こんにちは、山口むつおです。
長崎県のすごい山奥にある、とある場所から失礼いたします。
最近、隠れキリシタンをテーマにした映画『沈黙-サイレンス-』(マーティン・スコセッシ監督)が公開され、話題になっていますね。原作は遠藤周作の名作『沈黙』。じっくり記事を作っていたら、映画公開時期と偶然かぶってしまいました。決してPR記事ではありません!
ここで歴史の話へ。みんな薄っすらと学校で習ったと思いますが、日本にはザビエルをはじめとした宣教師がやってきました。でも、なんで日本だったんでしょう??
ちなみに僕は、学生の時から地理や歴史といった暗記科目が大の苦手でした。
いやね、わかりますよ。暗記科目なんて何回も頑張ればそのうち覚えるっていうのは。でもねー、それ好奇心の塊である10代の青少年には酷じゃない?ただただ覚えろって言われても、こちとら「女性の体の仕組み」および「トルネコの大冒険で地下10階にある鉄の金庫をいかにして無事入手するか」「転ばぬ先の杖って持っとく派?それともすぐ捨てる派?」について脳のリソースのほとんどを割いているわけですから……そこ超えてきてもらわんと……。
つまりは「なぜそうなってるのか」という仕組みの面白さまで教えてもらえないと、興味が持てんのです!
……というわけで、今回は長崎県に来ているので、「なぜフランシスコ・ザビエルが日本にやってきたか」「長崎県がなぜキリスト教と縁深いのか」について死ぬほど詳しくやります。
お話を聞くのは、学生時代から勉強ができなかったこの3名です。
山口むつお(ジモコロライター):
高校入学後に勉強についていけなくなる。数学Aの試験で13点を取り追試となるが、元を下回る10点を取った。
鳥巣(長崎の案内人):
会社員。長崎出身で、五島列島という場所に図書館を作った男。中学の時点ですでに赤点を取っていた。
柿次郎(ジモコロ編集長):
高卒。
そしてお話をいただくのは、長崎巡礼センターで事務局長を務める、入口仁志さん。先日長崎県へ取材に行った際にキリスト教について色々聞いてみようと思って訪ねたのですが、その話があまりに面白かったのでこのコーナーだけ取り上げて記事にしてみました。
「ぼくの会社の先輩が以前に入口さんに出会ってて。その時に聞いた、キリシタンの歴史のお話がすごく面白くて勉強になると言っていたので、今日はとても楽しみです!」
「よろしくお願いします!」
「はい、今日はよろしくね!」
キリスト教を追放しようとした真の狙いって何なの?
「昔の日本って、キリスト教を追放しようとしてませんでした??」
「秀吉が『バテレン追放令』を出したのが1587年。これは九州平定と同じ時期にあたるんだよね。もともと秀吉はキリスト教布教を容認していたんだけど、ひっくり返しちゃったんだ」
「なんでまた?」
「それはね、この長崎が貿易の中心となっていた事が原因なんだよ。キリスト教徒の中には大名もいたんだけど、彼らが外国と貿易をし続け、自分より力をつける事を恐れたんだろね」
「なるほど」
「つまりバテレン追放令の狙いは『貿易の制限』だったんだ。そしてそれが、江戸幕府が発令した『鎖国』につながっていった。こう見ていくと、キリスト教の歴史って、そのまま日本の歴史に置き換えることができるでしょ?」
「いや〜確かに!」
なぜザビエルは日本にやってきたの?
