こんにちは、ライターの友光だんごです。
どこか憂いを帯びた目の少女が、繊細な色使いで描かれた絵(と、しまりのない僕の顔)が並んでいますが、みなさん、この絵を描いた人をご存知でしょうか?
秋田県にかほ市象潟出身の木版画家「池田修三(いけだ・しゅうぞう)」と聞いてもピンとこない人が多いと思うので、まずはこちらをご覧ください。
池田修三さんは秋田のフリーマガジン『のんびり』をきっかけに没後、再評価された奇跡の画家です。
彼の一番特別な点は
地元での愛され方
なんです。
秋田の人、池田修三好きすぎじゃないですか?
こんな風に「土地に根づいた」アーティストって、なかなかいないと思うんです。
今まで、僕は池田修三のことを知りませんでした。でも、初めて絵を見て感じたのは、なぜか心の奥の郷愁が刺激されるような、妙に気になる感覚。
この画家のことを教えてくれたのは、関西出身だけど池田修三好きすぎな編集者・藤本智士さんでした。
案内人:藤本智士(ふじもと・さとし)
1974年兵庫県生まれ。編集事務所「りす」代表。雑誌『Re:S』編集長を経て、秋田県発行のフリーマガジン『のんびり』の編集長を務める。現在はWEBマガジン「なんも大学」編集長も。2011年には嵐が日本各地を旅する様子を記録した『ニッポンの嵐』の編集・原稿執筆を担当。2017年4月14日に発売を控える、俳優の佐藤健が熊本を旅した「るろうにほん 熊本へ」の編集・原稿執筆も。
取材対象やスケジュールを事前に決めず、現場での奇跡のような偶然の出会いを記事に落とし込むスタイルで日本中を取材してきた編集者である藤本さん。
しかもあの超人気アイドルグループ「嵐」と本作ってるし、最近では旅バラエティ番組『のんびりし〜な』を企画・出演したり「いちじくいち」や「なんもダイニング」などのイベントを主催したりと、活動の幅をどんどん広げまくっている、とにかくヤバい人なんです。ネックウォーマーはかわいいクマですが、秘めたる想いはグリズリー級です。
藤本さんと池田修三
藤本さんと池田修三作品の出会いは、秋田の友人宅。
その後、2012年に編集長だった秋田のフリーマガジン「のんびり」で池田修三を特集。特集の取材を通じ、藤本さんは池田修三という人に深く惚れ込んでいきます。
そして、『のんびり』の特集は、ふたたび池田修三が注目されるきっかけとなりました。
藤本さんが池田修三の作品に出会ったときの感動は、特集号に込められています。
池田さんの作品に出会ったあの日以来、僕はことあるごとに、インターネット上にある池田さんの作品画像を見ては、ため息をつく日々が続きました。それらの作品達が、あまりにも素晴らしかったからです。そして、先ほどの略歴のとおり、池田修三さんという人が、既にお亡くなりになっているという事実が残念でなりませんでした。しかしです。まさに僕は池田さんが死してもなお、生き続ける作品にまっすぐ胸を打たれました。そして僕は、秋田の人々の暮らしのなかにある池田修三という存在について知りたいと思い始めます。それはシンプルに、僕と池田修三との出会いが、どこかの美術館でも、何かのコマーシャルでもなく、友だちの家の壁だったからです。
のんびり Vol.3 秋田「池田修三という、たからもの」から引用
その後、現在に至るまで、画集の出版、さらに各地での展覧会の開催など、池田修三の魅力をさらに広く伝えるためのさまざまな活動を行なっています。
そんな藤本さん、以前からジモコロ編集長の柿次郎のことが気になっていたというのです。そしてジモコロ読者にぜひ池田修三のことを知ってほしいと、藤本さんみずから象潟を案内してくれることになりました。
柿次郎や僕にとって、藤本さんは「ローカルの大先輩」。願ってもない機会です。
正直なところ、柿次郎も僕も「地元の人が池田修三を好きすぎなこと」に、最初はピンときていませんでした。なぜなら
・絵画(アート)って気軽に買えるイメージがなくて、馴染みが薄い
・「絵が地元に根付いてる」状態がよくわからない
からです。
「『亀有にこち亀の両さんの銅像がある』みたいなこと…?」
「フィンランドのムーミンみたいな…?」
頭にいくつもの「?」を浮かべて象潟へと向かったわれわれは、驚くような町の風景を目の当たりにすることになります。
さて、それでは「奇跡の画家・池田修三」をたどる旅が始まります。
町のいたるところに絵がある!
