え〜〜ある日突然、一家の女性が全員いなくなっちゃった!お伊勢参りで10日も帰ってこなかったの……?
あ、いきなり日記に夢中で失礼しました。ライターの友光だんごです。
これ、ただの日記じゃないんです。
「岐阜で300年前に書かれた山守(やまもり)の日記」なんです。
といっても、山守? 何それ? となる人がほとんどでしょう。
「灯台守」とか「墓守」とかなら聞いたことがあるかもしれません。まあそういう「守る人」の一種で「山を守る人=山守」だと思ってください。
そしてその末裔がまだ岐阜にいて、山を守る活動を続けているんです。
こちらが「山守」の末裔である内木哲朗(ないき・てつろう)さん。
冒頭の「山守日記」を発掘し、そこに書かれた「江戸時代の森づくり」の価値を広める活動をしています。
内木さんのメッセージ、それはずばり
ということ。
国土のおよそ4分の3を山地が占める日本。「山」との関係抜きに、私たちは生きていけません。
山守300年の歴史が紡ぐ話は、皆さんがこれから山を見る目を少しだけ変えてくれるはずです。
山守ってどんな仕事?
内木家があるのは、岐阜県中津川市の加子母(かしも)地区。見ての通り、大きな山に囲まれた集落です。
名古屋から車で2時間ほど。下呂温泉の近くに位置する加子母地区
加子母地区では林業がさかん。町にはあちこちに製材所があります。
しばらく車を走らせると、立派な門構えの家に到着しました。ここが内木さんのお宅です。こんにちは〜!
「よく来てくださいましたね」
「地元の人から内木家が300年続く『山守』の家だと伺って、詳しく話を聞いてみたいなと」
「『山守資料館』なんて看板は立派ですが、まだ開館準備中でして。まあ、色々お話はできますから、ぜひ聞いていってください」
「ありがとうございます。しかし立派なお家ですねえ」
「床の間の掛け軸も歴史がありそう」
「ああ、そこに描かれてるのはうちの先祖ですよ」
「ええ!? どの方ですか???」
「矢印の人物が先祖の『内木彦七』です。山守の仕事をしているところですね」
「ご先祖が掛け軸に描かれてる人、初めて会いました……! そもそも『山守』ってどんな仕事なんでしょう?」
「ざっくり言うと、山の管理をする仕事です。森林の保護や整備、違法伐採の取締り、山の境界の警備などをしていたんですね。300年ほど前に、尾張藩から命じられて私の先祖が加子母の山守の任務につきました」
「初めて聞いた仕事なんですが、当時はあちこちにいたんでしょうか?」
「そんなに多くはないでしょうね。というのも、この辺りの山は非常に重要視されていたんです。なぜなら豊かな森林があり、良質な木材がとれる。当時の木材は、今よりもずっと価値がありましたから」
「そうか、当時は建物の材料も燃料も木ですもんね。今なら油田や鉱山みたいな感じか〜」
「ええ、だから信長も秀吉も家康も天下を取った大名は、必ず最初に加子母を含む木曽の山を支配下に置いたんです」
「おお〜〜天下人たちが狙った山!」
「家康が手中におさめた後、息子が藩主をつとめる尾張藩に山の権利は譲られました。以後、尾張藩が加子母の山の管理元となったんです。名古屋城や伊勢神宮にも、加子母周辺で取れたヒノキが使われてるんですよ」
「名古屋城に伊勢神宮……! それだけ加子母でいい木がとれたってことですか?」
「それはもう。この辺りの山でとれる天然のヒノキは、非常に目が細かくて強い。神社やお城に使われる木は、数百年と保つわけですよ」
「なるほど〜、そんな木がとれる大事な森を守るのが、山守の役割だったと」
「そうですね。ただ山守が生まれたのには、もう一つ別の理由もあったんです」
江戸時代に山が枯渇し、蘇った?
貴重な資料とともに、山の歴史について教えてくれた内木さん
「江戸時代が始まった1600年台には、山の木はそれこそ無尽蔵にありました。山の持ち主である尾張藩としては、木を売れば売るほど儲かる。だから木を切りまくり……1700年頃にはハゲ山になってしまいました」
「えー! 木がなくなっちゃった。切った分だけ植えたりしなかったんでしょうか」
「商業ベースで、切った後のことは考えなかったようなんです」
「人間って、昔から資源を使い果たすのを繰り返してたんですね……」
「ただし尾張藩が偉かったのは、そこで森の再生事業を始めたんです。ただ、藩の本部がある名古屋城から山は遠いですから、現地で動ける人間が必要。そこで、私の先祖が山守に任命されたんですね」
「ここで繋がった! ご先祖は藩の一大プロジェクトの担当者だったんですね」
「ええ、とはいえ給料は安かったようですよ。初代の年棒は今の金額で100万円くらい。その後、世襲していくうちに120万円くらいまで上がったようですが」
「なんか、藩の直命任務にしてはしょっぱいですね……」
「だからサイドビジネスをしていた記録が残ってます。猪や鹿や熊を山で採り、売っていたようですね」
「副業で家計を支える……なんだか、内木家が一気に身近に思えてきました。話を戻して、森の再生はどんな風に進められたんですか?」
「江戸時代には草刈り機もチェーンソーもありません。だから、自然の力を利用しました」
「自然に種が落ち、森林の地表で育った苗を育てていく。あるいは伐採した木の根元に山引苗(根がついた木の苗)を植えていく。そうやって、徐々に森を再生したんです」
伐採した木の切り株に種が発芽し、成長した様子
「江戸時代式のメリットは、非常に省力的であること。つまり、人手もお金も抑えられるんです。太い木は残し、中途半端な木だけ切って、新しい苗を植える。人間が少しだけ手を貸して、森をうまく循環させてたんですね」
「なるほど。あの〜、お話を聞いてると、林業のやり方って江戸時代と今では変わってるんでしょうか?」
「ええ、そうなんです」
「現代の林業は、明治政府がドイツから輸入した技術がベースなんです」
「ええ! というと、文明開化が起きてから?」
「そうですね、当時は教育でも軍事でも、欧米からどんどん技術を取り入れていました。林業もその一つだったんです」
「知らなかったです……では、今の日本の山は江戸時代と変わっている?」
「はい。現在の日本の山は、基本的にドイツ式の近代林業に基づいて整備されています」
「現代林業では、土地をきれいに整地して、そこに植林します。そして下刈りや枝打ち、間伐をしながら管理して森が作られる。ただし、このやり方によるある変化が、日本の山に起きていると思うんです」