こんにちは、ライターの阿部です。
今、目の前で語られている話のスケールがデカすぎて笑ってます。
だって……
30歳で数億円の借金を背負って高層ホテルを購入し、
時代に先駆けてホームページを作成して海外からお客さんを呼び込み、
蓄積したノウハウをシェアして地域全体で観光を盛り上げ、
最終的には年間に50万人が訪れる街になった
っていうんですもん。
事業を通じて街の姿すら変えてしまったというダイナミックなエピソードが次々と飛び出すので、もう笑うしかありませんでした。
そんなお話を聞かせてくださったのが、こちらの方。
大阪にあるホテル中央グループの会長・山田純範さんです。
取材後には編集部一同が“釜ヶ崎の宿キング”と仰ぐことになった山田さん。豪快なエピソードの裏には、地元愛と「地元のおっちゃん」たちへの思いが溢れていました。
話を聞いた人:山田純範さん
宿泊事業者として創業100年以上の歴史を持つホテル「中央グループ」の4代目社長を務めた(現在は息子の英範さんが経営)。2000年、ホテル中央グループの日本語ウェブサイトを立ち上げ、さらに2002年には英語・中国語・韓国語にも対応し、外国人旅行者の誘致に尽力。現在は大阪府簡易宿所生活衛生同業組合の相談役を務める。
※取材は新型コロナウイルス感染症対策に配慮したうえで行ない、撮影の際だけマスクを外しています
1日に2億円のお金が動いていた釜ヶ崎の経済
「山田さんが会長をされている『中央グループ』って、全部で何軒のホテルを経営されているんですか?」
「ホテルとしては7軒……、いや7軒ちゃうわ。8、9……んー、何軒あるのかわからへん」
「えー、そんなことありますか(笑)! 多すぎて把握できてないとか?」
「ホテルの他にも、アパートやコンビニ、飲食店もやってるからな」
「それは全部、この辺のエリアでやってるんですか?」
「そうやね。僕は、この街で生まれ育っとるんやけど、親は洋服屋をやっててん。もともと飛田の商店街は『洋服屋の街』やったんよ。洋服屋が20数軒も並んどった」
「へええー、今とは全然違う雰囲気」
「なんでそんなに洋服屋があったかいうたら、地方から出てきた職人さんは、大晦日に飛田で新しい服を買って帰省してたんよ。でな、洋服いうのは、買ってそのまま着て帰るわけにはいけへんやろ。せやから、服を買って裾上げなんかをしてる間にしてる間に飛田の遊郭へ行って、精進落としをしてから田舎へ帰ると」
「はぁー! そういう流れがあったんですね」
「昭和55年くらいまでは、ずっとそういう感じできてたんちゃうかな」
「当時、ここの商店街は心斎橋とか天神橋に並んで、大阪でも5つの指に入るくらい大きかったんよ。大晦日なんかは、もう人が多くて歩かれへんくらいやった」
「大阪中から、服を買いに人が集まってたってことですか?」
「そうやね。だから、その頃の洋服屋はすごかったよ。1000円札の時代やけど、レジなんかないから、木のミカン箱にお金を入れるんや。それが、わあーっと溢れとるわけよ」
「すごっ!」
「ちっちゃい店でも3人も4人も従業員を抱えてるんやから。ひとつの店舗で年間1億くらい、平均でも4、5000万はいってたと思うわ。だから、今の小売店の感覚では全然ないわけよ」
「それだけ景気のよかった洋服屋さんが、一気になくなっちゃったのはなぜだったんですか?」
「一気にではなくて、徐々にやね。やっぱり洋服の需要いうのは、サイズとかカラーとかが細かく分かれてるやろ。だから、量販店なんかが出てきたら対抗できひんよな」
「そっか。大きい量販店の台頭によって売り上げが落ちていったんですね」
「それはもう、今の小売業は全部そう。おっきなドラッグストアを相手に、普通の薬屋さんは対抗できへんやろ。人間関係もあるけども、やっぱりたくさん種類があって、安いほうに行く。そうやって商店街は、あかんようになっていったわけよ」
「昔はどこの商店街も景気がよかったけど、大きな資本が入ってきて、それが小売店を潰してしもうたわけやな。それは時代の流れやから、ある程度しゃあないけど、今頃になって政府が商店街に補助するとか何とかやってるのを見てるとなんかなぁ」
