海は元来、人間にとっては危険なもの。溺れたり、海水温が低かったりすればあっという間に死が待っている。
海難事故も数多く、2022年の水難者は1640名。そのうち727名は死者・行方不明者だ。
2022年、26名全員が死亡・行方不明になった知床観光船沈没事故や、2014年に韓国で304人が犠牲となった、セウォル号の沈没事故も記憶に新しい。
そんな絶体絶命から身を守るための道具こそ、救命器具だ。筆者がそれに思いを馳せるようになったのは、業界のパイオニア・日本救命器具による「生存指導書」にある、“生きぬくために”を見てからだった。
“生きぬくために”
“望みを捨てるな、救助は必ずやってくる。”遭難、漂流と人生最悪の極限ではあるが、
強い精神力で3日は生き延びよう。あとは何10日も生きられる。
海は不毛の砂漠ではない。
食料の魚、プランクトンもある。また、魚肉の50~80%は真水である。
船が沈んでも世界はある。
何も恐れることはない。過去の遭難の犠牲者は海のために死んだのではない。恐怖のために死んだのである。
飢えや渇きによって死ぬには長時間かかる。
最後の1秒まで生き延びる努力をしよう。死を急ぐ理由は何にもない。
家族が待っている。
「人生最悪の極限」にいる人に、力を与えるような言葉。まるで、現代を生きる我々の不安な毎日まで見透かしたような一文だ。
この序文には感銘を受ける人も数多く、6600円を出してこの「生存指導書」を購入する一般の方もいるほか、学校の式典の講話で話す者までいる。
これを作った日本救命器具は、海の救命器具一式を製造。取引先は防衛省や海上保安庁からモンベルなど民間各社、各県漁連におよび、海の安全をサポートしている。
この生存指導書を制作し、救命器具で命をつなぎとめる仕事をしている企業とは、どんな会社なんだろう? そして、救命の実態とは何だろうか?
行き先は、江東区東雲にある日本救命器具の本社。「浮き輪が目印」の入り口から応接室へと歩を進めた。
話を聞かせてくれるのは、日本救命器具株式会社の代表取締役、小川輝夫さん。技術部門からのたたき上げで2年前から社長に就任し、いまだに開発の最前線に立つ。
日本の「救命器具市場」は世界最大クラス
「まず日本救命器具さんは、どんな会社なのですか?」
「1938年の創業当時から、主に海難事故から身を守る救命器具を作ってきた会社です。年商は3億円くらい」
「救命器具全体の市場規模はどれくらいですか?」
「日本は島国で船が多いため、市場規模も世界トップクラスです。小型船舶で大体30万隻ほどありますし、20トン以上の大型船も多くて。大型船の大部分に日本救命器具の商品が積まれていますよ」
「そんな日本救命器具さんの中でも、とくにこだわった商品はなんですか?」
「まず、なかなか救命胴衣を付けてくれない、漁師さんのために新開発した『かっぱの役割を果たす救命胴衣』です。水に入ると自動で膨らみます」
漁師の必需品であるかっぱと救命胴衣が一緒になった画期的アイテム。入水すると、おなかが浮き輪のように膨らむ
「おお……お腹周りに空気が入って浮き輪のようになる。動けますね」
「だけど今のところ売れません。2018年から小型船舶の船室外の甲板上では救命胴衣の着用が義務化されたんですが、まだ救命胴衣を常時着る習慣がない漁師さんも多いんですよね」
「いきなり大きな問題を提起されていらっしゃいますが……目の前にあるこれは何ですか?」
「救命胴衣灯です。電池を節約するために点滅させていて、0℃で8時間以上光ります。1.8キロ先からも見える明るさで、海に浮かせて使いますよ」
「さらに、これは何ですか?」
食糧不足よりも、まず水不足で命が脅かされるため、水はとにかく大事
「救命水と言って、遭難時に飲む水です」
「50mlが10パックに分けられている……! なぜこんなに小分けを?」
「遭難時は水をガブ飲みするより、少しずつ口に含んだほうがいいですから。あとペットボトルだと、倒したときに貴重な水が流れますし、大きな船だと、救命いかだを30m下に落とすこともあるので、水が漏れちゃいます」
救命いかだ。漂流にも耐える機能・設備が備えられているが、これを甲板から30m下の海面まで落とすのだ
「この救命水なら落下させても漏れないと。飲みづらくはないんですか……?(飲んで)思いのほか問題なく飲めますね」