「キリスト教の歴史で外せないのはフランシスコ・ザビエルの存在だよね」
フランシスコ・ザビエル
ナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。
ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。
「ザビエルは『キリスト教を布教するため』日本に来たという事は知っていても、どうやって日本に来たかまではわからんでしょう?」
「そういえば知りません」
「そりゃそうさ。だって日本がザビエルを呼んだんじゃないんだもん。ザビエルがなぜ日本にキリスト教の布教にやってきたかを知ろうと思ったら、日本史じゃなくて世界史に目を向けないと見えてこないよ」
「なんか大河ドラマみたいな展開になってきたな」
「1500年代のヨーロッパは、カトリックが支配していたんだけどね。1517年にマルティン・ルターという神父が、カトリック教会の改革を求めて抗議文を書いたんだ」
「その抗議文が書かれたのがドイツ・オランダ地方。その頃、このドイツ・オランダ地方を支配していたのはスペインなんだよね」
「ふんふんふん」
「ルターの抗議文は宗教改革……『プロテスタント』というカトリックから分離した新教を生むことになったんだ」
「カトリックとプロテスタントってそういう分かれ方したんだ」
「やがてそれは、オランダがスペインから独立することにつながっていくんだ」
「芋づるで来るな〜〜」
「急激に成長するプロテスタントに負けてはいられん!という事で、カトリックも『イエズス会』というものを作り『ヨーロッパから飛び出して世界布教を目指そう!』という事を決めた。このイエズス会の創設にフランシスコ・ザビエルは関わっていたんだね」
「なるほど〜。ヨーロッパだけじゃパイの数が足りないから、グローバル化して世界シェアを取りに行こうとしたんですね」
「そうそう。そしてもう1つ、それに関連したちょっと複雑な動きがあったんだ。当時カトリックの覇権はスペインとポルトガルが握っていた」
「世界布教にあたって、カトリックの総本山であるバチカン市国が宣教許可を出すんだけど、『スペインは西へ、ポルトガルは東へ向かえ』と指示したんだ。このときザビエルはポルトガル側にいたんだね」
「はいはいはい」
「まずはスペインから。スペインはヨーロッパから西へ向うと、まず南米大陸に到着した。そしてインカ文明や他の文明を武力で制圧し、金銀を本国に送ったんだ。そうやって植民地化していったから、南米大陸のほとんどの国でスペイン語が公用語として使われているんだよ」
「植民地の背景にはキリスト教の世界布教があったんだ!知らんかった」
「あれ?でもブラジルの公用語ってポルトガル語じゃなかったでしたっけ?」
「いいところに気がついたね。じゃあ次は東へ向かったポルトガルの話をしよう」
「彼らは東へ向かったのはいいものの、ヨーロッパの東はバリバリのイスラム圏じゃない?だからそもそも入ることができなかったんだ。だからそこを避けて、ぐぐ〜っとアフリカ大陸に沿って南に下りていく必要があった。その旅の道中、ついでに立ち寄ったのがブラジルだったんだ。だからブラジルだけはポルトガル語なの」
「ついでで植民地化するなし」
「そしてアフリカの喜望峰をまわり、航海を続け、とうとうザビエルを乗せたポルトガル船はインドのゴアに到着する。さらに東南アジアのマラッカに進み、そこで偶然、ザビエルはヤジロウという日本人と出会うことになる」
ヤジロウ
史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される。彼自身やザビエルの書簡によれば、彼は若い頃に人を殺し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。その罪を告白するために彼はザビエルを訪ねたという。
「ザビエルは、彼から日本という国の存在を聞くわけだ。国の規模を考えるとイエズス会が最終目的地としていたのは間違いなく中国だろうけど、その途中に高い文化レベルを持った日本という国があるなら寄って行こうか、という事になったんだな。そしてザビエルは長崎の港にやってきた、というわけ」
「日本もついでか〜〜〜〜〜」
「今まで点で覚えようとしてたものをストーリーで聞くと、すごい納得できる」
「まあでも、この後彼らは中国を目指したんだけど、海賊の暴れ方が半端じゃなくて布教ができなかったんだよね〜」
「面白いな〜。こういうの小学生の時に聞いておきたかったわ」
「歴史は面白いよ!それを教えるのが学校の先生のはずなんだけどね。まずは大まかな流れを知ることが大事で、細かいところは自分で勉強すればいいんだよ。僕は長崎の人間だから、長崎で起こったキリスト教の歴史に詳しくなっただけ。つねに自分のポジションを意識しておけば、知識なんてすぐに頭に入ってくるよ」
「なるほどね〜〜〜」
めちゃくちゃ感心して笑うしかない鳥巣さん。
隠れキリシタンと生まれる差別感情
「その後、長崎でキリスト教はどうなっていったんですか?」
