大阪府吹田市の江坂に本社を置き、清掃用品のレンタルを中心に、外食事業なども展開する「ダスキン」。ダストコントロールと呼ばれるモップやマットをレンタルする仕組みは全国展開のフランチャイズシステムにより、全国民に知られてきました。
ダスキンはまた、アメリカ発祥のドーナツチェーン「ミスタードーナツ」も展開しているのはご存知でしょうか? 清掃用品からドーナツまで手がけるダスキンとはどんな企業なのでしょう。
今回は、「キレイ」と「おいしい」という2つの軸からなる「ダスキンミュージアム」を江坂に訪ねて、ダスキン創業の理念と、商品開発などの歴史をたどります。
創業者・鈴木清一が出会った“奉仕の精神”
吹田市にある「ダスキンミュージアム」
「ダスキンミュージアム」は、地下鉄御堂筋線江坂駅から歩いて約10分のところにあり、1階の「ミスドミュージアム」、2階の「おそうじ館」から構成されています。「おそうじ館」では、日本人と“掃除”のかかわり合いかたについてや、掃除の歴史に関する展示、そして、ハウスダストを退治するシアターアトラクション「ダスキンダストバスターズ」などが設けられています。
「おそうじ館」では、もちろんダスキンの歴史も紹介されています。ここでダスキンの創業者である鈴木清一(すずき・せいいち)の生涯を紹介しておきましょう。
ダスキンのTVCMと創業者・鈴木清一に関する展示
鈴木は、1911年愛知県碧南市に農家の六人兄弟中の四男として生まれました。三歳で鈴木家の養子になり、東京の私立中央商業学校を卒業後、老舗の蝋問屋・川原商店に入社します。
その後、結核性肋膜炎のため故郷で療養生活に入ります。そのころ、京都山科にある「一燈園(いっとうえん)」の西田天香(にしだ・てんこう)による著書『懺悔の生活』と出会ったのでした。当時は、作家の倉田百三が一燈園での体験を元にして書いた『出家とその弟子』がベストセラーとなり、西田と一燈園が知られるようになっていたのです。
一燈園は、西田が始めた修養団体で、修行者(同人)は「おひかり」(大自然)に向かって礼拝し、奉仕での働きから得た収入を所有せず、「おひかり」に捧げることを信条にしています。
その活動の中心は全国各地の家庭や学校、事業所等を訪ね、持参してきた掃除用具を使い、無償で便所の掃除をすることでした。鈴木は西田の考えに感銘を受け、一燈園に入園し、托鉢求道の人生を歩むことを決意するのです。
鈴木は、事業の方では1939年に、戦争のため輸入が困難になった蝋の代用品として「URワックス」を開発。翌年には、さらに本格的な代用蝋「高度ワックス」を開発し、日本の特殊蝋開発の第一人者となります。1942年には、日本初の板の間用艶だしワックスを開発。このすべらないワックスは「木が美しい」をもじって「ビキーナ」と命名されました。
1950年、戦前に立ち上げていた会社を株式会社ケントクと改め、本社を愛知から大阪に移転し、「板の間廊下のツヤ出しケントク」を積極的に売り出すようになります。このようにダスキンは、その前身から「キレイ」を追求してきたのでした。
1963年、大阪で株式会社サニクリーンを設立登記し、現在につながる「ダスキン」の創業となります。日本の企業では先駆けとなるフランチャイズ制を導入し、加盟店募集を開始。また生産拠点である吹田工場を開設します。ダスキンミュージアムは、この創業の地である吹田工場の跡地に建っています。
社名の「ダスキン」は、英語でほこりを表す「ダスト」と日本語の「雑巾」を合わせた造語です。最初、「株式会社ぞうきん」という社名が候補にあがったのですが、社員から「かっこ悪くて名刺も出せない」「人に言いにくい」「嫁さんのなり手もない」といった反対を受け、「ダスキン」になったのだといいます。
1964年、家庭用化学ぞうきん「ホームダスキン」のテスト販売を開始し、1か月足らずで約200件のレンタルに成功。この大ヒットで加盟希望が殺到し、雑誌『リーダーズダイジェスト』へ掲載した「日本で初めての貸しぞうきん」というコピーの広告でも話題を集めました。
1969年には全国ネットでのテレビCMも放映開始します。なかでも、1991年〜1992年にかけて放映した、ダスキンの問い合わせ電話番号「0120-100100」にちなんで、当時100歳の双子の姉妹「きんさん・ぎんさん」を起用した「ダスキン呼ぶなら100番100番」というテレビCMは、一世を風靡しました。
日本人と「掃除」の歴史
ダスキンが開発してきた商品・サービスの数々
ダスキンミュージアム2階の「おそうじ館」は、ダスキンの歴史を紹介するだけにとどまらず、日本人にとって「掃除」はどういうものなのかをたどる展示もあります。