「煮えきれないところはありますよね」
「そんなんは今更いうてもしゃーないんやけど。とにかく数千万を売り上げる洋服屋が20数軒あったいうことは、どれだけの経済規模やったかわかるやろ。なんせ、ここには労働者が2万人おったわけやから。それで、ひとりが毎日1万円稼ぐと考えたらなんぼになる? 2億やろ」
「この街で1日に2億円が動いてたわけか。すごい経済規模!」
「せやで。2億円がぽーん、ぽーんと毎日落ちてくるんやから。そういう状況であれば、洋服屋も飯屋も、なにもかもが全部うまいこといくわ」
「この街だけで経済が回りますよね」
「せやろ。でも、今はどうや? 当時バリバリ働いてたおっちゃんらが今70歳を超えて、生活保護になってるわけやん。そら商店街もあかんようになるのは当たり前やって。今から労働者を2万人にしよう思うても、そりゃ無理やろ。昔の状態に固執してるんじゃなく、違う方法を考えなあかんのちゃう?」
30歳で背負った数億の借金
「うちの親父は、洋服屋とは別にホテルの経営もしとったんよ。でもな、僕が27歳のときに亡くなって、僕がホテル事業を引き継いだんや」
「もともと山田さんは別のお仕事をされてたんですか?」
「僕は大学を卒業してから、銀行に勤めててん。3年ほど勤めて、ほんで親父が病気になったから戻ってきたいうパターンやね。もう40年以上も前の話やけど」
「そこから40年で、どんどん中央グループのホテルが増えていったんですね。やっぱりお客さんが増えていったから、ホテルを増やしてきたってことなんですか?」
「いや、それは山あり谷ありやったよ。僕が親父からホテルを譲り受けた頃は、労働者が多かったから、経済も活性化してたんや。せやから、ホテルも増やしていけたわけよ」
「当時は、どういう方がお客さんだったんですか?」
「もう100%、労働者の人。だから、ほんまにやさしい商売だったんよ。ターゲットがひとつしかないんやから。労働者のおっちゃんらに、どうやってリラックスして休んでもらうかいうことだけに気遣うたらええわけよな。そこが、他の土地のホテルとの違いや」
「はぁー、なるほど」
「もともと簡宿(※簡易宿所)いうのはひとり1畳の部屋やったんや。それで当時は150円とか300円とかいうような値段やねん。そうやって、毎日200人を泊めてた」
現在も、釜ヶ崎の街には簡易宿所が数多くある
「でもな、僕のおじさんに当たる人が、1978年に『ホテル大洋』いうのを作ったわけや。そこが革新的なホテルだったんよ。今までの簡宿にはなかったエレベーターをつけて、高層ホテルにした。冷暖房を入れて、トイレ付きの部屋も作ってな。それに頭をカーンといかれてん。あれは文明開化やったな」
「そのホテルは、お客さんに評判だったんですか?」
「それはもう大人気や。僕らが700円とか800円でやってる時代に、1泊2000円やで。それでも人は入った」
「当時の相場よりも3倍くらい高いのに」
「今やったら1泊2000円のホテルなんてなんぼでもある。でも、大洋ができたのは40年以上前やからな。しかも、今でもその値段から変わっとらんねん」
「そのとき、僕はちょうど30歳で、『うわー、すごいもんできたなあ。俺もこんなホテルほしいわ』と思ったんや。そしたら、その2年後に、大洋と同等レベルのホテルが手に入ったんよ」
「急展開! もともとあったホテルを買ったってことですか?」
「そうそう。建物が売りに出て、僕のところに買えへんかって話がきた。他の人は見向きもせんかったようやけど、僕はこれから絶対にそういうホテルがいるって感覚があったから、数億円の資金調達をして買ったわけや。それが手に入ったから、今があると思うてる」
「はぁー、山田さんのターニングポイントだったんですね」
「あれが人生の別れ道やったな。何の実績もない若造に何億いう金を出した銀行もえらかったと思うわ。自分でも思うたもん」
「『30歳で俺より借金してるやつはおれへんやろ』って」
「あはは!」