「海水は濃い塩水なので、飲むともっと喉が渇きますから」
「貴重な真水を大事にできるのが、この超小分けタイプなんですね」
「これ、エレベーターの三角コーナーにある防災ボックスにもよく置いてありますよ」
「ああ、あれ!」
「大地震でエレベーターが止まったら、被害が広域でボタンを押してもすぐ助けにいけないため、救命水で渇きを癒すわけです。回し飲みによる感染症も防げますから」
「とにかく救命胴衣を着る」が大事な理由
「いろいろある中でも、まず導入を勧めたい救命器具はなんですか?」
「個人用救命胴衣です。海上保安庁の統計では、非着用者の生存率27%に対して、着用者は60%です」
「やっぱり救命胴衣が基本なんですね」
「東日本大震災の津波でも生存率が劇的に伸びたと聞きます」
津波の時は破れやすい「膨張式」より発泡体を使った「固形式」がオススメ
「あと行方不明になっても、救命胴衣を着た方はすぐ見つかるんです。ご遺体を捜索する膨大なコストも軽減できます」
「捜索するダイバーが亡くなるなど、二次被害も回避できますね」
「うちも小学校4年生と中学1年生の子どもがいるんですが、海に行った際は必ず救命胴衣をずっと着せています」
「私、幼少期に山梨県の本栖湖で遊泳中に溺れかけたことがあって、救命胴衣の大事さは身に染みてわかりますね……!」
「とくに波が戻るときの引き波は危険ですし、足が届かないときは市民プールでも救命胴衣を着せていました」
セウォル号とKAZU Iが大事故になったワケ
「2014年に起こったセウォル号の沈没事故は、300人を越える犠牲者が出ました」
「実はうちの救命器具を多く積んでいたのですが、セウォル号側で整備がほとんどされていなかったんです」
行方不明者を捜索するダイバー(Photo by 韓国軍)
「整備されていないと、どうなるんですか?」
「例えば、救命いかだは水圧がかかると、留め具から外れて自動的に膨らんで使えるようになるんですけど、それが整えられていないし、可動部分にペンキを塗っていたので、固まってしまい作動しませんでした」
「救命器具が実力を発揮できなかったと」
「あとセウォル号は日本から中古で転売され、韓国で『重心が上がる』改造をされていて」
日本時代は「フェリーなみのうえ」として運航し、韓国に渡って「セウォル号」となった(Photo by tsuda)
「最後は横倒しになったのもそのせいですか?」
「おそらく。船長も乗客に『船内から出るな』と言って逃げてしまいましたし、いろんなまずさが重なってああなったんです」
「あと、北海道の知床で起きた観光船KAZU Ⅰの沈没事故も悲惨でしたね……」
まだKAZU Iが運航していた2014年当時の姿(Photo by 663highland)
「私も40年ほど開発やってて、こんなひどい事故はそうなかったんですよ。KAZU_Ⅰは乗員・乗客合わせて26名が死亡・行方不明となり、未だに捜索せざるを得ない状況」
「救命いかだなども積んでいなかったと聞きます」
「もともと小型船では、周りにつかまって浮く『救命浮器』しか積載を義務化されていないんです。でも、知床の4月の海に落ちると、低体温症ですぐ死に追い込まれてしまいますから」
「救命浮器」はこの周りにつかまって浮くものだが、体は着水するために低体温の危険が避けられない。事故当時の知床の水温は2.4℃ほどで、15~30分で意識不明、30~90分で死亡する計算
「寒い海には太刀打ちできそうにないですね」
「低体温だとすぐ人は死に至るんですが、0℃の水中でも『イマーションスーツ』を着れば6時間持ちます。ただ、ああいう狭い船内に持ち込むのは現実的ではありません」
大がかりなイマーションスーツ。貨物船などでは搭載が義務化されるが、小さい船では対象外
「対策も難しいですね……!」
「ただ、そのあたりの制度の整備も議論されています。さらに、暗い中で500m先の海に浮かぶ人をすぐ見つけられなかったのもあり、約10キロ先まで電波が届き、救命胴衣に内蔵できる発信機を弊社で開発中です」
「生存指導書」には古今東西の船乗りの英知が結集する
「ぜひ聞きたいのが、今回聞くきっかけになった『生存指導書』についてなんですけど、どんな観点から書かれていますか」
濡れても大丈夫なユポ紙で書かれており、救命いかだや救命艇にも設置が義務づけられる
