カンッカンッカンッ
シュイィィィーン
ストンッ
鉄の塊を叩いて、曲げて、磨いて、美しい鋏に仕上げる。何十年もかけて培われた職人の勘と技術のなせる技です。こうした職人技術はさまざまな分野にわたり、古くからこの日本で脈々と受け継がれてきました。
しかし今、日本全国で職人文化が滅びつつあるんです。
「滅ぶ」という響きで神妙な顔になってしまいました。ライターの友光だんごです。
「職人文化がヤバい」っていう話はよく耳にするんですが、具体的にどうヤバいのか、僕なりにまとめてみました。
例えば、日本の鍛治職人をフィールドワークし、現状をまとめた本には次のように書いてあります。
(戦後になって)良いものかどうかは別にして、大量生産によって安いものができるようになり、今の人はすぐに新しいものに手を出すようになってしまった。昔は新しいものが高価であったため、一度買ったものは完全にダメになってしまうまで修理をして使っていた。
『生き残れ!日本の職人文化』(齋藤貴之著・風響社刊)から引用
かつて、生活に関わる道具は職人の手で作られていました。道具が壊れたら職人が修理し、長く使うのが当たり前でした。
しかし、戦後に大量生産の波が押し寄せ、大きな価値観の転換が起こります。すると…
ということに。現状は④がまさに進行中で、職人がどんどん減ってしまっているというわけです。
ただ、『職人がいなくなってなにが困るの?』と思う人もいるかもしれませんよね。ということで、職人代表の話を聞いてみたいと思います。手塚さーん!!
職人がいなくなると何が困るの?
最近では「FUNAI」の4K液晶テレビのCMに登場するなど、活躍の場を広げる飴細工職人・手塚新理さんに話を聞いてみました。
職人代表:手塚新理
手塚工藝株式会社代表。1989年、千葉県生まれ。幼少より造形や彫刻に勤しみ、飴細工 アメシンとして全国各地にて製作実演や体験教室、オーダーメイド等を手掛けてきた、日本随一の技術力を誇る飴細工師。2013年、東京浅草に飴細工の工房店舗「浅草 飴細工アメシン」を設立。現在、7名の弟子を抱える。
「飴に細工をするときに、僕は特別な握り鋏を使っています」
「この鋏を作ることができるのは、もう日本でただ1人、兵庫・小野市の水池長弥さんしかいません。なぜなら、水池さんの持つ『手打ち』という技術なしに、細かな調整ができないからです。水池さんがいなくなれば、僕の握り鋏は新しく作れなくなる。つまり、職人がいなくなるということは、技術が途絶えるということなんです」
「何十年、何百年とかけて受け継がれてきた技術が失われるって大変なことですね…」
「職人の技術は、師匠の元で何年と修行して『身につける』ものがほとんど。だから、途絶えた技術を後から復活させるのはかなり難しいんです」
「この悪い流れを断ち切らなきゃいけないんですが、職人の側も自分たちの技術を安売りすることに慣れてしまい、状況を改善する方向に動く余裕のある人が少ないんです。作ったものを気軽に人にあげちゃったり、技術に見合わない値段で仕事を引き受けたり」
「まさに悪循環ですね」
「なにより、一番の問題は『知られていない』ということです。危機的状況も、技術の価値も、知られていない。問題が表面化したときには時すでに遅しで、貴重な技術が途絶えてしまっています」
「なんかもう、『ないない』づくしでお腹痛くなってきました」
「ただ、なんとか状況を改善しようと動いてる人もいます。僕の知り合いなんですが、会ってみますか?」
「行きます!明るい話が聞きたい〜〜!!」
ふすま職人の家に生まれたデザイナー
兵庫・小野市の「小林表具店」にやって来ました。ジモコロ編集長の柿次郎も一緒です。
小野市は古くから、そろばんや刃物作りといった産業が盛ん。つまり、職人文化が根付く土地なんです。今回訪ねた人も職人の息子さん。ただし、家業を継ぐのではなく、デザイナーとして、地元の職人問題の解決に取り組んでいます。
話を聞いた人:小林新也(こばやし・しんや)
1986年兵庫県生まれ。実家は代々続く表具店「小林表具店」。大阪芸大でプロダクトデザインを学ぶ。大学卒業後、地元の兵庫・小野市に戻り、2011年にデザインスタジオ「 合同会社シーラカンス食堂 」を設立。2016年「MUJUN」をオランダ・アムステルダムに設立。小野の伝統工芸「そろばん」や「播州刃物」をはじめ、日本各地の地域財産を世界市場へ向け「 伝える」ことに注力した販路開拓に取り組む。
「僕が飴細工で使う握り鋏も小野市の『播州刃物』。そのブランディングを手がけているのが小林さんなんです」
「実家はふすまや障子、掛け軸を扱う『表具店』です。曽祖父が京都で創業して、祖父、父と代々職人ですが、僕はデザイナーになりました」
「職人の息子がデザイナーに!」
「単に製品をデザインするだけではなく、『ブランドとしての見せ方』『売り方』から変えて、職人さんの現状を良くしたいと思ってます」
「小林さんが『継がなかった』理由、気になるな」
なんで職人を継いでないんですか?
