こんにちは、ライターの友光だんごです。
毎年、9月1日は『防災の日』。台風や津波、地震などの災害について考え、対処する心構えを準備する日とされています。
一瞬で私たちから当たり前の日常を、命を奪ってしまう災害。それは「どこか遠いところ」の出来事ではなく、今、この瞬間に、私たちの住んでいる地やあなたにとって身近な誰かを襲うかもしれません。
7年前に発生した東日本大震災もまた、たくさんの人たちから当たり前の日常を奪った災害でした。そしてその体験を、日本全国で伝えている先生がいます。
佐藤敏郎(さとう・としろう)さんは2011年、宮城県・女川第一中学校の国語教師を勤めていた際に東日本大震災を経験。石巻市立大川小学校に通っていた小学6年生の娘さんを亡くしました。
その後、テレビや新聞などのメディアで震災の体験を伝えていましたが、2015年に教師を退職。現在は語り部ガイドの活動や、「あの日」起きたことを伝えるために日本全国を飛び回り、講演を続けています。
僕が佐藤先生に出会ったのも、東京で行われたとある講演会。その中での、先生の一言が強く印象に残りました。
「学校の外へ出た今の方が、教員をしている気がする」
なぜ先生は学校を飛び出し、震災の経験を伝える側に回ったのだろう? その理由を聞いてみたくて、僕は宮城・女川を訪ねました。とある教室を舞台に、震災から7年目の授業が始まります。
話を聞いた人:佐藤敏郎
1963年、宮城県石巻市生まれ。国語科教諭として宮城県内の中学校に勤務したのち、2015年3月に退職。その後は全国の学校、地方自治体、企業、団体等で講演活動を行う。2016年に『16歳の語り部』(ポプラ社)を刊行。「小さな命の意味を考える会」代表、「認定NPO法人カタリバ」アドバイザー、「KIDS NOW JAPAN」理事のほか、ラジオのパーソナリティとしても活動中。「スマートサバイバープロジェクト」特別講師、「3.11メモリアルネットワーク」理事。
目指していたのは『歌って踊れる教師』
「いやあ、教壇に立つのなんていつぶりですかね」
「立ち姿にブランクをまったく感じなかったです。教員を退職されたのは3年前ですか?」
「ええ、今は全国で講演をしたり、宮城の被災地で語り部ガイドをしたり。あとは地元ラジオでレギュラー番組も持っています」
「先生からラジオDJに…!? 一体どんな番組なんでしょう」
「女川に住む人たちの声を通じて、被災地と呼ばれる町の今を伝えています。私は番組の司会はもちろん、ギターを弾いて歌ったりもしますよ。なんたって『歌って踊れる教師』を目指していましたから(笑)」
「歌って踊れる教師!」
「そうそう、教員時代の帰りの会は、毎回レクリエーションですよ。月曜はじゃんけん大会でね…って、こんな話でいいんでしたっけ? これだけで1時間くらい話せちゃいますけど(笑)」
「すごく気になるんですけど、まずは現在の先生の活動についてもっと聞きたいです」
救えたかもしれない犠牲を出してしまった3.11
「いま、一番に取り組んでいるのは『あの日のこと』を伝えて『3.11を自分ごとにする』ということです。というのも、3.11は『救えたかもしれない犠牲を出してしまった』震災なんです」
「救えたかもしれない犠牲、ですか」
「阪神淡路大震災の場合、発生したのはほとんどの人が寝ている早朝。そこに建物が潰れてきました。ある意味で逃げようがなかったからこそ、頑丈で地震に強い街をつくることが復興になったんですね」
「そうですね。もしまた地震が起きたとき、犠牲が少しでも減らせるように」
「一方、東日本大震災では地震が起きてから津波が来るまでに何十分もありました。しかし、津波で多くの人が犠牲になってしまった。その時間があれば、救えた人がたくさんいたんじゃないか、という思いがあります」
石巻市の大川小学校では、東日本大震災で全校児童108名中74名が犠牲になった。大川小で何が起きたのかを検証し、伝承する「小さな命の意味を考える会」の代表を佐藤先生は務めている
「東北は地震・津波が『必ず来る』とずっと言われてきましたが、心のどこかでは他人事でした。ハザードマップも避難マニュアルも訓練も形式的で、不十分だったものが少なくありません。その結果、大きな被害を出してしまいました」
