的展開(Linguistic Turn)における湯豆腐の遡及的言論は一神教と多神教のアマルガムでしかなく、湯豆腐は湯と豆腐でできているという当然の事実すら丸山真男の眼鏡を叩き割ってモダニズムの亡霊にド・マンの徘徊は光子の観測を準備する。やはり近代の超克には、ジャック・ラカンの酔っぱらい哲学の登場を待たねばならないだろう。
パッと見ただけで「意味が分かりそうにない」ことは分かると思います。鼻にゴボゴボと水が入ってきたんじゃないでしょうか。
この文章自体は私が三十秒ででっちあげた完全なデタラメなので、本当に何の意味もないんですが、なにかの拍子に「その時の自分の肺活量」を大幅にこえた文章を読んでしまった場合、この文章を読んだような状態になると思われます。「意味不明すぎ!何かの呪文か!?」ってやつですね。
さて、しかしですよ。
息継ぎポイントを大量に設置すりゃあ、「読みやすくて面白い文章」になるかといえば、そうでもない。
「とにかく誰も溺れないように、徹底的に読みやすくしてみよう!」
と考えた場合、以下のような文章が生まれてしまいます。
息継ぎできすぎる文章の一例
きょうは とっても
てんきが いいから
おそとに 出てみては
どうでしょう!
もしかしたら
すてきなことが
おこるかも!
ところで みなさんは
湯豆腐(ゆどうふ)って
ご存知ですか?
これって……
じつは……
お豆腐を お湯で
ゆでたものなんです!
勉強になったかな?
(^_^)vブイッ
本日のまとめ
湯豆腐は
お湯で豆腐を
ゆでたもの
水たまりも楽しくない
「こいつ、俺のことナメてんのかな?」となりますよね。
たしかに、この文章はわかりやすい。
しかし、それはもう「無内容」と同じことですね。なにひとつ学ぶところがない。この文章を読んで、「続きを読みたい」とは思わないでしょう。たぶんこいつ、次は「カレーライスって、カレーとライスでできてるんです!」とか言い出しますからね。
「とにかく簡単にすりゃあいい」という発想で書かれた文章というのは、水たまりを用意して「ここでパシャパシャ泳いでください」ということなんで、やっぱり面白くないわけです。
読み手と文章のあいだの「良い関係」というのは、「ギリギリ泳ぎきれる」関係です。
知らない言葉もけっこう出てくる。つまり鼻に水が入ることもある。それでも分かるところは分かるし、すこし頑張れば話についていける。それが「良い関係」なわけです。
そして、ギリギリで泳ぎきれる文章を読んでいるうちに、自然と肺活量も増えて、以前は意味不明だった文章も読めるようになってくる。私がそうでした。
ということで、この連載では、「文章を書く・読むというのはどういうことなんだろう?」「本を読むことと、ネットを見ることはどう違うんだろう?」などについて、京都でひきこもりながら考えていたことを書いていきます。
湯豆腐は二度と出てこないので安心してください。
ライター:上田啓太
京都在住のライター。1984年生まれ。
居候生活をつづったブログ『真顔日記』も人気。
Twitterアカウント→@ueda_keita