「10代の頃は家業や地元の産業に関心が薄くて。絵やものづくりに自信があったのでデザイナーになろうと大阪芸大へ進学しました。その在学中に瀬戸内海の豊島に滞在した時期があって、地元の漁師さんとすごく仲良くなったんです。『船やろうか』なんて言われたりして」
「めっちゃ気に入られてる!」
「漁師も後継者問題が深刻ですから。漁師さんたちと話してるうちに、『そういえば自分の地元のこと、全然知らんな』と思ったんです。そこで初めて『地元』っていう視点ができて、帰りたくなって。大学卒業後に小野市へ戻って、デザイン事務所を開きました」
「一度、外へ出たことで、改めて地元に興味が湧いたんですね。ふすま職人のお父さんとの関係が気になってるんですが、デザイナーになるって言って『馬鹿もーん!』みたいに怒られたりしませんでした?」
「いえ、一緒に仕事をしてますよ。僕の参加する展示会の什器を父に作ってもらったり、僕が関わっている掛け軸を作るプロジェクトにも協力してもらったりしています。ちゃんと仕事として発注してますよ」
「息子がクライアントとして父親に仕事を依頼してるんですね」
「めちゃいい親子関係じゃないですか!」
「実家との仕事は一番難しいですけどね。職人の親子と同じだと思います。父にもプライドがあるから」
「売り方」を変えて、根本から解決する
「職人をめぐる問題って解決が不可能なくらい複雑に思えるんですが、小林さんはどんな風に取り組んでるんですか?」
「一言でいうと『売り方から変える』ですね。そもそも、職人問題にはいろんな『矛盾』があると思っていて」
「矛盾ですか」
「たとえば『儲からない』。そもそも、『職人のこだわり』と『金儲け』って矛盾するんですよ。儲けるにはたくさん作ってたくさん売るのが一番ですが、職人さんも人間なので、1日に作れる量は限界がありますよね」
「職人としてはひとつひとつのクオリティを落として量産するわけにはいかないですから、物理的な限界があります」
「材料の原価率もそう変わらないし、送料や消費税だってかかる。だとしたら、解決法は売り方を変えて、価格を上げるしかないんです。そのために、『播州刃物』というブランド戦略を立てました」
当初は小野の刃物組合から「新しいデザインを」と頼まれましたが、その高い技術に感動し、「そのままでいい」と感じたという小林さん。デザイン以前に、「見せ方」「売り方」を変えることに取り組み始めました。
「ブランド化して、刃物の価値を高めたんですね。値段を上げれば職人さんの儲けも増え、余裕も生まれますね」
「ただ、新しいブランドとして売り出しても、今までと同じ国内の販路では、パッケージを変えて価格が高くなっただけと思われてしまいます。そこで、新たな販路を開拓しています」
「国内でなければ…海外?」
「はい。そして、販路といっても、ただ向こうへ商品を卸すだけでは駄目なんです。なぜなら、いくら刃物が一流でも、その価値を店頭で伝えられないと、お客さんにはわからないですよね。それなら、いっそ現地に店を作ればいいと思ったんです。いずれ、オランダとニューヨークとシドニーに店を開こうとしてます」
「えええ!海外にお店!」
「『MUJUN』というプロジェクト名で、海外進出を進めています」
海外で日本の刃物がウケる理由とは
「ヨーロッパは『合理化』の歴史なので、伝統的な製法の刃物はあんまり残ってないんです。販路として未開拓なので、とても可能性を感じていて」
「オランダは、江戸時代に鎖国中の日本と貿易してましたよね。日本文化になじみがありそうな」