日本では「お掃除」を単にきれいにする行為ではなく、神聖な行為、精神面を高める行為と位置づけてきた歴史があります。ほうきも単なる掃除道具ではなく、「箒神(ははきがみ)」という神様が宿る神聖なものだと考えられていました。
平安時代につくられた『扇面法華経』というお経を綴った冊子には、鳥の羽を束ねたほうきを使って床を掃いている様子が描かれています。また別の場面には、貴族のお屋敷を雑巾で掃除する人の姿も描かれています。この雑巾は、長い柄(え)の先にT字型の横木がつき、そこに長い布を挟んだモップのような形をしています。
ほうきと雑巾を手に“そうじ”する僧侶(『春日権現験記』第11軸。国立国会図書館デジタルコレクション)
鎌倉時代の絵巻『春日権現験記(かすがごんげんげんき)』にも、棒状の雑巾とキジの羽根だと思われるほうきを手に持つお坊さんが描かれています。日本では古代・中世から、ほうきと雑巾はセットだったようです。
ほうきが現在に近い形になったのは平安時代で、鎌倉時代には禅宗とつながって、修行の一環として使われるようになります。一方、また手持ちの雑巾が広く使われるようになったのは、室町時代から江戸時代にかけてのことだと考えられています。
江戸時代になると、掃除の仕方も丁寧に、拭き掃除も日常的になっていきます。また安価な木綿が出回るようになり、着物やふとんなどで使い古した木綿をほどいて縫い合わせ、雑巾にするようになりました。そして、畳が庶民に広がると、座敷用のほうきが江戸で生まれます。
ダスキンミュージアムの「おそうじ館」に展示されている様々な種類の“ほうき”
ほうきの素材はおもにシュロや赤シダなどでしたが、1950年代半ば以降はプラスチックが急速に広がって化繊ほうきが作られたり、新たな繊維を用いたほうきが作られるようになっていきました。化学ぞうきんやモップから始まるダスキンの商品・サービスも、こうした歴史のうえに位置づけられます。
その後、1960年代の高度経済成長期に入り、洋間の普及や衛生観念の向上から、核家族化によって家事の軽減が期待されるようになります。そんななかで、冷たい水でのつらい雑巾がけから主婦を解放する「ホームダスキン」を使った新たなおそうじ文化は、全国に拡がり、浸透していったのでした。
「ミスタードーナツ」事業をスタート
「ミスドミュージアム」と「おそうじ館」からなるダスキンミュージアム
ダスキンミュージアム1階の「ミスドミュージアム」は、ミスタードーナツの歴史と、おいしさへのこだわり、全国のミスタードーナツショップを紹介。また「ミスドキッチン」では予約のうえ、ドーナツの手作り体験もできます。
ミスタードーナツの創始者、ハリー・ウィノカー夫妻
ダスキンの創業者である鈴木清一は、1968年、本場アメリカのフランチャイズシステムを学ぶため渡米。その際、ミスタードーナツ社を視察し、創始者であるハリー・ウィノカーと初めて出会い、翌年には事業提携をスタートさせます。
アメリカ文化に対するあこがれが強い時代に、色も形もバラエティに富み、種類も豊富でおいしいドーナツを日本の人にも食べてもらいたいと考え、決断したのです。
同じ頃、ケンタッキーフライドチキンも日本への進出を果たそうと準備を始め、マクドナルドが日本に上陸を果たすのは2年後(1971年)のこと。日本で外食チェーン導入の先駆けとなったのもダスキンなのでした。
なおミスタードーナツのロゴマークは、このハリー・ウィノカーがモチーフとなっています。
ミスタードーナツ第1号箕面ショップ(写真は当時)
ダスキンは、ミスタードーナツ1号店をダイエー箕面店(大阪府箕面市)の敷地内にオープン。当時は、24時間営業で、ドーナツ1個40円、コーヒー1杯50円でした。1986年からは、イメージキャラクターにタレントの所ジョージを起用。キャッチコピーの「いいことあるぞ〜ミスタードーナツ」は、多くの日本人に好感をもって迎えられます。
「キレイ」にこだわってきたダスキンに加わった「おいしい」の追求。ミュージアムを訪ねると、ダスキンはいつも、私たちの“身近”を豊かにしてくれる企業だということが実感できるのです。
■ダスキンミュージアム
〒564-0054 大阪府吹田市芳野町5-32
TEL:06-6821-5000/開館時間:10:00~16:00(入館は15:30まで)
休館日:月曜日、年末年始(月曜日が祝日の場合は翌日休館)
http://www.duskin-museum.jp/☆ミスドキッチンの予約の詳細は→http://www.duskin-museum.jp/reserve/
イラスト=てぶくろ星人(Twitter)