こんにちは、台湾人のピギーです!
突然ですが、まずは日本の読者のみなさんに、質問をさせてください。
台湾に旅行をするとしたら、やはりまず最初に訪れるのは台北でしょうか?
もしくは、すでに何度か訪問したことがあるという方は、台北以外の街にも訪れたりするのでしょうか?
もし、あなたがまだ台北以外に行ったことがないというのであれば、ぜひもう一度訪れてみてほしいです!
台湾は北から南までが東京から大阪までの距離とほぼ同じでとても小さな島ですが、内包する22の県と市には、風土や歴史的な違いから生まれた魅力的な文化がそれぞれに詰まっています。
この連載では、そんな台湾の各地域の魅力を伝えられたらと思い、「観光」を目的としたガイドブックには載らない、台湾の日常的な暮らしや価値観に紐付いたカルチャーを紹介していきます。
そんな紹介の起点となるのは「市場」です。市場は台湾にはまだたくさん残っていて、私たちの生活に身近な存在。街に活気を生み出す心臓とも言えるものです。
そして、台湾人の精神性を色濃く反映した魂の台所でもある。
こう聞くと、私たちのリアルなライフスタイルに触れる最適なテーマな気がしてきませんか?
第一回は、台湾の中心地・台北からスタートした本連載ですが、今回は台北から車に乗って約1.5時間、新竹(シンジュウ)に向かって旅に出ます!
「ガイドブックアウトサイドin台湾 Vol.1」台北の市場の紹介はこちら
伝統ではない「伝統」市場
新竹。
高速鉄道に乗って、台南や高雄などの南の街へ旅行したことがある人はその名前を見かけたことがあるかもしれません。
なかなか、台湾に住んでいても降りることのない都市なのですが、ここは一体どんな場所なのでしょうか。
新竹はその地形から強い風が吹く街として知られ、秒速20メートルの「九降風」が吹くことから「風城(フォンチェン)」とも呼ばれています。
強風と雨の少なさが相まって、新竹は柿の餅や米粉(ビーフン)などの乾燥食品の生産に最適な場所として昔から有名でした。
近年、台湾は電子・半導体産業が盛んですが、新竹はその主役としての地位を確立。
1980年に設立されたサイエンスパークの功績も大きく、今ではそういったエリアを中心に「台湾のシリコンバレー」と称されることもあります。
しかし、デジタル・テクノロジー産業が潤っている一方、芸術や文化といった領域は他の都市に遅れを取ってきた部分があり、しばしば冗談半分で台湾の人々には「文化の砂漠」と呼ばれてしまうことがあるのです。
寺院と市場が渾然一体となった〈新竹都城隍廟〉周辺の暮らし
ただ、歴史を紐解いてみると、新竹にある文化的な遺産は“深く、力強く”街の基礎となっていることがわかります。
それは18世紀初頭、新竹が漢民族によって建設され、台湾で最も先進的な都市のひとつだったことに端を発します。
そして19世紀末に、日本政府が台湾を統治した際にも、上記の理由から新竹は当然のように開発の要となりました。
日本政府が台湾各地に公設市場を作った際、新竹もその時代の風に乗り、先進的な都市のひとつとして発展をしていったのです。
街の中心にある1829年に建てられた迎曦門(東門)
新竹で最初の公設市場は1900年に「新竹市場」という名称で設立され、現在では「東門市場」と名前を変えています。
前回の記事でも触れましたが、公衆衛生の改善と街での暮らしを支えるインフラである公設市場は、「都市開発の象徴」。
当時、「新竹市場」は華やかで洗練された生活の代名詞となり、かつては台湾最大のマーケットとして多くの輸入品が売られていたといいます。
人の流入とともに露店の数も増え、1925年には南門分場(現在の南門市場)、翌年には北門分場も開設。歴史的にみても新竹発展の中心には市場があったことがわかります。
〈新竹中央市場〉はお昼を過ぎても一部のお店は客足が絶えない
生鮮食品や、日用品の販売を行う「伝統的な市場」は日本統治時代にその文化が根付いたものの、まだその歴史は実は100年程度でしかありません。
この連載が始まって、私が不思議に思っているのは「それなのに私たち、台湾の人々が『市場は古くて伝統的なもの』と考えるのは何故なのか」ということです。