「もちろん、世の中は広いから、そんな人はなんぼでもおるんやけどな。そのときの僕はそう思ったんや」
「30歳で数億の借金はすごいですよ。それだけの借金をしても、商売としてやっていけるという自信はあったんですか?」
「そら大洋を見てるやん。1日2000円でも、毎日満室になっとんねんもん」
「はいはいはい」
「ほんで朝になったらな、次の日も泊まる人までみんな追い出しよんねん。そうして客を出して、部屋を清掃してまた入れよる。そんなんしててもずっと継続してお客が入んねんから、同じレベルのホテルを買うたら満室なるのはわかっとるやんか」
「ずっと間近で見てたわけですもんね」
「せやから、当時は大洋をやってたおじさんがファーストランナーや。で、僕はセカンドランナーやな。だから、おじさんが走る後をずっと追ってればいいわけや。よさそうなことは取り入れて、これはあかんなと思うことはやめといたらいい。一番楽なんよ、セカンドランナーは」
「先にやってる人の成功例も失敗例も見れるから」
「ファーストランナーは失敗するわけや、必ずな。だから、その後をついていったら、絶対に楽やん」
「セカンドランナーになれと(笑)」
「せやけど、そのおじさんが亡くなったら、僕がファーストランナーになってもうてん」
「今度は失敗を先に経験しなきゃいけない側になっちゃったんですね」
「そうやねん。だからもう推進力を持ってやっていく以外しゃあない。そうやって、もう30年くらいは走っとる」
バブル崩壊で労働者が減り、観光客向けの宿へ転換
「山田さんがファーストランナーになってからの30年で、2万人いた労働者の方はどんどん減ってきてるわけじゃないですか」
「どんどん、どんどん減ってるなぁ」
「そういう状況でも、山田さんが経営するホテルは増えていったってことですよね」
「それがなぜかいうたら、バブルや。1985年くらいから始まったバブルの影響で、しばらく景気はよかった。でも終わった途端、労働者に仕事がないわけや。ほんなら、みんな生活できへんから、ここにおれへんようになる人もおる」
「そうですよね」
「それで、労働者のおっちゃんらを相手にしてた僕らもどないすんねんいうことや。今まで100部屋が満室になってたホテルに、お客さんが20人しかおれん。80部屋は空いてる。こら、どこが潰れるかいうたら、最初は中央グループやんな。なんせホテルを作るごとに何億と借りてきてるから、借金が一番多いねん」
「経営してる数が多いってことは、そのぶん返済額も多いってことですもんね」
「親から譲り受けた土地と建物で、従業員が家族だけなら潰れるわけないわ。でもうちは従業員もおるし、借金もあんねん。そら経営が傾いたら真っ先に潰れるわ」
「そうですよね。実際、そういう状況をどうやって切り抜けたんですか?」
「な? どないすんねや」
「えー、気になる(笑)」
「話が上手すぎて落語家みたいになってる!(笑)」
「当時はホテルが4軒あって、どれも80%が空いてるわけよ。採算なんて全然合わへん。で、最初に考えたのが『この辺にはコンビニがない』ってことや。コンビニができたら、労働者のおっちゃんたち喜ぶやろうなぁと思ったから作ってん」
「コンビニを?」
「そうや。ファミリーマートをな。そら喜んだわ、おっちゃんら。12月にオープンしてんけど、翌月の1月1日の売り上げが、西日本で2番やったからな。1日で187万円」
「すげー!」
「ファミリーマートの人もビックリしてたわ。『すごいですね』って。しかも、そのときのオープン時間は朝7時から夜11時までやからな。次の年には100円ショップも作ってん。これもおっちゃんらが喜んでくれたわ」
「山田さんが次々と街をアップデートしてきたんですね! そして地元のおっちゃんたちへの心配りがすごい」
「せやけど、本職のホテルは全然あかん。そっちをどないするか考えてたときに、ちょうどパソコンが出だしたんや。2000年くらいやな。『これやなぁ』と思て」
「えー! 何するんだろう、パソコンで!」
「『これやなぁ』と思て」
「めちゃくちゃ引っ張るじゃないですか(笑)。何をしたのか教えてくださいよ!」