象潟へは、秋田市内から車で1時間ほど。東の鳥海山、西の日本海に挟まれた地形で、冬は日本海側らしい荒れた天候の多い土地です。取材した2月はまだ雪景色。
まずは象潟駅前へ向かうと、駅前のロータリーの時計に少女の絵がありました!
駅のホームにも大きな「ようこそ」というパネルが。電車で象潟へやって来ると、真っ先に出迎えてくれます。藤本さんと柿次郎で記念撮影。
「さっそく絵がありましたね」
「いや、駅は観光協会とかが置いた可能性もあるから…」
「疑り深いな」
「まあまあ、ついてきてみて」
やはり気になるのは「地元の人の家や店に絵が飾ってある」という話。まずは行って確かめてみることにしましょう。お邪魔しまーす……
ありました。チューリップと少女の絵!
奥にもまだまだあります。
棚にも飾ってある。こちらもチューリップの絵です。
絵の持ち主は、須藤恵子さん。勤め先の建築事務所に、池田修三の絵を飾っています。現在、作品を大小合わせて40枚ほど所有しているそう。
「な、ほんまに飾ってあるやろ」
「ほんまでした。ご実家の物置で絵を見つけたのが、作品を集めるきっかけだったんですね」
「そう、物置を整理していたら、隅からホコリまみれの絵が出てきたの。7年くらい前だったかしら、今みたいに修三さんが人気になる前で。あんまり素敵だったから綺麗に修繕してもらって飾ってね。それから集め始めて、気づいたら増えちゃった」
「須藤さんみたいに見つけてくれる人もいたけど、『のんびり』で特集した2012年は、ギリギリのタイミングだったんよね。没後10年くらい経って、玄関に飾っていた絵がいよいよしまわれちゃったり、世代が変わって、埋もれかけてしまってた」
「そこに藤本さんが滑り込んだんですね…!そういえば、2月なのにチューリップの絵を飾ってありますけど」
「春を先取りしてるの。今日は雪だし、せめて部屋の中では暖かい気持ちになりたいでしょう? 飾る絵は季節に合わせてかけ替えてるのよ」
「『絵を飾る』って習慣があまりないんですが、絵を通じて季節を感じるっていう楽しみ方もあるとは」
「そうね、修三さんの絵は、季節のモチーフもたくさんあるから。埋もれたままで終わらずに、こうやってまた注目されるようになって、本当に良かったって思うの」
須藤さんの元を後にして、町のなかの池田修三探しを続けます。
通りがかったケーキ屋の店内にも絵が。ここでは池田修三の絵を再現したイラストケーキをオーダーできるそうです。
書店の店先にも発見。
地元の施設にあるトイレの男女の表記も池田修三!