もしも市場が今のスタイルを大きく変え、現代の若者のライフスタイルにあわせた再生の道を歩み出したとしたら、市場自体は伝統的なものではなくなり、未来のものとなるのでしょうか。
市場のどのような部分が残されたら、私たちは引き続きノスタルジーを感じることができるのでしょうか。
賑わいを見せる〈新竹都城隍廟(チョンホワンミャオ)〉の敷地と合体している市場
今回は、新竹の地方文化史に明るい、呉君薇(ウー・ジュンウェイ)さんに市場の歴史や近年のムーブメントについて紹介していただきます。
彼女は、多くの若者が東門周辺で事業を始めるに至った「旧城青年(Old Town Youths)」という青年チームの一員でもあります。
10年前に新竹に移住し、長年にわたって新竹の地方誌を編集してきた呉さん。
文化の砂漠に出来上がった新しいオアシス、伝統市場での新しい取り組みについて教えてもらいましょう。
話を聞いた人:吳君薇(ウー・ジュンウェー)
台湾南部の街・高雄の生まれ、進学のため18歳で新竹に移住した。『見域(CitiLens)スタジオ』の創立者および『貢丸湯(ゴンワンタン)』編集長を務め、新竹エリアに強い関心をもち、長年にわたりコミュニティと会話しつつ、出版活動に携わっている。
ろくに調べもせずに「この街はつまらない」というのは、フェアじゃない
台湾の人でさえ「新竹に何があるんだ?」「何をしに新竹に行くの?」といった疑問を抱くことは少なくありません。
私も子どもの時に新竹の有名な遊園地に行ったことがあるのですが、それ以外では訪れる機会はこれまでほとんどありませんでした。
しかし、ここ数年、実は新竹が徐々に「何もない」というイメージから脱却してきているのです。
東門市場にできたコーヒーやお茶が楽しめるカフェ
2015年に、新竹地方文化産業の有志者を中心に、日本統治時代の旧官舎の保存運動を推進し、成功しました。
それをきっかけに、インターネットでの発信を介して新竹の文化遺産が広く知られるようになり、時代遅れの建物として潰されるはずだった多くの古民家や市場の運命が変わりました。
その原動力のひとりとなったのが呉さんなのです。
大学時代、彼女はバイクに乗って、路地にある小さなカフェ、城壁の跡、堀の時代性、看板のデザインなどを見てまわり、「新竹は文化の砂漠などではなく、多くの可能性を秘めたオアシスだと気づいた」と言います。
日本統治時代にお堀だったという小川の前で、その成り立ちを説明してくれる呉さん
それなのにどうして、街の人々はそのことにこれまで目を向けることができなかったのでしょうか?
地図を見るとそのヒントが得られるのですが、新竹は鉄道の路線によって大きくふたつのエリアに分かれていることがわかります。
北区(線路の西側)は、新竹駅に近く、「迎曦城門」(「太陽に向かう」との意味)に囲まれた「旧城区」。
ペースはゆっくり、人々は親切、路地にはおいしい食べ物や古い家屋がたくさんある、いわゆる旧市街エリアです。
もうひとつは、サイエンスパークを中心に、ショッピングモールが多い、生活利便性の高いニュータウンとなる南区(線路の東側)。
ふたつの地区の住民は、距離も相まって互いのエリアにでかけていくことはあまりないそうで、世代間の交流が断絶している状態だったそうです。呉さんは、この断絶こそ新竹に住んでいる人々が自分の街に愛着心を持てない原因だと感じたそう。
そして、断絶していたふたつのエリアをつなぐような媒介があれば、新竹を前進させる原動力になるのではないか、と考えたそうです。
そうであるならば、「このふたつのエリアを繋ぐような媒介があれば、新竹を前進させる原動力になるのでは?」と考えたとか。
「呉さんが新竹に最初に感じた印象はどのようなものでしたか?」
「私は台南で生まれ、高雄で育ち、18歳のときの大学進学にあわせて『移民』として新竹にやってきました。最初に感じたのは、新竹の住民たちはお互いの関係がそれほど密接ではないということですね」
呉さんの拠点〈見域スタジオ〉にて
「高雄は気候もよくて、オープンなイメージもあります。他にはどのようなことを感じていましたか?」
「街へのプライドがあまりないように思いました」
「どういうことですか?」