「原発の『安全神話』のような例もありますね」
「だから、今回の失敗や後悔を曖昧にせずに向き合うことは、未来の命を守ることにつながるはずです。あの悲しみを無駄にしたくない、二度と繰り返してはいけない、と強く思います。 でも、現状はそう簡単ではありません。誰だって、あの悲しみやつらさは、できればなかったことにしたいですから」
「人の気持ちとしては、そうですね……『向き合う』と一言で言っても、当事者だった方からすればどんなに大変なことかと思います」
「それに、東日本大震災で被害を受けた地域の多くは半島部です。交通の便が悪いうえに被災地が分散しているから、お金も人も集まりづらい。すると震災を伝える、語り継ぐことは大事なんだけど、行政や議員さんにとっては道路や防波堤をつくることに比べて、予算にも票にもならない、という面があるんですね」
「だからこそ、私たち市民の側で震災をしっかり語り継いでいく必要がある。そこで、震災伝承のネットワークづくりにも取り組んでいます」
「ネットワークというと、宮城県以外とも繋がりを?」
「ええ、東日本大震災は青森から茨城まで被災地が広がっていますから。阪神大震災や熊本地震などと比べても、相当に広範囲ですよね。だからこそ、『伝えていく難しさ』もあると思うんです」
「伝えていく難しさ、ですか。もう少し詳しく聞きたいです」
「被災した範囲が広いために、震災遺構も語り部の人も分散しています。それに人や地域によって、津波で受けた被害にも差があるわけです。自宅が無事だった人もいれば、流されて今もまだ仮設住宅で生活する人もいる。だから、情報共有や活動の連携のためのネットワークが必要だったんです」
「なるほど、記憶が風化してしまうのを防ぐために」
「『被災者』や『被災地』と一言でくくっても、人や地域が違えばどうしたって意識や環境の違いは生まれます。だから、まずはお互いを理解して認め合う必要がある。その中で、いろんな人や団体を繋ぐ役割ができたら、と思っています」
学校の中と外を繋ぐパイプ役になりたかった
「教員を退職されたのも、そうしたいろんな場所を繋ぐ役割をするためだったんでしょうか」
「ええ、『学校と学校外を繋ぐパイプ役になりたい』と思っていました。私、教員時代から、積極的に学校外とコラボレーションしていたんですよ」
「学校外とコラボレーション? 具体的にはどんな風だったんでしょう」
「例えば、部活動に外部コーチや地域の人、卒業生を巻き込むんです。コミュニケーションをとって、練習や試合に来てもらう。野球、バレー、バスケといろんな部の顧問をしましたが、いずれも、生徒はどんどん上達して、大会でも好成績をあげました」
「指導面で外部の人の助けを借りたということですか?」
「それだけじゃなくて、生徒と外部の人が繋がって、いいコミュニティが生まれるんです。石巻地区の半分以上の男子バレー部は私の教え子がコーチをしてます。そいつらが自分のチームを連れて来て『佐藤敏郎カップ』ってバレーボール大会が開かれてるくらいです。OBチームも参加して盛り上がります」
「それはすごい! 自分の名前のついた大会が開かれるなんて、有名スポーツ選手みたいじゃないですか」
大川小学校の校舎は、鎮魂や津波避難の教訓を伝える場所として保存されている
「そういうことが好きだったので、学校は飛び出したかった。なぜなら『開かれた学校』というわりに、学校は開かれてないんです。外部の人を巻き込むことに、拒絶反応みたいなものがどうしてもあって」
「それは、外部の人を入れると危ないから…?」
「うーん、というより教員が忙しすぎるんですよね。例えば、4月の時点でむこう1年間の授業時間数は決まっています。だから、教員がとにかく時間に追われているなかで、授業に外部の人を巻き込むのが難しい。計画が狂って、教員の負担が増えてしまうんですね」
「なるほど。僕の母も長く教師をしていますが、ベテランになっても今だに帰りが遅くなることが多くて、忙しそうです」
「でも、そこに私のように学校の外に出た元教員が入れば、内外をつなぐパイプになれる。だから『いつか飛び出そう』と思っていたちょうどその頃に、震災が起きたんです」
