ほとんど家から出ずに黙々と一人で生活していると、さまざまな雑念が頭に浮かんでは消えてゆくもの。
この日記では、家から出ないことに定評のあるライター・上田啓太が、日々の雑念や妄想を文章の形にして、みなさんにお届けします。
今回は、
・職業としてのケルベロス
・親の顔は自分のネタバレ
・それは生まれたままの姿じゃありません
の三本です。
上田啓太
文筆業。ブログ「真顔日記」を中心に、ネットのあちこちで活動中。
ブログ:真顔日記 Twitter:@ueda_keita
職業としてのケルベロス
ケルベロスというのは、何を考えて生きているんだ。あの生き物は理解しがたい。頭が三つもあるじゃないか。そのうえ仕事が地獄の番犬とは、どういうことだ? 情報量が多すぎる。お願いだから少しずつ、説明してほしい。
地獄の番犬とは具体的にどんな仕事なんだろう。求人サイトにも載っていない。正直なところ興味がある。自分の経歴に地獄の番犬を追加してみたいじゃないか。迫力において他の追随を許さない。大学卒業後は十年ほど地獄の番犬をしていました、と言える男で私はありたい。
しかし仕事の内容は想像が付かない。いったい、何をする仕事なんだ。番犬という言葉から素直に連想すればいいんだろうか。
番犬とは、家屋への侵入を防ぐ存在である。となると、地獄の番犬は地獄への侵入を防ぐ存在だと推測できるが、わざわざ地獄に侵入してくるやつなんているのか? 地獄は落とされるものじゃないか? むしろ、地獄に落とされた者が不当に天国に侵入しないように、天国にこそ番犬が必要なんじゃないか?
しかし記憶では、天国の入口にはハープを弾いている天使がいるだけだった。穏やかな表情で、ポロンポロンやっていた。あいつの気楽な態度はなんだ? バイトか?
天国でハープを弾くことは、地獄で番犬をするよりも、ずいぶん楽そうな仕事に見える。あの仕事はあの仕事で、やってみたい。もっとも、私はハープを弾いたことがない。やはり採用基準はハープ経験者だろう。あの天使たちも全員、音大を出ていると思われる。やはり地獄の番犬がいいだろう。
ケルベロスとして就職した場合、私は決まった時間に地獄の入口で四つんばいになり、よだれを垂らしながら、うなり声でもあげることになるのかもしれないが、正直なところ自信がない。初日で辞めたくなりそうだ。大学卒業後は地獄の番犬を十年やり、天国の入口でしばらくハープを弾いた後、マッキンゼーでコンサルしてました、とか言ってみたかったが。
親の顔は自分のネタバレ
自分の顔がどんどん父親に似てきた。二十代半ばに気付き始めた。若かった頃の父親はこんな顔だったんだろうと鏡を見て思う。遺伝子の力はあなどれない。息子の顔というのは、否応なく父親に似ていくものなのだ。
だから、たまに帰省して父親の顔を見ると、自分のネタバレを見た気分になっている。ああもう、人生のそのへん、まだ読んでないのに!
考えてみれば、付き合っている女子の母親に会うときも、微妙にネタバレを見せられた気分になっていた。彼女と母親が並ぶと露骨にそうだ。数十年後のネタバレを見た気分になってくる。ああもう、人生のそのへん、ともに歩んでいきたかったのに!
親の顔とは、自分のネタバレである。実家とはネタバレ情報サイトである。彼女に「お母さんに会ってほしい」と言われたならば、それは「私のネタバレに会ってほしい」という意味なのだ。
彼女と、彼女のネタバレと、三人で食事をする。いや、この場合、こちらも父親を呼ぶのがマナーだろう。「僕のネタバレも見てほしい」ということだ。愛し合う二人とそのネタバレによる食事会だ。
「はじめまして、娘のネタバレです」と向こうの母親に自己紹介される。
「はじめまして、息子のネタバレです」とこちらの父親も自己紹介をする。
そして、和気あいあいとした会話がはじまる。
「こいつ、最終的には、このへんにしわができて、こんなふうに肉がたるんで、髪はこのへんまで禿げ上がるんですよ」
「あーっ! ネタバレやめてーっ!」
「あらあら、この子だって最終的には、このへんにしわができて、こんなふうに胸が垂れて、白髪だってこんなに生えてくるんですからね」
「もーっ! ネタバレ禁止ー!」
「あははははははははは」
そんな会話が交わされるのかもしれないが、だとすると、その場には狂人しかいない。
ところで、ネタバレにおけるタブーは死である。特定のキャラが死ぬことを暴露するのは、何より罪深い。すなわち、
「えーっ! 毛根って死ぬの!?」
おでこの広さが伏線だったようだ。
それは生まれたままの姿じゃありません
「生まれたままの姿」という表現がある。男女が裸になって抱き合うときに使われることが多い。「慎太郎と由美子は生まれたままの姿になり、ベッドのなかで抱き合ったのだった」というような文章である。
しかし、これはおかしい。本当に生まれたままの姿になりたいならば、まずは体重を3000グラム前後まで落とさねばならない。服を脱ぐだけで生まれたままの姿と言い張るのは無茶である。
仮に慎太郎が身長180センチ体重75キロだとして、それが裸になっただけで、なぜ生まれたままの姿だと言えるのか。本当にそんな状態で生まれてきたのか。だとしたら母体の心配をしてしまう。
愛し合う男女が本当に生まれたままの姿で抱き合いたいならば、まずはそれぞれ体重を3000グラム前後まで減らし、生まれた直後の赤ん坊にできるだけ外見を寄せなければならない。皮膚を赤っぽくし、目はまだ開いておらず、母体とへその緒でつながっている。それならば納得もいく。
慎太郎と由美子がホテルに泊まり、それぞれがシャワーを浴び、バスローブに着替え、ベッドの上で見つめあい、生まれたままの姿で抱き合うことになった瞬間、由美子がシュッと縮んで、赤茶色の乳児になる。バスローブは産衣に変わっている。いつのまにか隣に由美子の母親もいる。
こうなると、慎太郎もうまいことシュッと縮んで乳児にならねばならないが、人はそう簡単に乳児になれない。慎太郎は途方に暮れる。由美子はどこでこんな技法を学んできたのか。これが女の神秘なのか。
しかし、なんでも女の神秘に還元するのは昭和の男の悪いくせである。慎太郎は乳児になった由美子を見つめて途方に暮れる。ベッドサイドに置かれたランプが室内を照らしている。慎太郎の戸惑いをあらわすかのように室内を沈黙が支配している。その時、由美子の母親が言う。
「抱いてやってください」
慎太郎は言われるままに由美子を抱き上げる。由美子は慎太郎の腕の中で小さく声をあげる。抱くの意味が変わっている。たしかにおれは由美子を抱きたかった。しかし、それはこうした意味合いにおいてではなかった。だが、それでいいと思った。おれはこの子と生きていくのだ。この小さな命を守り通すのだ。慎太郎の心に爽やかな風が吹いた。慎太郎は由美子の母親に微笑むと言った。
「元気な女の子ですね」
もうすぐ夜が明ける時間だった。新しい由美子と過ごす最初の朝が、すぐそこまで来ていた。
ということで、今回は三本の日記でした。
それでは、また次回。