「たとえば、どんな人でも自分の住んでいる街が『つまらない』と言われると、何か言い返したくなりますよね? でも、他県の人が新竹を『食の砂漠』『文化の砂漠』と言っても、新竹の人は感情を揺さぶられることがないようでした」
「どうしてそんなことが起こってしまっていたんでしょうか?」
「私の大学時代、『新竹はつまらない』という固定観念に縛られて、学校の周りでしか生活しない学生が多く見られました。こういった思い込みって雪だるま式に、『新竹のことを話す人が減れば減るほど、どんどんとその魅力を語れない人が増えていく』に違いないと感じていたんです」
今、東門市場には平日の日中でも若者が姿をみせている
「そんなことを考えているうちに気の合う友人たちと新竹の歴史やおもしろい豆知識を調べて回ることになって。すぐに新竹には語るべきことがたくさんあって、全然退屈なんかしないことに気づきましたよ」
「なるほど。吳さんとしては『単純に、彼らには探索や新しい発見をする体験が不足しているだけなのに』と」
「街でろくに遊びもせずに『退屈』というレッテルを貼るなんて、その地域に対してフェアじゃない(笑)。そうして、Facebookで写真や文章をシェアするようにしたところ、大好評をいただくようになって」
当時の投稿の様子
「シェアした内容で、印象に残っているものはありますか?」
「最大のターニングポイントは、2015年の『東門市場』のレポートでしょう。街の中心部にあるこの古い市場は都市再開発の波によって、『おそらく新しいビルを建てるために壊される』と誰もが思っていました」
「今と違って、当時は『地方創生』という言葉も台湾ではまだポピュラーではなかったですもんね。古いものの価値にはみんなまだ、目を向けられていなかった」
「そうです。今でこそ、新しいお店が入居して多くの人が出入りするようになり東門市場もきれいになっていますが、ハード面の整備が長い間されておらず、廃墟のようになってしまっていたました。『ここは可能性がある場所だ』と気づいてもらい、『もっとおもしろくする方法を一緒に考えよう』と呼びかけることが必要でした」
「そこから東門市場をベースに起業した若者たちが中心になって構成する『旧城青年』という活動体に繋がっていくわけですね」
「そうですね、あまりに反響が大きかったので、最終的に若い人たちが五感で市場を体験できるように体験ツアーを行いました。そうすると、ここに水道も電気もあって、店を開くことができることを知った若い人たちが自然と集まってきたんです」
「みんな『なにかを始めるチャンス』を求めていたことがわかりますね!」
「はい、話題となったきっかけはSNSでしたが、興味を持ってもらうためにツアーなどを通じてそこから実体験へどう落とし込むかは非常に重要だと感じましたね。そもそも、東門市場の立地は交通の利便性がよかった。このことが効果的に働きました」
呉さんと地方創生の有志者である若者たちとの集まり会(行政院青年諮詢委員会)
「そうして現在は、東門市場は地元の顔といってもいい存在になりました。台北から、私も友だちと飲みに来たことがあるくらいです」
「はい! 東門市場は、以前は朝市くらいしか営業していませんでしたが、今ではすっかりお店も増えました。夕方になると若者が集まり、おしゃべりをしたり、お酒を飲んだりする場所に変わったんです」
「その推進力となったのが『旧城青年』だったと」
「『旧城青年』はなにかを成し遂げるための目的を持った組織ではなく、本当にゆるい集まりでしかないんですが、その旗に向かって市内全域から何百という夢を持った人々が集まってきました」
「誰かが何かを始めることで、どんどんと『街に眠っていたこういうことをやりたい』という熱が可視化されていったんですね」
「そうです。そこから東門市場を舞台に、起業の悲喜こもごもを共有しながら、市のイベントにも一緒に参加して、非常に強固な力となっていったのです。近い将来、新竹は『文化の砂漠』という言葉から卒業できると感じています」
世代を超えておもしろがれる活動をしていたら新竹の窓が開いた
「町を変えようとするなら、対話を再開することでしか、新しい物語は更新されない」と呉さんは語ります。
