どうも、古墳大好きライターのコフンねこです。
古墳の上に登ってます
ジモコロ編集長の柿次郎さんに会うたび「古墳がこんなに面白いんですよー!」と話していたら、「そんなに好きなら古墳の記事書いてみる?」ということに。
歴史の授業で聞いたことがあると思うんですが、古墳とは今から約1700年前~1300年前くらいの日本(=古墳時代)で土や石を盛って築かれたお墓のこと。簡単に言うと「昔のエライ人のお墓」です。
こういうやつですね↓
というわけで、赤だしの味噌汁を飲んでます。
「ちょっと待った! 古墳の話なのに、なんで赤だし?」
「実は、愛知の『豆味噌』を使った味噌汁『赤だし』を通して、古墳に想いを馳せることができるんです」
「どハマりしすぎて、すべてのものが古墳に見える症状に……?」
「違いますって! 古墳と地域の伝統文化は繋がってる仮説があるんです。ローカルを『古墳民俗学』的なノリで探っていけるんじゃないかと」
「古墳×ローカル文化ってこと! 興味深い」
「あくまで僕の仮説なんですけどね。でも、“古墳を通して世界を見ると面白いな”と思っていて。四六時中古墳のこと考えてるから、どんなことも古墳と結び付けて考える癖がついちゃいました」
古墳巡りの最中、解説看板を熟読しています
「やっぱり古墳愛が暴走してた…」
「小学6年生の頃から古墳にハマって、これまでに数百基くらい巡ってます」
小学6年生の頃のコフンねこ、もちろん後ろにあるのは古墳
「気がついたら古墳の本場・大阪の大学に来てましたし、ペンネームにもしちゃって……今でもヒマさえあれば古墳を巡ってます。勉強でも古墳、趣味でも古墳って感じです」
「(恋人が古墳って言いそうな勢い…)ちなみに“古墳とローカルにはこんな関係が!”って例、味噌以外にもある?」
「ありますよ!例えば、
・古墳と「地域の伝承」や「地域の神社」との間には意外なつながりが
・古墳は「現代の鉄道網」とも深く関わっている
・古墳は地域の産業に寄与していた
……なんだか面白そうじゃないですか??」
「教えてー!」
「古墳」と愛知の豆味噌のディープな関係
「話は戻りますが、赤だしのお味噌と古墳のつながりを追っていたらかなりディープなところまでたどり着いちゃったんです」
「味噌カツ・味噌おでん・味噌煮込みうどん……名古屋メシと古墳に一体何の関係が?」
「僕の考えによると、めちゃくちゃ関係あります。味噌ってすごく日本的に思えるんですけど、実は味噌と醤油はもともと日本にあったものではなくて、ある時代に中国大陸・朝鮮半島から渡来してきたものなんですよ」
仮説:味噌も焼き物も、海の向こうからやってきた?
愛知県産・豆味噌
味噌のなかでも愛知の豆味噌は、『テンジャン(甜醤)』『トウチ(豆鼓)』といった大陸系の味噌とよく似ていることが知られています。
特に似ているのは製造方法の面。大豆を“蒸し”、大豆に“直接”菌を植え付けて長期間発酵させる。
こうしたワイルドな作り方は愛知の豆味噌独自のモノで、なおかつ大陸の味噌づくりにそっくりなのだとか。
つまり、愛知のローカル文化の一角を成す「豆味噌文化」の起源は古墳時代なんじゃないか?と考えられるのです。
弥生時代に大陸からたくさんの渡来人が日本にやってきて「稲作」を持ち込んだ…コレはすごく有名なんですが、それより前の古墳時代にも、渡来人は日本に来ています。
その「古墳時代の渡来人」がもたらした文化・製品の中には、豆味噌の製造に必要な『蒸し器』がありました。
しかも、その蒸し器を含む「大陸系の土器(=須恵器)」を生産する集団が古墳時代の愛知県域に根付いたのは、全国でも比較的早い時期だったそう。
大陸系の土器、須恵器(すえき)のイメージ ※写真の器は愛知産でも蒸し器でもありません
Photo by (c)Tomo.Yun
古墳時代の愛知県における『蒸し器』を含む大陸系の土器の生産と、蒸さないと作れない大陸系のお味噌、何か関係がありそう…?
もしかしたら、大陸系の土器を作る人々が自分たちの地元のお味噌を持ち込んだのかもしれません…!