「ナナメの関係」が生むもの
「震災直後の2011年の5月、問題になっていたのが『子どもたちの放課後の居場所がない』ということでした。当時はみんな、避難所で雑魚寝の生活です。だから、子どもが放課後に落ち着いて宿題や勉強をする場所がなかったんです。学校側で夜に勉強会を開いていましたが、そこにつく教員たちは、交代で避難所の宿直もしているわけです」
「昼間の学校業務に加えて、ということですよね。非常時とはいえ、先生たちもさすがに倒れてしまいそう…」
「そんな時に、『カタリバ』という東京の教育系NPOが『何か支援できることはないか』と女川に来てくれたんです」
「おお、まさしく救世主が現れたんですね!」
「ええ、そこからNPOやボランティア、地元の塾の人たちが、放課後に子どもたちの勉強をみてくれるようになりました。すると、それが子どもたちの色んな意味での心の居場所にもなったんです。勉強しながらふと本音を漏らしたり、県外から来た若いスタッフに相談に乗ってもらったり」
「親や先生ではないからこそ話せることもありそうです。僕も会社員時代、直属の上司にはどこか気を遣って何でも話せてはいなかったな……」
「時に寄り添い、時に人生の先輩としてアドバイスをくれる。これをカタリバでは『ナナメの関係』と呼んでいます。親や先生、会社の上司なんかは『タテの関係』ですね。ナナメを取り入れたほうが、学校という場も豊かになると思います」
復興が進んだ現在でも、学習指導や心のケアをおこなう「コラボ・スクール女川向学館」として居場所は継続している。運営元は、佐藤先生がアドバイザーを務める認定NPO法人カタリバ。取材は女川向学館の一室でおこなわれた
「今の佐藤先生も学校にとってナナメの存在だし、ナナメ仲間をどんどん増やしていってるわけですね」
「教員の経験があるのがいいですよね。内情も知ってるから、学校のほうも講演会や色んなことで私を呼びやすい。地元の保護者や先生方とのコネクションもあるし、女川中学校の教頭先生(※取材当時)は大学の同級生だから、弱みも握ってるし(笑)」
「それは強い!(笑)」
「学校を出た今の方が、教員をしている気がしますね。不思議なくらい教員時代と変わらない気持ちでいます」
被災体験を言語化することの意味
小学5年生のときに東日本大震災を経験した16歳(当時)の3人が、それぞれの言葉であの日の記憶を綴った本『16歳の語り部』(ポプラ社)
「僕は以前『16歳の語り部』の相澤朱音さんにジモコロで取材したのですが、この本の中に佐藤先生も登場しますよね」
「矢本第二中学校(宮城県東松島市)に国語教師兼防災担当として勤務していた時、『16歳の語り部』の3人と出会ったんです。今でも会っていますし、一緒に講演に出ることもありますよ」
「僕はあの本の中で、印象に残っているエピソードがあって。震災から2ヶ月後、女川第一中学校時代に、国語の授業で子どもたちに俳句を書いてもらったんですよね」
「外部からの提案でね、校長先生も乗り気でした。ただ、私個人としては反対だったんです。なにしろ、まだ町には瓦礫がいっぱいあって、どの生徒も家族や身近な人を亡くしている。そんなときに『素直な気持ちを五七五に表す』といっても、生徒たちはまだその気持ちに向き合えないんじゃないかと」
「大人でも、なかなか難しいかもしれません」
「しかし同時に、向き合わせることが必要だとも感じていました。だからもう『どうなっても知らないぞ』という気持ちで教室へ向かいましたね」
「何を書いてもいいぞ。書きたくないやつは書かなくてもいいぞ」
私は、内心恐る恐る生徒たちに呼びかけた。でも、授業が始まった瞬間、私は目の前の光景にびっくりしてしまった。生徒たちが、夢中で指折り、言葉を数えはじめたのだ。みんな必死になって、五音と七音の言葉を探し始めたのだ。
(『16歳の語り部』より)
「私の授業でも、あんなに集中しているのを見たことがない(笑)。それくらいの勢いでした」
「みんな、溜まっている感情があったんでしょうか」
「彼らは震災から2ヶ月間、まさに言葉を失ったままだったんです。あとで生徒に聞いたら『ちゃんと言葉にしたのはあの時が初めてだった』と言ってました。多くの子が津波や人の死を書いていましたが、ネガティブな言葉ではなく『青空』とか『会いたい』といった言葉を使うわけです」