2014年、台湾政府が産業の振興に乗り出したとき、呉さんと他のメンバーたちはこれまでの新竹探訪の実績をもとに行政の助成金を申請。無事に採択され、新たな活動資金を得ました。
その資金で立ち上げたのが、新竹の窓口となる領域横断型の地域文化ブランド「見域(CitiLens)スタジオ」です。
賑わいのある通りから路地に一本入った場所にある
台湾華語で「地方を見る」という意味を持つ「見域」。
メンバーたちは古民家を借りてスタジオに改装し、展示会やイベントの拠点にするだけでなく、地元の商品も販売する商店としても機能させています。
さらに、スープをテーマに人と場所の関係を再構築するための地域誌『貢丸湯(ポークボールスープ)』シリーズを発行する編集部もこのスタジオを拠点に活動。
こうした様々な活動で得た知見やコネクションを生かして、今では新竹の文化体験やガイドツアーを積極的に推進するにまで至りました。そうして、新竹で長い時間をかけて営まれてきた人・もの・ことを現代にマッチさせる原動力となっているのです。
「地域誌の『貢丸湯』を最初に制作していた時は、非営利団体でしたよね? そこから資金を借りて本格的なスタジオに移行したタイミングでもまだ大学生だったと伺っています。大変だったことや、おもしろかったことなど、当時を振り返るとどのような印象が強いですか?」
「イメージできますか? 大学生にとって、放課後に取り組むべきことがもうひとつ増えることが、どれだけ刺激的でワクワクすることか。 特に、明らかに専門分野が違う人たちが興味本位で集まったときに、自然とお互いを応援したくなるようなエネルギーが生じてきたことを覚えています」
壁一面にかかる『貢丸湯』のバックナンバーたち
「先生から出された課題に取り組むとか、会社から達成すべき目標を渡されたりするのとは違いますもんね」
「そうです。だから辛いことがあっても、楽しみながらチャレンジする気持ちで向き合えました。 たとえば、文化や歴史の取材や現地ツアーの企画を始めた当初は、紹介するお店の人から『目の前に説明を書いた板があるから、その内容をただ書き写せばいいよ! 今までも、みんなそうしてきたから』と言われることもあったんですね」
「『変えたい』と思ってやっているのに、『これまでと同じで』と言われるとがっかりしてしまいますね」
「大ショックでした(笑)。しかし、私たちがやりたいのは、教科書に載っているような歴史を掘り起こすことではなく、古いものを新しい視点で解釈し、現在の生活と関係性を持たせるような『生々しい』『生きている』物語を探したいということだったんです」
『貢丸湯』デザイナー(右)もスタジオの2階で作業している
「なるほど!『古い建物がすべて博物館になるわけではない』のと同じで、『古いだけ』では今を生きる私たちの価値観とはギャップが生まれてしまうということですよね」
「はい。『すべての歴史は現代史である』という言葉があるじゃないですか? つまり、現代社会との接点が見出せない、テキストで書かれた歴史は、本当に過去にしか存在しないのです。だから、地方誌やローカルな仕事をする時、私たちは農村のような極端な例にこだわるよりも、日常で見慣れているものを『今まで知らなかった!』と思ってもらえるようにしたいんです」
新竹のラーメン事情なども取り扱う、日本をテーマにした一冊
「そうした取り組みで、うまくいったと感じる具体的な事例はありますか?」
「近年、多くのエリアやお店と連携し、季節やお祭りに合わせてシーズンごとに多様なイベントをやっています。 一番印象に残っているのはかつて行っていた子ども向けの夏休み・冬休みのキャンプです」
「どんなイベントだったんでしょう」
「親御さんに子どもを預けてもらって、ゲーム形式で子どもたちに新竹の歴史を教えました。さらに最終日に子どもたちに親御さんに新竹の旧市街を案内してもらうということにもチャレンジしたんです。 このように、さまざまな視点の解釈によって、街をより立体的に見せることができればというのが狙いです」
子どもたちもどこか生き生きとしている気がする
「そうした取り組みの中で、街の変遷を見届けてきた東門市場という場所も生きた事例として重要な役割を果たしてきたわけですね」