「なるほどー!! そういえば愛知って、今でも焼き物の生産が盛んなのでは?」
「そうなんです! 実は愛知の『瀬戸焼』『常滑焼』『尾張焼』などのルーツは、古墳時代の大陸系土器だそうで」
瀬戸焼のお碗 ©瀬戸市まるっとミュージアム
「古墳時代由来のものが現代に続いているという点で、なんだか豆味噌の状況もよく似ていますよね」
「つまり豆味噌と陶磁器、愛知のふたつのローカル文化の起源は古墳時代だ、と」
「…っていうのは、古墳のこと考えすぎてこじらせた仮説なんですが、”古墳からローカル文化を見るのも面白いよ!”的な感じで楽しんでいただけたら」
「古墳って何が面白いの?って思ってたけど、なんかイメージ変わってきたかも」
「それは嬉しいです! 」
「ジジ穴」「ババ穴」と諏訪大社の繋がり
「『ローカル文化の起源』の意味では、古墳と神社の関係も見過ごせないんです」
「ほほう」
仮説:古墳から地元の信仰のルーツが見える!
長野県南部に位置する下諏訪(しもすわ)町。諏訪湖の湖岸に位置するこの町には、「ジジ穴古墳」「ババ穴古墳」の名を持つふたつの小さな古墳があります。
まず名前がヘンですよね。実は、このふたつの古墳の名前の由来となった諏訪の伝承がすごく不思議。
『昔、諏訪湖周辺に火の雨が降ったとき、男はジジ穴に、女はババ穴に逃げ込んだ。今生き残っている諏訪の住民はその時逃げ込んだ者たちの子孫である』
「男だからジジ、女だからババ、か。で、その”穴”って何?」
「諏訪の古墳にポッカリと開いた穴、これはもともと亡くなった人を葬る『墓室(=石室)』です」
その役割がいつの間にか忘れ去られて、ある時期からは“火の雨を避けるために造られた謎の洞窟”のような扱いを受けていた?
こうした『火の雨伝説』を持つ古墳は山梨県・和歌山県・熊本県にも存在します。『火の雨』=「火山灰」なのではないか、と言われているそうですが、詳細は謎に包まれているらしい。
「火山と古墳の結びつき!”穴に逃げた”ってそういうことだったんだ」
「ジジ穴・ババ穴の場合、謎は火の雨伝説にとどまらないんですよ…なんと両古墳は諏訪大社・下社春宮(しもしゃはるみや)のすぐ近くに存在してるんです」
諏訪大社とは、長野県の諏訪湖一体に下社2殿・上社2殿を有する、日本最古級とも言われる神社。下社春宮は杉の木を、下社秋宮はイチイの木を、上社は山をご神体とする
しかも、古墳が造られた時期としては諏訪大社が初めて文書記録に登場する少し前くらいが想定されています。
つまり、ジジ穴・ババ穴に葬られた人物たちは、諏訪大社の創建または運営に深く関わっていた可能性があるわけです。
諏訪の火の雨伝説ーーなんともミステリアスな地域の「言い伝え」は、諏訪大社と古墳の関係性が織りなす神秘的な空間で生まれた…と、言えそうですね。
古墳のお墓としての役割や認識が失われたあとでも、神秘性までは失わなかったのかも…?
「古墳と伝承と神社、謎が謎を呼ぶ展開だ」
「今は住宅街によって視界が遮られちゃってますが、どうやら古墳からは綺麗に諏訪湖が見えたみたいです。諏訪湖を一望できる位置、これも神秘的な空間の構成要素だったのかも?と思ってます」
古墳から見た諏訪湖
「古墳の分布」と現代の鉄道路線も実は……
「古墳とローカルの結びつきは、食文化や神社といった民俗的な内容だけでは語り切れません。現代的な交通機関と『古墳』の間にも何らかの関連性があります」
「本当かな〜」
「いやいや、あります。僕がまだ小学生だったころ、地元・山形県置賜地方の古墳を巡っている際、あることに気づいたんですよ」
仮説:古墳の分布と鉄道のルートが同じ
僕が気づいたこと、それは
「なんだか古墳から電車が見える機会、多くない?」
地元・山形のとある駅。この写真の右側一帯に古墳群が広がっている
大阪に引っ越してきた今でも、「古墳から鉄道路線が見える」「電車から古墳が見える」という経験を何回もしてるんです。
古墳と鉄道(駅)が一緒に写っている例。こんもりしているのが古墳
古墳は全国に約20万基あると言われていますし、そのすべてが鉄道に面しているわけではありません。でも、偶然と割り切ることはできなさそう…?