“青い空 見守っていてね いつまでも”
“ありがとう 今度は私が 頑張るね”
“逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて”
「どれも家族を亡くした子の書いた句です。これほど思いの詰まった言葉って、なかなかないですよ。こんな句もありましたね」
“みあげれば がれきの上に こいのぼり”
「この子は家を流されて瓦礫だらけの道を歩いていたんだけど、『下ばっかり向いてたらダメだ』と顔を上げたら、壊れた建物の上に誰かがこいのぼりを上げていたと」
「簡単な言葉しか使っていないのに、悲しみや津波の恐ろしさ、絶望感も入りつつ、でも希望や繋がり、決意を感じさせる句です。俳句って、すごいなと思いましたよ。『嫌なら書かなくていい』って言ったのにみんな提出しましたからね。あれだけ夏休みの読書感想文を書いてこないやつらが(笑)」
「その子たちを横で見ていて、どんな変化を感じましたか?」
「俳句もですけど、言葉にすることで整理ができたり決着をつけられたり、わけの分からないことを受け止められる。そうすると向き合い方がわかるんです。こんな俳句を書いた子もいました」
“見たことない 女川町を 受け止める”
「『負けないぞ』『見たくない』『あきらめる』…いろんな言葉があるなかで、その子は『受け止める』と書いた」
「『そこからどうするか』ではなく、まず受け止める、と」
「一度受け止めて、あとは目をつぶってもいいし、逃げてもいいし、立ち向かってもいいんです。女川の子たちは震災を受け止めたことによって、いろんな活動を始めましたし、むしろ津波の話もどんどんし始めました」
「震災の年に入学した子たちは、授業時間数もめちゃくちゃな状況で学びました。でも今では留学に行ったり、いい大学に進学している子も多いです。だから結局、学力に関しても授業時間数とかじゃなくて、『志や視野を広げる』ことが一番大事なんだと思います」
「自分の力、自分の言葉で考えるということですね」
「もちろん人によって被災状況も違うから、必ずしもみんな一斉にやる必要はないとも思っています。まだ語れないでいる子も多いし、語らなくても大丈夫な子もいますから」
「整理の仕方は人それぞれですか」
「ええ、大人だってそうです。でも本当にね、私はいろんなことを子どもたちからから教えてもらいました」
「『16歳の語り部』や先生のお話からは、子どもたちの強さをとても感じます。震災という大きなことを乗り越える力を、誰もが持っているんだなと」
「誰もが可能性を秘めていて、その出し方は人それぞれなんでしょうね。震災は決してよかったことではないし、あのおかげでなんて言っちゃいけない。だけど、きっかけにはなったと思うんです」
おわりに
最後に、先生はこんな風に話してくれました。
「震災をきっかけに、いろんなことが実は当たり前じゃないことに気がつきました。食べ物や飲み物、住むところ、そして命もそう。明日もこの人と会える、ということも当たり前じゃなかったんです。
うちの上の娘が後悔していることがあります。それは震災の朝、下の娘に『お姉ちゃんおはよう』と言われたけど、忙しくて返さなかったこと。最後の日の朝、妹に『おはよう』と言えなかったのをすごく後悔してるって言うんです。
私が今日話したのは、震災からの7年間で気づいたことがほとんど。失う前に気づけばよかったけれど、後悔する前に、今できることもいっぱいあるはずなんです」
ときにユーモアも交えながら、熱のこもった口調で話してくれた佐藤先生。その時間はまるで、取材というよりも防災の授業でした。
「当たり前」の大切さは、日々の生活に身を任せていると、つい忘れてしまいがちです。しかし、災害はいつどこで起きるかわかりません。その当たり前は、一瞬で消えてしまうかもしれないのです。
目の前の人やものをちゃんと大切にすること。もしものときに後悔しないように生きているか?と自分に問いかけること。そこから防災の第一歩は始まると、佐藤先生は教えてくれました。
写真:藤原慶(Instagram)