聞いていた通り、行く先々で絵が見つかります。しかも、さりげなく風景のなかに溶けこんでいる。
こんな風に愛される絵の作者はどんな人だったのだろう?という思いが、歩みを進めるごとに募ってきます。
そこで、生前の彼を知る人を訪ねてみることにしました。
「池田修三の手紙」を見つける
出迎えてくれたのは、柴田尭さん。奥さんが営んでいた象潟駅前のお店を改装した私設ギャラリー「柴田さんち」には、たくさんの池田修三作品が飾られています。
実は柴田さん、池田修三の親戚にあたる人。昔、開店祝いに絵を本人からプレゼントされたのをきっかけに、どんどんコレクションが増えていったそうです。
「私が定年退職するときには、お世話になった人たちに、修三さんの絵をプレゼントしたんだよ」
「『秋田の人は池田修三の絵を贈り合う』ってやつですね。本当なんだ!」
「プレゼント用に何十枚も絵をまとめて買うことが多かったんだけど、そんなとき、修三さんは小さなサイズの絵をオマケでくれたんだ。本当に欲のない、人に与えるばかりの人で…そうだ、手紙も残ってるから見るかい」
「修三さんは、絵を納品する際、必ず手紙をつけてたらしい。彼の言葉って本やインタビュー記事としてはほとんど残ってなくて、手紙でしか触れることができないねん」
手紙には、『指のバレンダコとハケと曲がった腰が唯一の私のブリキの勲章です』という言葉が綴られています。
「木版画って実は彫ったりするより、刷りが一番難しいって言われていて。だから刷りだけは、刷り師さんに頼むことが多いんやけど、修三さんは小さい作品以外は、自分の手で何百枚と刷ってた」
「それは、手にタコはできるし腰も曲がりますよね…」
「うん、そしてそれを『勲章』と言ってる。『ブリキ』っていうのも、謙遜のあらわれだと思うんよね」
「『ブリキの勲章』って、最高のパンチラインですね。『無私の人』感ハンパないな…‥」
「修三さんの絵の価格が安いのも、価値が低いってことではなくて、修三さんの意志だった。当時修三さんの絵を扱っていた画商さんはみんな、価格を上げて欲しいって頼んでたみたいだけど、修三さんは、『広く手に渡ってほしい』からって、頑なに価格を上げなかったらしい」
「修三さんが今でも慕われる理由、だんだんわかってきました」
柴田さんちを後にして、藤本さん絶賛の「園食堂」で昼休憩。
冷えた体にアツアツのタンメンがたまりません。
麺をすする合間に見上げると、さりげなく池田修三の絵が!どこへ行っても絵があるのに驚いて、柿次郎がむせてしまいました。
藤本さんが出会った当時は、池田修三の全国的な知名度は低かったものの、秋田の人は、大半の人が「絵を見ればわかる」ほどだったといいます。
「地元銀行や企業のポスターに絵が使われていたのも理由やけど、大きなカギは『地元の広報誌』やと思ってる」
それならばと、広報誌を編集していた方の家を目指すことにしました。
地元に根付くきっかけは、スーパー公務員編集者
次に訪ねたのは細矢宗良さんのご自宅。当時の象潟町役場の職員として、昭和56年ごろから広報誌「広報きさかた」の編集を担当していた方です。細矢さんが作っていた頃の表紙がこちら。
ここにも池田修三!!広報誌の表紙だったんだ!
一同、思わず見入ります。昭和60年4月号からの2年間、池田修三の絵が、表紙を飾ったそうなんです。そして「広報きさかた」は、当時の象潟町内の全戸に配布されていた!地元に住んでいた人が皆、絵を目にする機会があったということです。
今までの広報誌のイメージと違う版画の表紙は、好評を博しました。そして、人気を受け、1年目の表紙絵12枚を使って「町の広報カレンダー」が作られ、こちらも全戸に配布されました。
「カレンダーもとっても好評でね。絵だけを切り取って飾るような人も多かったんです。これは掛け軸にしたものですね」
カレンダーは、部屋に飾り、日々の生活のなかで幾度となく目にするもの。この時期から、いっそう池田修三の絵が町の人の「日常の一部」になっていったはずです。
そして、話は「編集者としての細矢さん」に。
