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町のシンボルが廃墟から復活したら、あなたはどう思う?

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町のシンボルが廃墟から復活したら、あなたはどう思う?

 

こんにちは。ライターの日向です。突然ですが、皆さんの住む町に「シンボル」はありますか?

神奈川の横須賀という町で生まれ育った僕にとっての町のシンボルは「ショッパーズプラザ」というショッピングモールです。

 

海に面したショッピングモール

 

友人と遊ぶのも、家族で買い物するのもここ。小学校から高校まで、数々の想い出をこの場所で作ってきました。皆さんにも、思い出とともに蘇る場所があるのではないでしょうか。

 

では、そんな町を象徴するシンボルが、もし無くなってしまったら?

 

そんなことを考えるためにやってきたのは、山梨県の北部に位置する韮崎市。人口3万人ほどの小さな町ですが、ここに一度は廃墟になったものの、15年という時を経て復活した町のシンボルがあるというのです。

 

駅に着いたらすぐに分かると言われたけど、どこにあるんだろう。

 

ん?

 

あれ??

 

完全にあれだ……!

 

どこかレトロな雰囲気も漂う5階建てのビル。真下から見ると、改めてその存在感の強さを感じます。

中をのぞくと、1階には雰囲気の良いカフェがあり、

 

2階はDIYアイテムを取り扱うショップがあったり……

 

3階には、ギャラリーや本屋、さらにはレコードショップまで!!

 

まるでおもちゃ箱のようなこの建物の名前は「アメリカヤ」
2018年4月のオープン直後からさまざまなメディアに取り上げられ、今や県外からもこの場所を目指して人が訪れるほどの、山梨きっての人気スポットです。

 

本当にこの建物が一度、廃墟に? にわかには信じられません。
そんなアメリカヤの復活の鍵を握るのが、建築士の千葉健司さん。

 

話を聞いた人:千葉健司(ちば・けんじ)
株式会社アトリエいろは一級建築士事務所の代表。リノベーション業を中心に、数々の物件の建築設計に関わる。2018年、廃墟だった「アメリカヤ」を複合ビルとして復活させる。

 

町のシンボルは、一体どのようにして復活を果たしたのか? 千葉さんに聞きました。

かつての韮崎のシンボル「アメリカヤ」

「駅を降り立った瞬間に、アメリカヤの看板がどーんと見えて驚きました」

「看板をライトで照らしているので、夜だと向こうの山からでも『アメリカヤ』って見えるんですよ」

「周りに高い建物がないし、すごくかっこいいから一際目立ちますね」

「そうですね。でも実はこの建物、去年のリニューアルオープンまで、15年間ほぼ廃墟も同然の状態だったんですよ

「なんと!」

「まず、このビルができた経緯からお話しましょうか。この写真が以前の建物です」

 

「あれ? ビルじゃなくて平たいですね。ホシノ……スーベニアショップ……?」

「いわゆるお土産屋ですね。当時、韮崎は甲府に行く人のための宿場町として栄えてました。昔はそういった方に向けて、いろんな商売をやっていたそうです。で、こちらがオーナーの星野貢(ほしの・みつぐ)さんですね」

 

「おお、かっこいい」

「当時からアメリカンカルチャーが大好きで、ピンク色に塗装したアメ車を乗り回していたみたいです。ある時、この星野さんがアメリカヤのある場所で温泉を掘ろうとしたらしいんですね」

「え? 温泉? なぜでしょう」

「当時、韮崎にはたくさんの人が訪れていたので、温泉を掘りあてれば儲かると思ったんでしょうね」

「山師みたいな発想ですね」

「結局、温泉までは到達しなかったんですけど、地下300メートルのところで『鉱泉』と呼ばれる良質な水が噴き出してきたんです」

「ラッキー!……でも、ただ水が湧き出ただけじゃ人は集まりませんよね」

「そこで星野さんは、その水を自ら『延命の水』と名付けて、アイスボンボンキャンディーとして売り出したんです。これが当時の様子ですね」

 

「おおー! 発想の転換! 湧き水をそのまま使えば、原価はほぼゼロですもんね」

「そうなんです。当時は珍しかったこともあって、このアイスが爆発的に売れました。そうして、たくさんの儲けを得た星野さんは、元の建物を壊して5階建てのビルを建てたんです。それが1967年、大体50年前の位の出来事ですね」

 

「まさにアイスキャンディー御殿……」

「一階はお土産屋さんと食堂、二階は喫茶店、三階はオーナーの住居で、四・五階は旅館でした。さらに星野さんはビルだけでなく、地元に道を作ったり、お墓やベンチを寄贈したり、とにかく町のために尽くした人だったんです」

「ちゃんと稼いだお金を地元に還元していたんですね」

 