「ホームページを作ったんや」
「ホテルのホームページをですか?」
「そう。あんな、大阪で新聞広告や中吊り広告を出しても、客は来えへんやろ。大阪の人間が、わざわざホテルに泊まるわけないんやから」
「はいはいはい。寝泊まりする家がありますからね」
「だから、他所に情報をばらまく必要があるやろ。そのためにどうしたらええか、ずっと悩んできて、『ホームページや!』と思ったんよ。で、実際にホームページを作ったら、ぱあーんと反響あって」
「大阪以外の人からもですか?」
「それも、国内だけやなく、韓国、台湾。ヨーロッパとか海外からも反応があったんよ。自分でも『おおーっ!』と思ったな。そのときは日本語サイトだけやから」
「はぁー、それだけネットで海外に向けた日本の宿情報が少なかったんですかね」
「でも、海外からの反応も多かったから、急いで英語、中国語、韓国語のホームページも作ったんや」
「そこに迷わず投資したと…!」
「もう、『これやなぁ』と思ったからな」
「商売の嗅覚~(笑)」
「ホテルのホームページを作ったってことは、労働者の方々が少なくなってきたから、代わりに観光客相手の商売をしようっていう考えですよね?」
「元々のお客さんが減ったぶん、他所から入れていきやなあかんな、という発想やね」
「やむなく別の活路を探し、進化していったわけですね。まさに宿キングだ……」
「それまで簡宿いうのは、労働者しか相手してなかった。でも、バブル後には3つの方向にわかれたんや」
「3つの方向というのは?」
「ひとつは、僕みたいな方向やな。要するに『他所からお客さんを呼んできましょう』という方向。ふたつ目は、『今まで通り労働者の人を相手にしてきましょう』いう方向。もうひとつは福祉のほうに活路を見出して、『生活保護のアパートになりましょう』って方向やね」
「なるほど」
「僕は、他所からお客さんを呼んでくる方向を選んで、ホームページを作った。いわゆる西成、釜ヶ崎とかあいりん地区いうところは、大阪の人間からすればイメージのよくない場所やねん。でも、東京の人からしたら、西成や釜ヶ崎ってどこやわからへん」
「そうですよね」
「僕らかて、東京の山谷って言われても何が何やかわからへんもん。それが外国の人からしたら、もうひとつわからへんやろ。だから、そういう人たちをターゲットとして狙ろてたわけや」
「確かに、宿泊先を探すときにチェックするのって、値段とかアクセスのよさ、部屋の雰囲気くらいですもんね。
「それしかあらへんやろ。西成いうのは新今宮の駅からすぐやし、あそこは空港からJRと南海電鉄が来てる唯一の駅やねん。立地としては最高や。値段も安いし、部屋だって綺麗にしてある。その結果な、2004年には中央グループのホテルに泊まった外国人のお客さんが年間9000人になったんや」
コロナ前は海外からの観光客も多く、街の掲示物も多言語
「すごい! ターゲットを切り替えてからの4年間で、外国からのお客さんが9000人に」
「そういう状況になってるのに、まだ誰もホームページとか、外に情報発信するツールを用意してないわけよ。他のホテルは」
「山田さんがファーストランナーで走り続けてるけど、それに続く人がいなかったんですね」
「セカンドランナーが誰もおれへん。独壇場や」
「強すぎる(笑)」
他所に負けないため、自分たちの強みを作る
「でな、ちょうど外国からのお客さんが増え始めた頃や。長男が帰ってきて、『親父、ホテルの仕事を手伝わしてくれ』っていうんよ。それまで長男は、大学を出てから宅建の免許をとって、マンションを売る仕事をしててん。それで金を貯めて、外国を放浪しとったんよ」
「いわゆるバックパッカーってやつですね」
「そうやね。タイから韓国から、オーストラリアと、もうあちこち行っててん。で、手伝わせてくれいうから、『お前大丈夫なんか?』っていうたわけよ。そしたら『俺には3つの武器があるから、絶対に大丈夫や』いうてな」
「どのエピソードもドラマがすごいな(笑)。3つの武器は何だったんですか?」