「僕は細矢さんを編集者の先輩やと思ってる。修三さんを表紙に起用しただけでなく、そこに地元の詩人・今川洋さんをかけ算したのがすごい。これは、いち地方公務員のレベルじゃない編集」
「ほんとだ!詩も載ってる!カレンダーを作ったのも細矢さんの企画ということですよね」
「そう。細矢さんは公務員だし、特にカレンダーの企画なんて、通すのは大変だったと思うよ。そこを貫いた細矢さんは、編集者としてめちゃ尊敬できる。そもそも、『広報きさかた』の月刊16ページを一人で作ってたらしいからね」
「担当になって2年目くらいから、毎月16ページ、取材・撮影・執筆・編集・入稿まで、全部一人でやってました」
「スーパー公務員編集者じゃないですか!! すごいな!!そういえば細矢さん、体もがっちりしてますよね」
「今も野球をやってますから」
「池田家が近所にあったので、修三さんの甥と仲が良かったんです。その甥と、藤本さんが瓜二つ。藤本さんが『のんびり』の取材で初めて会いにきた時、驚きましたよ。修三さんのお導きかと思った」
「『のんびり』の取材で象潟を回ってたとき、ほんとに『導かれてる』って感じるくらい、不思議なことが多かったんよ」
藤本さんが池田修三と出会ったタイミングも、まさに不思議です。『のんびり』のなかで、藤本さん自身が次のように書いています。
かつて修三さんが教鞭をとった由利高校ですら、絵が飾られなくなっているという現実を前に、僕たちは何かギリギリのタイミングのようなものを感じていました。つまり、今回の取材旅がなければ、もう池田修三さんに光があたることはなかったかもしれない……。今回の取材で、様々なお家にお邪魔し、そこに息づく修三作品に触れてきましたが、その一方で、修三作品がいよいよ奥にしまわれつつあるということも、僕たちはうっすら感じていたのです。
のんびり Vol.3 秋田「池田修三という、たからもの」から引用
「細矢さんという編集者が地元で広く知られるきっかけを作って、さらに藤本さんという編集者が再び光を当てるきっかけを作り……お二人がいなければ、僕たちはこんな風に絵を見られていないかもしれない。本当に面白いですね」
「奇跡みたいな話ですよこれは……池田修三についてもっと知りたいんですが、オススメの場所はないですか?」
「地元の資料館がありますよ。よかったら行ってみたら」
編集者の大先輩との出会いに身を引き締めながら、細矢さんのお宅を後にしました。
道すがら、「九十九島(くじゅうくしま)」と呼ばれる風景を見に立ち寄りました。田んぼの中に点在する松の木々が、海に浮かぶ小島のように見えませんか?
実は、象潟の「潟」という字は、かつて海だった名残。はるか昔、東にそびえる鳥海山の噴火による地殻変動で地面が隆起し、海が陸地へと変わった土地なんです。今も残る松の部分は、かつての島だそう。かの松尾芭蕉も『奥の細道』のなかで訪れているのですが、その頃は海。島々に船で渡ったそうです。
「修三さんは東京へ出た後は、地元へ帰ることはほとんどなかった。けど晩年には、地元の人が喜んでくれるからって、それまで作ってなかった秋田の風景の木版画をたくさん描いてるんよ」
「この九十九島もですか?」
「うん、でも実際の風景というよりは『記憶の中の風景』なんやと思う。そのままズバリの風景って実はなくて。だから東京にいて、秋田を思い出しながら描いていたんだろうなあって。あくまで想像だけど、遠く離れた東京から秋田を描くっていうことに、修三さんらしい『故郷への想い』を強く感じるんよね」
「修三さんならどうしたか 」
九十九島を出て、到着したのは「にかほ市象潟郷土資料館」。
館長の齋藤一樹さんです。資料館3階の展示室にて、年2回ほどテーマを変えながら、池田修三の企画展を行なっています。
展示のなかには愛用の道具も。版画を刷るのに使うバレンやハケが並んでいます。
そして「版木」も。木版画は、「黄色の版」「緑の版」のように、異なる色の版を重ねていき、最終的に一枚の絵になります。池田修三は通常よりも多い8〜12もの版を重ねていたそう。色をいくつもかけ合わせることで、あの繊細な美しい色合いが生まれているのです。
「一樹さんは修三さんの没後、遺族の人から絵や版木を預かって、最初は一人で管理してたのよ。この人がいなければ、今みたいに展示会もできてなかったかもしれない」