「もちろん! 市場を復活させることが見域の活動目的ではありませんが、街の構造や歴史を理解するために、市場を訪れることが重要な要素にはなっていますね」
市場は大きな船のように、新竹を未来に運ぶ
1900年にレンガと木材の建物として建てられ、災害や改修を経て、1977年に東門市場は「台湾初のコンクリート市場」として生まれ変わりました。
地上3階、地下1階の市場は、当時、人々の生活を乗せ、時代という荒波を切り開いて進む船のようなものだったのでしょう。
賑わいが少し戻ったとはいえ、現在も、昼間に東門市場を歩くと、いたるところに時間の痕跡が見られ、シャッターの閉まった店も少なくありません。
また、東門市場の名物だった新竹市初のエスカレーターは、部品が入手困難で修理ができないため、今は稼働していませんが、かつてのロマンと繁栄を想像させるひとつとなっています。
日中の東門市場の様子
2階に上がると、少し湿っぽく薄暗いですが、昔ながらの美容院のネオンがまだ残っていたり、この場所を住居とするおじいさんがテレビの前に座って、穏やかに暮らしています。
東門市場は外からはコンクリートの要塞のように見えますが、中に入るとたしかな市場の賑わいを感じることができます。そんな中でも人々の暮らしは植物のように、しぶとく、でも確かにあちらこちらに生命の息吹を感じさせるのです。
2、3階はまだ住居としても使われているのがユニーク
そんな中、今では夜になると、昼間のオレンジ色の電球に代わって、1階の日本料理、タイ料理、韓国料理などのお店の看板が白熱灯でライトアップされます。
若者が夜遊びを求めて市場に集まり、その活動の軌跡がネオンのように瞬きます。
夜の東門市場の1階はさながら飲み屋街の様子に
また、長い間使われずに放置されていた3階もまた、「若者の起業拠点」として安い家賃で区画が貸し出され、夢を持った多くの若者が集まることが可能になりました。3階は「現代社会の理想の暮らし」のシャーレと化しているように見えます。
「呉さんが知っている東門市場について、昔から現在に至るまで、どのように変わったかを教えてください」
「地元の人々にとって、ここはまだ伝統的な市場としての機能が残っているんですよ。青果店も食料品店も多いですしね。歴史も長いし、80年代は非常にモダンでおしゃれな市場だった」
「当時を知っているお年寄りにとっては、東門市場は今でも生活に欠かせないものなんですね」
「そうです。この市民との暮らしの近さが、東門市場を今日まで支えてきた大きな原動力になっていると言えるでしょう」
1階は生鮮食品のお店もまだたくさん残る
「しかし、私たちの世代では、伝統的な市場とのつながりはもうそれほど強くはないですよね。呉さんは普段は市場に行かれるのですか?」
「あまり市場に行くことはないのですが、キッチン付きの新居に引っ越して自炊する機会が増えたこともあって、市場を覗く機会は増えましたね。たとえば、餃子を作りたいと思ったことがあるのですが、餃子の皮はスーパーでは売っていないじゃないですか」
伝統市場では餃子の皮、春巻きの皮、麺などがつくられ、飲食店にも卸されている
「台湾では餃子の皮は伝統的な市場でしか手に入りませんよね」
「そうした、私たちが生活の中で慣れ親しんだものがまだまだ市場の中に残されていることがあると思うのです。しかも、市場に行くたびにこの街の歴史との出会いがあります」
「例えはどういうことでしょうか?」
「買い物以外では、たとえば市場の看板の文字やフォントに注目したことはありますか? 長い年月を経て生き残ってきた店もあれば、消えていった店もある。しかし、残されている看板はそれぞれの時代の文脈を伝えています」
日本語の看板も見つけることができる(左から読み)
「そんなところ気にしたことなかった……」
「1980年代以前、中国語は右から左に書くと決まっていたので、初期の看板も右から左に書かれていました。しかし、西洋文明の浸透によって、1980年代以降、中国語や英語の書く方向が統一され、左から右に書かなければならなくなったのですね。だから、この小さな通りには、そうしたさまざまな時代の痕跡が隠されていますよ」
先程の薬屋の別時代のキャッチコピー(右から読み)