「でな、『3つの武器いうのは何やねん?』って息子に聞いたんよ。そしたらまず、『英語が喋れる』と。それから、『バックパッカーやから、世界を知ってる』と。でもな、それだけやったら日本にだって何百万人っておるやろ」
「そうですよね」
「そしたら長男が、『ただひとつ、これだけは俺にしかないねん』いうて。なんや思う? 『親父がホテルを持ってること』っていうわけよ」
「そこか〜〜!」
「確かにその3つの条件がそろってる人いうのは、ほんまに少ななるよな。だから、『なるほど』と思うがな」
「ほんで、実際にホテルの仕事をはじめたら、やっぱり違うがな我々とは。やることが、えげつない」
「どういうところが違ってたんですか?」
「英語ができるから、アメリカのポータルサイトに登録して、向こうで情報発信とかをするわけよ。それで、ぎょうさんお客を呼んできてん。それから毎年1万人ずつ海外からのお客が増えたんや」
「えっ、すげー!」
「せやから、2020年には中央グループだけで外国人宿泊客が15万人になったんや。コロナがはじまる前は、そういう状態よ。そうやって外からのお客が増えたから、2006年には自分らのノウハウを簡宿組合に公開してん」
「みんなで危機的状況を切り抜けるために」
「そうやね。中央グループだけが点でやってても街はよくならんから、面で展開せなあかんと思ってな。そのためにいろんなホテルに『外国人観光客を積極的に誘致せなあかん』って呼びかけたわけよ。その結果、このエリアには年間で20万人の外国人観光客が来るようになったわ」
「街が変わるきっかけを作ったのは、山田さんとインターネットだったんだ!」
「最初は外国人のお客が増えて、だんだんバックパッカーの街ってイメージが定着してくると、今度は日本人も来るようになったんよ。そういう流れに合わせて1畳間だった部屋を、ビジネスホテルタイプに変えたりしてな。そういう投資をすることで、うまく人が集まる流れを作ったんや」
「やっぱビジネス嗅覚が半端ないっすね」
「そうやってコロナ前には、年間で外国人旅行客が20万人、日本人旅行者30万人が来るようになった。そこはな、僕らが『世界中の旅行者が集まる街』というブランドを作ったつもりやねん」
「完全に新しい流れを作ってますもんね。凄まじいな、宿キングの力」
もともとは1畳間だった部屋を2つ繋げて改装した『ホテル中央オアシス』の部屋
「他のホテルとも力を合わせて面で頑張ろうと思ったのは、地元を盛り上げたいという想いがあったんですか?」
「やっぱり次が出てきてほしいんや。息子らの世代が主体にならんと、この地域は盛り上がっていけへんねん。僕の場合は親が早くに亡くなったけど、若い頃に渡してもらったからできたこともあったからな」
「山田さん自身も若くして商売を引き継ぐことで、自由にやれた部分があったんですね」
「若い世代いうのは、馬力が違う。パワーがあるからな。特にこれからはネットの時代や。そこで何をすべきかは、僕よりも息子らのほうがようわかっとる」
「山田さんとしては、今後この街がどうなってほしいと思ってますか?」
「いろんな人が、いろんな意見を持っててええねん。ここの街がようなっていけばええんやから。そのために僕ができるのはホテル業。もうそこしかあらへん。せやから、僕らはこの街に人を呼んでくるのが役目やね」
「なるほど」
「そうやって人が来たら、外からのお客さんを受け入れる食堂や店が必要やんな。せやから僕は、ここの商店街に20年間いい続けてる。『僕らは外から人を呼んでくるから、そういう人たちが行きたくなるような場所を作らなあかん』って」
「確かに、お金の落とし方がわかりにくい土地ってありますね。観光客の気軽に立ち寄りたくなるような店が見当たらないような」
「せやから、おもろい店が必要やねん。80軒あるうちの5軒でええ。『ここ行ったらおもしろいですよ』って紹介できる店があったら、こっちから案内するやん」
「知らない街で『どこ行こうかな』って考えるとき、やっぱり最初は泊まってるホテルに聞きますもんね。『この辺で、どこかオススメのお店はないですか?』って」