晩年の星野貢さん

「そうですね。この建物はすごく目立つし、そういったオーナーの人柄もあって、韮崎といえば『アメリカヤ』と言われるくらい、町のシンボルとして地域の人に愛されていたんです」

「あれ? でも最初に廃墟同然の期間があったと言ってましたけど……」

「はい。たくさんのお客さんで賑わったアメリカヤですが、15年ほど前に星野さんが亡くなって、惜しまれながらも閉店することになります。その後、星野家の三男であるミツオさんがビルのオーナーを引き継ぐこととなりました」

「おお、良かった。ミツオさんはアメリカヤを韮崎に残すために?」

「いえ、それがですね……。相続の際に誰も名乗りをあげなかったため、なかば仕方なくミツオさんが引き継いだんです」

「あんなに愛された建物なのに、なぜでしょう……?」

「なにせ老朽化もひどくて、誰も買い手がつかない上に、ビルの取り壊し費用に2000万円かかると言われたそうなんです」

「2000万円も。下手したらビルを建てられそうな金額……」

「そう考えると、いくら町のシンボルと言えど、容易に継ぐことはできなかったんでしょうね。そうして八方塞がりになったアメリカヤは、その後、15年ほど手つかずの廃墟となってしまいます」

シャッター商店街を救った「シンボル」の再建

「ちなみに千葉さんはいつ頃アメリカヤを知ってたんですか?」

「ぼくはこの近くにある韮崎高校に通っていたので、通学中、電車のホームから『面白い建物だなぁ』ってずっと見てたんです。何回かご飯を食べにきたこともありました」

「営業当時からお客さんとして来ていたんですね」

「僕が事務所を設立したのは今から約10年ほど前になるんですが、当時から山梨は空き家率が日本でもトップクラスで多い県で、空家がどんどん取り壊されていく状況だったんです」

「なんと」

ヨーロッパでは100年を超えた古い建物でも少しづつ手を加えて大切に残されているのに、日本では30年ほどのサイクルで価値がなくなり、取り壊されてしまう。そういった状況にすごい違和感を感じていました」

 

「国によってそんなに違いがあるんですね」

「でも、そういった建物も少し手を加えれば色々な使い道があります。だから僕はそういった使い道も一緒に考える『直す建築士』になりたいと思い、ここ韮崎に建築事務所を構えました」

「志あっての選択なんですね。では、アメリカヤのリノベーションはどういった経緯で?」

「事務所を始めた頃から、アメリカヤを複合施設としてリノベーションしたら面白いだろうなと思っていて、人に会うたびに話していたんですよ」

「ふむふむ」

「すると不思議なことにさまざまな偶然が重なって、ミツオさんとお会いすることができました」

「まるで千葉さんの想いが引き寄せたみたいに」

「そもそもミツオさんは、ビルの管理に困り果てていたんですよね。雨漏りもするし、モルタルも剥がれ落ちるし。その流れで10年以内にアメリカヤを取り壊すという話を耳にしました

 

リノベーションをする前のアメリカヤ内部

「でも、こんなに良い建物を壊すのはもったいない。だから、うちで建物の管理責任とかも全て含めて借りて、自社でリノベーション施工をすることにしました」

「管理責任までも!すごい挑戦ですね」

「確かに挑戦ではありましたが、その時はこの建物を残したい!という気持ちだけでした。それに僕が立ち上げた事務所はもともとリノベーションに力を入れていたので、アメリカヤを手掛けることは、自分の中での集大成でもあるなと」

「これだけの規模の建物をリノベーションするのは色々と大変そうな気もするんですが、『もうダメかもしれない』みたいに諦めかけた瞬間はなかったですか?」

 

「面白いことに、なにもなかったんですよ」

「え! 本当ですか? 取材だからって無理してません?」  

「本当に全てがうまく回ったんです。とはいえ、当時の韮崎はもう完全なシャッター街。駅の反対側にある複合型の商業施設に来るくらいしか目的がありませんでした。でも、逆にその状況がチャンスだなと思ったんです」

「チャンスというと?」

「駅の反対側に商業施設を目的に来た人がいるということは、こっちの商店街を面白い通りにすれば、きっとその人も遊びに来てくれるだろうと」

 

商店街は小さな個人経営のお店が多数

「ポテンシャルは充分に感じていた」

「さらに行政もとても協力的で。今までは建物の大小に関わらず、改修費の補助金は50万円までが上限でした。でもアメリカヤを改修するタイミングで、200平を超える建物の補助金は200万円まで出しましょうと補助金制度を変えてくれたんです」

「行政から! なぜそこまで協力的だったのでしょうか?」

「僕は韮崎高校の出身ですが、実は市長もミツオさんも韮崎高校卒なんです。先輩後輩の縦のつながりがあって、頑張っている後輩を応援しようみたいな空気があるんですよ。きっと、みんなアメリカヤの復活に可能性を感じていたのだと思います」