「国立民族博物館に日本の工芸品や文物を集めた『シーボルト・コレクション』があったり、ライデン大学には日本語コースもあったりしますね。日本語コースには、江戸オタクとか明治オタクのオランダ人がいっぱいいますよ」
「そういうところに日本の刃物の店ができたらめちゃくちゃウケそうですね」
「現在はアムステルダムを拠点に、各地のミュージアムでポップアップショップを展開しているところです」
「一気に海外へ行っちゃう行動力がすごいな」
「海外に店ができれば、向こうへ商品を卸したり、商品開発の相談を受ける窓口になります。なにより、製品のよさをきちんと伝えられて、かつメンテナンスもできる人を置くことができます」
「職人さんの刃物って長く使えると聞きますが、手入れがあってこそですもんね」
「数日間の展示会でものを売っても、その後のケアがないと結局は定着しないんですよ。売り方を変えるということは、定着させるためのシステムまで作るということ。一時的に関わるんじゃなくて、一事業者として、真剣に向き合わないと駄目だと思うんです」
職人が「正当」に評価されるために
「初めて展示会に『播州刃物』を出展したとき、小野の職人さんを会場に呼んで、お客さんが技術に驚く様子を見てもらったんです。今まで小野の職人はお客さんの反応を直接見る機会が無かったんですが、リアクションを生で見ると、その後の張り切りようが違って」
「誰が使うかもわからず作るより、モチベーション上がりますよね。ライターだって、記事の反応を見るのがいちばん嬉しいですから」
「職人さんは本当に凄い技術を持ってるんです。もっと職人という仕事が正当に評価されるべきで、そのために僕は『見せ方』『売り方』を変えます。そして適正な需要が生まれることで、職人さんにちゃんとお金が入って、自分の仕事に自信を持って欲しいんです」
「後継者の問題も、職人さんに余裕が生まれないと解決は難しそうですもんね」
「金銭的にも、時間的にもですね。僕もメディアに出ることで、職人がかっこいいって思わせたいんです。子どもが『なりたい』って憧れるくらいにならないと。我々若い世代がどれだけ頑張れるかだと思います」
「技術の素晴らしさや何が問題かを知ってもらって、世の中の価値観を少しずつ変えていくしかないですね。僕たちメディアも頑張らないと…!」
おわりに
「ご縁しか信じない」という小林さん。デザイナーを志して一度は地元を出るも、さまざまなご縁に導かれた結果、地元の職人文化を守り、次世代へ繋げるべく奔走しています。
閉塞した伝統文化を、若い世代の革新的なアイデアが変えていく。ここ小野市は、そうした幸福な連鎖が生まれている場所でした。「播州刃物」がやがて「BANSHU HAMONO」として世界的ブランドになることも、夢ではないように思います。
複雑になってしまった問題を解決するには、小手先ではなく、根っこから変えること。時間をかけて取り組むこと。
「時すでに遅し」になってしまう前に、できることはまだまだあるはずです。
↓職人さんに取材したジモコロの記事はコチラ
書いた人:友光だんご
編集者/ライター。1989年岡山生まれ。Huuuu所属。犬とビールを見ると駆けだす。Facebook:友光だんご / Twitter:@inutekina / 個人ブログ:友光だんご日記 / Mail: dango(a)huuuu.jp
写真:小林 直博
長野県奥信濃発のフリーペーパー『鶴と亀』で編集者兼フォトグラファーをやっている。1991年生まれ。ばあちゃん子。生まれ育った長野県飯山市を拠点に、奥信濃らしい生き方を目指し活動中。