「1962年に初版が出ているんですが、生還した船乗りたちの経験と最新の研究成果が詰まっています。海上保安庁さんや石川島播磨重工業さんなど、数多くの関係機関が参加していますよ」
「英知が結集された本なんですね」
「版が重ねられ、時代に応じた内容に刷新されています。食料の調達方法や、ケガ人の手当ての仕方も書いてありますよ」
「とくに、序文に胸を打たれます。人生にも通ずる言葉だと思いまして。どなたがどんな思いを込めてお書きになったんですか?」
「何人かで多くの議論と推敲を加えて、書きました」
「船が沈んでも世界はある」。生きる気力が奮い立たされるような檄文
「『あきらめず、希望をもて』というメッセージが伝わります」
「やっぱり遭難して、気が弱くなるんですよ。人間って結構精神が弱いんですよ。だからこそ、『漂流と人生最悪の極限であるが、強い精神力で3日間は生き延びれば、あとは何十日間でも生きられる』と書かれています」
「これは勇気づけられますね。実社会でも必要な精神かも……」
「そうだと思います」
「とくに『海のために死んだのではない、恐怖のために死んだのである』のところとか。
私の業界もAIが人間の仕事を奪うんじゃないかとか、いろいろ言われて。別にそうなってるわけじゃないんですけども、勝手に精神的ダメージを受けちゃうんですよね。『恐怖で死なない』のがこの世を生き抜く秘訣かもしれないなと」
ヤマケイ文庫 たった一人の生還 「たか号」漂流二十七日間の闘い
佐野三治『たった一人の生還―「たか号」漂流二十七日間の闘い』(山と溪谷社)でも、漂流中に飛行機2機が近づくも発見されず飛び去り、助かる希望を失った複数名がまもなく亡くなっている。絶望が人を殺し、希望が人を生かす例
「実社会と遭難時で『生き残るチーム』として共通している性質は何でしょうか?」
「全員で協力しながら困難に立ち向かえるチームです。ドン底のときは、助け合うしかないですよ。みんなで秩序を維持して筋道を立てていくのが、救助への近道なんです」
「一致団結ですか」
「それぞれに、役割を決めて何かさせることも大切です。たとえば……
・救急係(応急治療)
・糧食係(食糧及び飲料水の管理と分配)
・信号係(救難信号用具の管理と使用)
・漁ろう係(魚や鳥の捕獲)
とか」
「個々に役割があれば、生きがいのようなものも生まれそうです」
なお「生きぬくために」は本文中に続きがあり、さらなる生きる活力をもらえる
「あとは、何かをすることによって『死ぬんじゃないか』とか、考えてしまいがちなのを違う方向に向けるのも期待できると思います」
「たしかに……!」
「時間があると、余計なことを考えるから」
「実はある程度忙しいことが、こころの薬になると普段の生活でも聞きますが、まさに一緒ですね」
救命いかだの船内には「救難釣り具」があり、魚を取って飢えと渇きをしのげる
救命器具メーカーが命の恩人で居続けるために
「救命器具メーカーとして大変なことも多いようですが、うれしかったことも教えていただけますか」
「やっぱりうちの救命器具着て助かったのが一番うれしいです。『助かったよ』みたいにハガキを何回かもらいました」
「どんな内容でしたか」
「『やっぱり救命胴衣を着ていることが非常によかった。着ていなかったらたぶん自分は死んでたと思う』とか……」
「文字通り『命の恩人』ですもんね……! ほかの仕事じゃなかなかありません」
「ちょっと年配の人でね、すごい達筆で読みにくかったですけど、うれしかったですね」
「最後の質問です。救命器具メーカーとして大事にしていきたいものは何ですか」
「真面目しかとりえがない会社なので、とにかく真面目にやっていきたいです。実は日本は試験も整備体制も、周辺国の追随を許さないほどきっちりやっている国なんです」
「だからこそ、その試験を突破した商品を選びたくなりますね。私も万が一のときに命を守っていただけるよう、いい商品を製造し続けてくれることを切に願っております!」
「人生最悪の逆境」で命綱となる救命器具の重大な役割を知り、同時に学んだ、希望を捨てずに生き残る精神。
船乗りの英知が結集した生存指導書が教えるように、「強い精神力で今日を生き延びれば、あとはどうとでも生きられる」。そんな心持ちでこの世を生き抜きたい。