「なるほど。町のシンボルとして、みんなの記憶の中にアメリカヤがあったからこそかもしれませんね」

「そういった周囲の支えもあって、5ヶ月間の工事期間の間にテナントもすべて埋まり、2018年4月に無事オープンを迎えることができました」

「周りの方たちの反応はどうでしたか?」

「ミツオさんはとにかく驚いていましたね。すごく感動してくれて」

「15年間も1人で悩んでたんですもんね……」

町の成功は「プレイヤー」を増やすこと

「アメリカヤが復活して、目に見えてわかる地元の変化はありますか?」

「1番大きいのは、韮崎を目的として県外からも人が訪れ始めたことですね。今までの韮崎はただの通り道でしかなかった。でも、今は駐車場に停まっている車のナンバーを見ると、県外のものが多い。昔ならありえない光景です」

「地元に人を呼ぶシンボルとしても復活したんですね」

「はい。こうした経験を通じて、エリアリノベーションを考えるようになりました。

「エリアリノベーション??」

「いわゆる『町づくり』のことなんですが、この韮崎でアメリカヤ以外の場所も増やし始めているんです」

 

「例えばアメリカヤがオープンしてすぐ、近くの横丁を取り壊す噂を耳にしました。昭和感が残った横丁を見た時、これを取り壊すなんて絶対にもったいないと思い、オーナーさんに直談判して、なんとか貸してもらえることになりました」

「おお!なんだか聞き覚えのある展開。写真を見ると、横丁はアメリカヤと少し雰囲気が違いますね」

「実はアメリカヤがオープンして少し経った頃、地元の年配の男性から『アメリカヤはオシャレすぎて入りづらい』という意見を聞いたんです」

「あああ、確かに……女性が好きそうな雰囲気ではあります」

「本当はもっと色々な世代の方達に利用してもらいたかったんですが、そんな意見もあって。そこで、男性のひとり客でもふらっと立ち寄れるような、大衆居酒屋の雰囲気を残した『アメリカヤ横丁』をオープンしました。さらに、この通りに新しくゲストハウスもオープンしました」

「シムシティばりの勢いで町が充実していきますね。なにか広げていく上でのイメージはあるんですか?」

「そうですね。個人的に欲しいのは、やっぱり銭湯とか、ミニシアターとか。……でも正直、僕たちだけでこれ以上運営するのはもう難しいと感じています」

「それはなぜ?」

アメリカヤと横丁の運営で、会社のキャパシティ的に限界を感じたんです。なにせ5人しかいない会社だし、本業は建築なので、そこは大切にしたい。もっと『運営側』の人が増えてこないと、町づくりとしてはまだまだなんです」

「いくら建物があっても、使う人がいないと意味がないですもんね……」

「そうなんです。でも最近は『韮崎でお店をやりたい』と相談してくれる人も増えてきました。」

「おお!」

「だから相談に来てくれた人にいつでもいい場所を紹介できるように、たまに屋上から町を眺めて、『あの物件、なんか良さそうだな』とか妄想しています」

テラスからは韮崎市が一望できる

「本当にシムシティみたいだ……」

「ははは。妄想するときはゲームみたいかもしれませんね。でも、やっぱりその建物に込もった『想い』を受け継いでいくことは一番大事にしています」

 

「『想い』と言いますと?」

「アメリカヤでいえば、星野さんがどんな想いでこの建物を建てたのか。ここを訪れた人がどんな想いで過ごし、息子のミツオさんがどんな想いで僕に貸してくれたのか。そういうものが『想い』ですね」

「この建物に関わってきた人たちの『歴史』のような」

「そうですね。長い歴史を持つ建物を残していくのは、同時にそういった想いを残してくことでもあるんです。当時の技術を持った職人が減りつつあるなかで、一度壊してしまったら、もう再現できない建物が日本にはたくさんあります。そういった建物を後世にしっかりと残してあげたいなと」

「建築士としての、千葉さんの使命感を感じます」

「そうやって直した建物で誰かが商売をして、韮崎がどんどん盛り上がったら、本当に嬉しいですね」

「これから韮崎がどんな町になっていくのかとても楽しみです。今日はありがとうございました!」

まとめ

優しい語り口と「直す建築士」という言葉がとても印象的だった千葉さん。
その穏やかな口調の裏側には、「先人の想いを継いで残す」という強い意志が感じられました。

 

一度は取り壊される予定だった、かつての町のシンボル・アメリカヤ。15年間という空白の時間を経て、再び命が吹き込まれました。そしてオープン以降、たくさんの人が訪れ、その場所で想いを紡いでいます。

 

「建物を残していくことは、同時にその建物にこもった想いを残してくこと」と千葉さんは言います。

先人が残してくれたものを丁寧に直して継ぐ、「在るものを生かす」という暮らし方は、これから空家が増えていく日本だからこそ、より必要とされる価値観なのかもしれません。


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