「1549年にザビエルが来てから、日本にキリスト教が広まったんだけど、一方でキリシタンに対する弾圧はどんどんひどくなっていったんだ。特に明治初期の弾圧はすさまじいものだった。その大きなきっかけは、長崎に大浦天主堂ができたからなんだ」
大浦天主堂
長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、1865年(元治2年)に建立された日本最古の現存するキリスト教建築物。
「あれ?なんでキリスト教を禁止している日本に教会を建てたんですか?」
「それは時代背景と貿易相手の事を考えればわかるよ。1858年に日米修好通商条約によって日本の鎖国は解かれたわけなんだけど、開国した相手はアメリカ、イギリス、オランダ、ロシア、フランスの五カ国だった。さて、この国々の主な宗教がなにかわかる?」
「全部キリスト教じゃない?」
「全部キリスト教だけど、フランスだけがカトリックで、他の国は全部プロテスタントですね」
「そう! カトリックとプロテスタントは同じキリスト教なんだけど、最も大きな違いがある。プロテスタントがどこでもお祈り(ミサなど)できるのと違って、カトリックでは『お祈りをする場所は教会』が必要なんだ。だから、日本に貿易でやってきたフランス人たちがお祈りできる場所として作られたのが大浦天主堂だったんだ」
「なるほど。でもそれだけじゃ、隠れキリシタンが見つかる理由にはならない気がするんですけど」
「それまで隠れキリシタンは250年もの間、キリスト教の指導者を欠いた状態で、仏教徒のフリをしながら隠れて生きてきたんだ。でも、とうとう『フランス人の神父』という、キリスト教の立派な指導者が現れたわけじゃない?そうなったらもう仏教徒のフリなんてやってられっかと、仏式のお葬式を拒否する人達が現れ始めたんだ」
「ちょっとちょっと」
「やばい……」
「長崎の奉行所は、あれ?おかしいぞ?と勘付いて、隠れキリシタンがいないかどうかの調査を始めたんだ。すると驚くべきことに、浦上地区の9割以上の人たちが実は隠れキリシタンだった事が判明するんだよ」
「多すぎるでしょ」
「金田一少年の事件簿で『全員が犯人でした』みたいな状態だな……」
「日本人に対してはキリスト教を禁止しているから、政府はキリスト教の信仰をやめさせるため、彼らを激しい拷問にかけたんだ」
メモ
浦上地区の3,394人は流罪として全国に散り散りに流され、669人が戻ってこれずに命を落とした。
また、五島列島の1つである久賀島(ひさかじま)では、12畳ほどの牢屋になんと200人もの人たちを閉じ込め、密集地獄を味わわせた。「牢屋の窄(ろうやのさこ)」と呼ばれている。
「ひどい……」
「明治時代って『新しい時代の到来だ!』って言ってたわりに、そのへんは全く変わってなかったんですね」
「明治政府は『天皇は神聖にして侵すべからず』として、天皇を神格化してたんだよ。つまり他の神様を信じるという事は、政府にとって都合が悪かったんだね」
「まあそうか……」
「しかしこの弾圧も、突然終わることになるんだ。なんでだと思う?」
「さっぱりわかりません」
「明治4年、岩倉具視が率いる使節団が不平等条約の改正のために欧米へ行くんだけど、そこで『キリスト教を迫害するような野蛮な国とまともな話ができるか!』って言われちゃうんだ」
「自分たちが信仰している宗教が弾圧されて気持ちが良いわけがないですもんね」
「日本が隠れキリシタンにひどい事をしている事は、世界中にバレちゃってたのよ。こりゃ弾圧をやめない限りは交渉なんか進まんぞ……って事になって、岩倉具視は伊藤博文にそのことを電信で送ったんだ。そうして明治6年、政府はあらゆる場所にかかげていたキリスト教禁止の看板をすべて撤廃することにしたんだ。一流の国と仲良くするためには、一流の国っぽい憲法を作らんといかんという事でね」
「今でいう『グローバル化』みたいな動きですね」
「とはいえ、そんな状況になったところで、一般の人たちに長年刷り込まれたキリスト教徒への差別感情がいきなりなくなるわけがない。キリスト教徒への差別感情が残ってしまったんだ」
差別なんかしても仕方がねぇ!共生の道へ
「長崎には『五島列島』という大きな島があるんだけど、その土地の話をしましょう」
五島列島
全島が長崎県に属し、人口は約7万人となっている。自然海浜や海蝕崖、火山景観など複雑で変化に富んだ地形で、ほぼ全域が西海国立公園に指定されるなど豊かな自然景観を有している。島々には多くのカトリック教会が点在し、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す取組みが進められていて、五島観光のひとつとして注目されている。
「五島って、鳥巣さんのルーツがある島ですよね?」
「そうです。今、ちょうど『さんごさん』っていう図書館をやってまして」
鳥巣さんがやっている五島の図書館「さんごさん」については、こちらの記事で詳しく書かれています。
「明治時代からちょっとさかのぼって1700年代後半の話。五島から大村藩に向けての、移民の申し入れがあったんだ」
メモ:
当時、隠れキリシタンを多く抱える大村藩は、外海地方の人口増加に悩んでいた。人口増加を抑制するための子供の間引きを行わざるを得ない状況だったが、これはキリストの教えに背く大罪であった。