「そうやろ。だから、僕は商店街の連中に言い続けてるんや。今、西成区商店街連盟の会長をやってるやつも、この街で育っとる後輩なんよ。生まれ育った街やから、そこには想いがあるわけや。『なんとかせんとあかんな』って」
「僕らはこのエリアのことしか考えてないんよ。いつだって難波や梅田に負けんとこう思って、一生懸命考えてる。値段、清潔さ、便利さ、いろんなことを考えて商売してるわけや。せやないと勝たれへんやん、大きな資本には」
「自分たちの強みを作っていかないと」
「僕ら西成区やったら『中央グループや』って、ええ格好していうてるけど、日本で見たら零細も零細や。そんな会社が大手に勝とうと思うたら、どないしたらええんか考えるやん。そこを一生懸命考えてるんや。なんでもな、当事者やないとアイデアは浮かんでけーへんねんて」
「そうですね」
「『ここに泊まっても、朝ご飯を食べるとことがない』っていわれて、商店街の食堂に頼んだんよ。最初はちょっとやってくれたけど、『あきまへん』いうことになってな。『ほんならしゃあないから、自分でやろか』いうて、『宮本むなし』いう飲食店を作ったんや」
「はぁー、そうなんですね。結局、山田さんが全部やっちゃってる(笑)」
「いや、今はな長男もおるし、次男も戻って手伝うてくれてるからな。そうやって、いろいろとやっとるね。ちなみに、二人にはそれぞれに会社を作らせて、あそこのホテルは長男、こっちは次男いうように管理を分けたんや。だからな、兄弟でまったく喧嘩はせえへん。むしろ、お互いに切磋琢磨してるライバル関係やな」
「はあー、すごいなぁ。ドラマみたい」
「兄弟で会社を継いで、喧嘩してダメになるってこともあるやんか。それを防ぐためにもな。せやから、僕はもう上から見とったらええだけやわ」
「(笑)」
向かって左側の『ホテルピボット』はお兄さんが、右側の『ホテル中央selene』は弟さんが管理している
返済期限さえ延ばせれば、コロナ禍も生き延びられる
山田さんがお父さんから引き継いだ『ホテルみかど』は今も現役で稼働している
「今回のコロナも宿泊業には大きな影響を与えてますよね」
「そらもうあかんわ。去年の4月くらいからは全然あかんのちゃうかな」
「この事態をどう乗り越えていくか、今の時点で何か考えていることはありますか?」
「僕らが一番しんどいのは、返済があるってことなんよ。大きな金を借りてるからな。だけど、返済を猶予さえしてもうたら、なんぼでも生き伸びれると思うわ。実際、政府はコロナの影響があるから返済を遅らせてもいいってことにしてくれてんねん」
「この非常事態に、特例ができてるんですね」
「そうやな。返済期限さえ伸びれば、もう全然問題なく越えられるわ。生き延びれる」
「そんなふうに言い切る人には、初めて会いました」
「我々はありがたいかな、アパートを持ってるし、コンビニや飲食店もある。だから、グループとしての実力はあるわけよ。そうやって凌ぎつつ、ワクチン接種が進んでコロナが落ち着けば、また勝負できる。なんせここは場所がええ、値段が安い、設備がきれいやもん」
「また観光客が戻ってくると」
「そうやね。コロナの影響で民泊もずいぶん減った。一部は復活するやろうけど、供給できる部屋数が減った分、ホテルにはお客が戻ってくるんちゃうかな。そんな見通しは持っとる。そうしたら、逆に僕らの商売はやりやすなるわ」
「むしろ、勝機かもしれないってことなんですね」
「釜ヶ崎って、大手のホテルチェーンも入ってきてるんですか?」
「うん。せやけど、外から入ってきてるやつはやっぱあかんわ」
「えっ、なんでなんですか?」
「なんでやろな。やっぱり、おっちゃんらに対する思いがないからちゃうかな。地元の人間は、そこが根っこにあるんよ。中央グループが強いのは、そこやと思うな」
「なるほど。ここで生まれ育ってるからこその、土地に対する思い入れとリスペクトがある」
「ここでしか生きていけないというのもあるんやけどな」
「いや、すごいなぁ。すごくおもしろかったです。ありがとうございました!」
「ありがとう! 上手いこと書いたってな、この街のために」
撮影:小林直博