「わっ、ほんとだ! 言われるまで、全然気が付きませんでした」
「だから、『まちづくり』という大きな観点から市場を論じるだけじゃなくて、看板やお店のことなど、そうした今の市場を細部にわたって見てみる必要もあると思うんです」
「そう考えると、本当に『市場』ひとつでもいろいろな楽しみ方がありそうですね。紐解き方次第で、どんな見方でもできるというか」
「多くの人が『市場にどんな未来があるのだろう?』という質問をしますが、『地方創生』という角度だけで考えると、『若い人を集めて』とか、『新しいお店をつくって』とか出てくる結論はだいたい同じになると思います。未来を議論するときは、非常にオープンかつフレキシブルであるべきなので、さまざまな視点を駆使しないと、おもしろい答えを導きだすことはできないはずです」
「そうか! そう言えば、実際の都市の発展も同じようですね。『誰か』が計画したわけではなく、ビジネスチャンスはもちろんですが、新しいものの見方に、おもしろさや可能性を感じて、人々が集まってくるのですよね」
「そう、だから、みんなが想像する機会がある限り、時に民間から育まれるものはよりパワーに満ち、より自由奔放なものかもしれません」
「東門市場は次にどこへ向かうと思いますか?」
「東門市場の再生、という物語で最も重要なことは、『昨今の共存』が可能であることを示したことだと思います。古い看板と、酒を飲んで談笑する若者たちという対比を見ていると、時空の裂け目のようで、何かが変わりつつあることを実感するんです」
「東門市場に来ると、本当にここがいつの時代のどこなのかわからなくなることがあります」
「今のように市場が活気づき、人が集まることは素晴らしいことで、それはもちろん貴重なこと。でも、市場が継続するためには、東門に足を運ぶ理由をもっと充実させて、より多くのニーズを満たされなければならないこともわかっています」
東門市場にお店を構える顔なじみのお菓子屋さんと
「たとえば、人々がショッピングセンターに行く時、買い物だけじゃなくて、エンターテインメントなども含まれるとのことですか?」
「そうですね。市場とショッピングモールの雰囲気とかは違いますが、本質は同じだと思います。たとえば、東門市場の3階には、レコーディングスタジオ、デザートショップ、コーヒーショップなどがあります。まだ数は少ないですが、新しいタイプのコミュニティが形成されつつある」
「そこは新竹の行政も力をいれているポイントですよね。若者が安く場所を借りられるようにサポートしたり。そのおかげで、複業的にお店を持つ人も増えていると聞きました」
「新竹の若者の中には、東門にコーヒーを飲みに来る人もいますが、それは目新しさや流行を追うためではなく、あくまでも日常的な行動としてです。これがもっともっと一般的になってきたら、市場は次のステージに移行したことを意味すると私は考えています」
おわりに
どうでしたか? 新竹、少し行ってみたいと思いませんでした?
街の曲がりくねった町並みも、(今回は詳しく紹介できなかったけど)新地区の50メートルの大通りも、どちらも古さと新しさの共存を求める今の新竹の姿です。
呉さんたち、若い世代が行ってきたことは、一言でいえば地域の文化資源の発掘。それを「今の時代に即した形に再解釈すること」で分断されていたエリアや、世代のギャップを超えて地域の人やコミュニティを再接続していました。
かくいう私も、彼らの活動や東門市場の噂を聞きつけて実際に足を運んだことがあるひとりです。大げさに聞こえるかもしれませんが、初めて東門市場を訪問したときに、新旧が見事に混ざりあったその景色にとても感動したのを覚えています。
どんな街にも課題はありますが、ありがたいことに、チャレンジする人たちが必ずいます。そうした人たちがこれまでと違った街への向き合い方を示し、そして街に眠っていた熱を掘り起こす。そんな話は自分が生まれ育った街でなくても聞いているとわくわくしてきますね。
次回は潮風の香る貿易都市、日本でいえば大阪にあたる高雄への旅に出ます! 南部はまた北とは少し市場の趣も違うんですよね。お楽しみに!
編集:堤大樹/くいしん
撮影:堤大樹
イラスト:小林ラン