「大村藩がある地方は、キリシタンにとって特に過酷な環境だったから、五島への移住は彼らにとって魅力的だったんだ。約3,000人の人々が五島へと渡っていったんだけど、そこは思った以上に生活環境の厳しい場所だったんだ」
「そういう話、ブラジルへの移民政策でも聞いたことあります」
「しかも魚が獲れる海や川の近くといった生活に便利な場所は、すでに地元住民が住んでしまっていたんだ。まあ当然だよね。地元住民からすれば、差別対象である隠れキリシタン達が、自分たちの村のすぐ近くに住み着くなんてとんでもない。そうした厳しい差別にさらされ、隠れキリシタンの人たちはさらに厳しい環境の山奥へと入っていかざるを得なかったんだ」
「しかもその後、明治政府による激しい隠れキリシタンへの弾圧も始まるってわけか……」
「地獄……」
「でも時が経ち、現在、そういった差別はさっぱりと消えているんだ。一体どうやって彼らは差別の壁を乗り越えたんだろう?こういった問題は、現代ではグローバル化して移民問題などになっているけど、長崎の歴史について知ることで『共生』のヒントを得られるかもしれないね」
「『共生』ですか」
「共生の1つの例をあげてみよう。五島にある教会の多くは鉄川与助という人が建てたんだけど、彼は仏教徒だったんだ」
鉄川与助
長崎県を中心に多くのカトリックの教会堂建築を手がけた、長崎県南松浦郡魚目村(現新上五島町)出身の棟梁であり、建築家である。
「信じる宗教を超えた!」
「キリスト教徒たちはお金がない代わりに、彼ら自身が熱心な労働奉仕をして、教会を完成させたんだ。信じている宗教を超えて、1つの立派な建物を作り上げる。これは1つの差別を乗り越えた事例といって過言じゃないよね」
「熱い展開だなあ」
「さっきも言ったように、五島はとても生活環境の厳しい場所だったから、それがヒントになるんじゃないかな。生きていくのも必死な環境において、差別なんてしててもしんどいだけなんだよ。それよりもお互いに協力し、信頼し合って生きていくほうが、よっぽど楽に生きていける。だから今の五島があるんじゃないかと思うよ」
「たしかに、よっぽど楽ですわ」
「ごもっともですね……」
実際に教会へ行ってみよう
「これから五島に行くなら、ぜひ見ておいてほしい教会を紹介するよ。どちらもまったくメジャーな教会ではないんだけど」
「この教会とこの教会。その地で隠れキリシタンの人達がどういう生活を送っていたのか、なんとなく肌で感じられるはずだよ」
「ぜひ行ってみます。興味深いお話、ありがとうございました!」
入口さんは巡教ツアーのガイドをやってらっしゃるせいか、めちゃくちゃ語り方がうまくて、グイグイ引き込まれてしまいました。当時の学校の先生にもトーク力がめちゃくちゃあれば、歴史の勉強ももっと面白く勉強できたのにな……と思いました。
〜翌日〜
そして翌日、入口さんに聞いた教会を見に行くことに。五島に渡った隠れキリシタンの人たちが建てた教会とは、一体どんな場所にあるのか。
五島の港からず〜〜〜っと車を走らせ、山の中へ入っていくと……。
最初に訪れたのがこちらの宮原教会(みやはらきょうかい)。かなり山深い場所に建てられていました。隠れキリシタンの人達が追われる形で、この山奥に入っていったのでしょうか。
最初の教会は、祭壇の手間に障子があり、ミサの時に開けられた。現教会は、1971年に建てられたもの。
※ながさき旅ネットより
遠くから見ると、パッと見、普通の家のようにも見えます。
そしてもう一軒の教会を見るため、さらに山の奥へと入っていき……。
ガタガタガタガタガタガタ!!
「おいおいおい!道険しすぎやろがい!!」
「ほんとにめちゃくちゃ厳しい山の中に入っていったんだな!!」
そしてかなり長い時間、山中を車で走り続けて到着したのが……。
この繁敷教会(しげしききょうかい)です。
半泊に外海から公式移住してきた潜伏キリシタンの2代目の家族が、再移住を願い出て1853年に繁敷に入り、田を開いたことに始まる地。今はその跡がダムの底となった初代の教会は、戦時中の繁敷ダム建設のときに失火で燃えて、2代目が別所に再建されたが、ダム工事の本格化で1974年、山の上の現在地に移転する。
※ながさき旅ネットより
「本当にすごい山奥にあるんだな……それに教会って感じがしない外観やな」
「車のない時代にこんなところで生きていくのはさぞ大変だっただろうな……」
「移住してきた隠れキリシタンの人たちが、厳しい環境に入っていくしかなかった苦労がちょっとだけわかる気がする」
終わりに
長崎とキリシタンとは深い関係があり、歴史があります。それはザビエルの来日から始まり、迫害を受け、差別と闘い、そして乗り越えたという歴史です。
今回はただただ話を聞くだけではなく、体験をもって歴史について感じることができました。こんなに詳しく、しかも面白く語ってもらえる機会ってなかなかないですけどね。
書いた人:山口むつお
株式会社バーグハンバーグバーグで働く人。物忘れが激しいが、昔プレイしたゲームのパスワードはすらすら言える。
個人ブログ: むつおちゃんブログ
Twitter: @e_yamaguchi