詳しく調べてみると、古墳が鉄道路線沿いに分布している例が多いだけでなく、そのような古墳から出土する埴輪や土器などのスタイルが似ている例も少なくないことが徐々に判明してきました。
でも、鉄道が日本で作られ始めたのは、約150年前。
「古墳より圧倒的に鉄道のほうが最近だよね。一体なぜ?」
「鉄道のルートは、ある街とある街を結ぶにあたって、できるだけ坂道やカーブを避けるように選ばれています。坂道や急なカーブを避けたいのは古墳時代の人間だって同じ。結局『道の選び方』は時代を超えて共通なんじゃないかなと」
「なるほど。古墳時代でも人間は人間なのか」
「そういった誰もが選びうる『道』の周辺に古墳を作る。つまり道行く人に権力を示したかった……と推測できます」
道行く人に見えるようにハニワを並べた……との説がある古墳も
「現代の電車の中から古墳が見えるのは、古墳に眠っている1700年前~1300年前くらいの人々が、それほど大きな権力を誇っていた証拠じゃないかなと」
「1000年以上の時を超えても、未だに古墳が道行く人に権力を示してるってのはちょっと面白い」
「ですよね! 実は僕、鉄道旅行も好きなので、将来は線路わきにお墓作りたいな~とか考えちゃいます。もちろん前方後円墳の形で」
「それはちょっと理解できない」
「古墳」と地域の産業
文化といえば「地域の産業」も重要です。さっき書いたように、「豆味噌」や「瀬戸焼・常滑焼」はどうやら古墳時代が起源になっていそうですが、古墳時代が起源ではない産業にも古墳が役に立った例はあります。
その一つが「大阪・河内のワイン」。
昭和初期の大阪がぶどうやワインの生産量で日本一だったのをご存じでしょうか?
収穫量再び日本一へ 大阪産ブドウの“復権”目指す 羽曳野で地域活性化サミット
https://www.sankei.com/region/news/180514/rgn1805140045-n1.html
100年前、大阪は日本屈指のブドウ王国だった!?
https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/tantei/1270850_38851.html
「大阪とワイン。イメージは薄いけど、好きな人には有名な話みたいだね」
「実はこのワイン生産、古墳の存在にも支えられていたらしいんですよ」
仮説:大阪のワイン生産を古墳が支えていた!
ここは世界遺産にも登録された大阪府藤井寺市・羽曳野市に跨る古市(ふるいち)古墳群。大型・超大型の前方後円墳が乱立しています。
今でこそ「昔の天皇のお墓=陵墓(りょうぼ)」として厳格な管理がなされ、一般人は立ち入ることすら許されていない古墳も多い古市古墳群ですが、かつては比較的規制も緩かったらしく、自由な立ち入り・利用ができた古墳が数多く存在したのだとか。
古墳の盛り土はほどよい傾斜を持っていて、水はけも良いです。果樹栽培にぴったりだったことでしょう…!
実際に果樹が植えられている古室山古墳(古市古墳群の一つ)
つまり古墳を利用したブドウなどの果樹栽培が、当時の大阪のワインを日本一に押し上げた可能性は十分に高いのです。
加えてこの地域では鴨の生産も盛んでした。鴨の飼育には水辺も必要です。したがって古墳の水濠も役に立っていたはず。
古墳の水濠と鴨の姿
古墳の盛り土を果樹園に、水濠を鴨の飼育池に。余すことなく古墳を利用することで、ローカル産業が成り立っていたのカモ…!?
「果樹園として使ったら古墳が傷みそうだけど…」
「たしかにそうですね。今でも結構果樹園や畑として利用されている古墳や遺跡はたくさんあるので、歴史遺産と産業のバランスについてはこれからまた考えていかなきゃいけません…」
古墳は「ローカル文化」を創り出す?
食・地場産業・交通・神社…古墳を通してローカルの姿を追っていくと、古墳と文化の様々なつながりが見えてきました。
これがコフンねこ流・古墳の楽しみ方です。
大阪府堺市「花茶碗」さんの『古墳カレー』
みなさんもこの記事を読んで「古墳」と「古墳が創り出した文化」に興味を持っていただけたでしょうか?(あくまで仮説ですが…)
気になった方はぜひ、地元の古墳と地元の文化や風習との関連性について考えてみてくださいね。
ところで、こうした“古墳民俗学的な考え方”は今ある学問では定義できないものなんですよね……正直難しい。
だけど、僕にはローカルと古墳のつながりを追っていく使命があるのかも…? と勝手に思い込んでいるので、今後も調査を続けていきます。
ではまたお会いしましょう!!