「修三さん以外の文化財の仕事も山ほどあるうえ、預かった多数の資料をたった3人ほどで整理している状態なんです。とても作業が追いついてなくて」
「僕は修三さんのことをもっといろんな人に知ってもらいたい、広めたい、と思って活動してる。だけど、活動の規模が大きくなりすぎると、現場にいる一樹さんや、遺族の池田家の人に迷惑をかけかねないっていうジレンマがあるんよ」
「グッズを作ったり絵をたくさん売ったりするには、それだけ事務処理や物理的な作業量も増えますもんね」
「うん、だから『修三さんならどうしたかな』って考えながらやってる。もう亡くなってるけれど、本人の意志に反することはしたくない。『広く手に渡って欲しい』って絵の値段を上げなかったくらいの人やからね。本当に凄い人だと思うからこそ、大切に大切にしていきたいんよね」
「修三さんをどう広めていくか?ってことを常に藤本さんたちが考えて行動してくれているんです。秋田出身ではないのにここまで関わってくれる人は、なかなかいないですよね」
「根っこには『秋田ってめちゃおもろいやん』ってシンプルな想いがあって。よそものだからこそやれることはあると思うし、『のんびり』で始めた『秋田に関わること』を、最後まできちんとやり遂げたい」
「なんだか藤本さん、『秋田』そのものを編集しているみたいですね。池田修三に関するプロジェクトは、アーティストから地元を盛り上げる、ひとつの理想の形な気がします」
「修三さんに出会えたのは、編集者として、神様からプレゼントをもらったような気持ち。だからこそ、『覚悟』をもってやるつもり」
「象潟を旅してみて、池田修三に藤本さんが惚れ込んだ理由がよくわかりました。僕も絵を家に飾りたくなっちゃいましたよ」
「僕も知ってもらえて嬉しいわ。そうや、柿次郎くん、起業祝いに修三さんの絵をプレゼントする!」
「えええ!!」
「修三さんの絵はそうやって贈ったり贈られたりするもんやから。僕は池田家のみなさんからいただいた絵があって、それがあれば十分やねん。だから地方を旅しながら、たまに画廊さんとかで修三さんの絵を見つけたときは、こうやって理解してくれる人にプレゼントするために買うようにしてるねん」
「ありがとうございます!やったー!!」
おわりに
後日、藤本さんから柿次郎の元に絵が届きました(羨ましい)。
今回の旅で強く感じたのは、池田修三が地元の人の「当たり前」になっていること。暮らしの一部であり、当たり前になりすぎたからこそ、池田修三の絵は一時は埋もれかけてしまったのかもしれません。
けれど、藤本さんにより大きな大きな「地元の魅力」として再発見され、ふたたび「大切な当たり前」として光が当てられることになりました。
地元のひとびとが池田修三の絵を見るときの、やさしいまなざし。それは、池田自身が人々へ与えたやさしさのお返しではないでしょうか。
そして、藤本さんのまなざしにも同じやさしさと、揺るぎない覚悟が宿っていました。「ローカル」に関わる上で忘れてはいけない大切なものを、今回の旅で学んだように思います。
ここで、私も池田修三の絵を見てみたい!という方にビッグなお知らせです。
3/24(金)〜30(木)、東京の「mAAch ecute 神田万世橋」で開催されるイベントにジモコロが出店。そのブース内で、池田修三のポストカードや画集などの関連グッズを販売、さらに原画も展示します。木版画の質感を生で観てみてください。
SHUZO IKEDA OFFICIAL SITE 『木版画家 池田修三』
書いた人:友光だんご
編集者/ライター。1989年岡山生まれ。Huuuu所属。犬とビールを見ると駆けだす。Facebook:友光 哲 / Twitter:@inutekina / 個人ブログ:友光だんご日記 / Mail: dango(a)huuuu.jp
写真:小林 直博
長野県奥信濃発のフリーペーパー『鶴と亀』で編集者兼フォトグラファーをやっている。1991年生まれ。ばあちゃん子。生まれ育った長野県飯山市を拠点に、奥信濃らしい生き方を目指し活動中。