はじめまして、バーグハンバーグバーグのかんちと申します。
いま僕は母校の前に来ています。
この校舎は僕が小学2年生の頃に新しく建てられたもので、今から24年前、僕たちは完成したばかりのピッカピカの校舎で小学校生活を送っていました。
しかし、この校舎は現在使われていません。
それはなぜか、僕の地元の今についてお伝えします!
かんち
株式会社バーグハンバーグバーグのWebディレクター。南相馬市小高区 出身で、中学卒業まで地元で過ごす。実家はガソリンスタンドを経営。
「ところでサムネイルの顔、立方体過ぎない?」
「立方体の形をしたスイカありますよね、四角い箱に入れて育てるやつ。あれと同じ仕組みで育てられました」
「どういう生い立ちだよ」
福島県の南相馬市小高区ってどんなところ?
「僕の地元は福島県の太平洋沿いにある、南相馬市の小高区という場所にあります」
「この地域は数年前まで全国的な知名度がほとんど無い、とても地味な田舎町だったんです」
「うん。全然知らなかった」
「といってもスーパーやコンビニも沢山ありますし、車を15分くらい走らせればショッピングモールもあって生活に不便は感じないんですよ」
「そこまでド田舎ってわけじゃないんだね」
「はい。しかも海も山も川もあって、自然が豊かなとてもいい場所なんです」
「そういやライターのヨッピーさんと相馬野馬追っていう1000年続くお祭りの取材もしたよね」
「はい。でもこのお祭りも全国的にみると知名度が低いんですよね。1000年も続いているのに……」
「そんな僕の地元が全国的に有名になる出来事が起こったんです」
「5年半前の……」
「はい。2011年に発生した東日本大震災と福島第一原発事故です。これを境に町の運命が一変することになりました」
「かんち君も被災したの?」
「いえ、僕はこの頃東京で生活していました。震災の当日は仕事が休みだったので、一日中テレビに張り付いてひたすら地元の状況を見守っていましたね」
東日本大震災時のかんちのツイート
ぷるぷる
— かんち (@zmukkuri) 2011年3月11日
家の色んな物が落ちまくった。こえー!
— かんち (@zmukkuri) 2011年3月11日
相馬の津波の被害がとんでもないことになってる。見た瞬間震えた。南相馬もこれくらい被害か…。
— かんち (@zmukkuri) 2011年3月11日
第一原子炉、半径20km避難指示って実家入ってるじゃん…。もう頼むから無事でいてくれ。
— かんち (@zmukkuri) 2011年3月12日
「徐々に冷静になっていくツイートが生々しい……。南相馬市の被害はどれくらいだったの?」
「ここは最大震度6弱の揺れを観測して、津波は9.3m以上の高さが襲ってきたらしいです。2016年3月時点で南相馬市の死者・行方不明者は1,125人だそうです」
「やっぱり被害が凄まじかったんだね」
「僕の身内に不幸は無かったのですが、中学の時に担任だった先生や同級生が亡くなりました」
「……」
「こういった情報は時間が経って落ち着いてきたから分かることですけど、震災直後の現地はやっぱり壮絶だったみたいですね。地震が来て、津波が来て、翌日には近くの原発が爆発したっていう情報が流れてきて……」
「東京にいても相当なパニックだったけど、そんなの話にならないくらいの混乱だったんだろうなぁ……」
「そうでしょうね。うちのばあちゃんは実家の庭にいて爆発音が聞こえてきたって言ってました」
「マジかよ」
「もちろんその時は、何の音かは分からなかったみたいですけど。その後すぐに、『原発が爆発したから逃げろ!』ということになって。家族や親戚みんな車に荷物を詰め込んで慌てて逃げたらしいです」
「あの頃はテレビやネットでも情報が錯綜していたけど、そこにいる人達もどこに逃げればいいのかなんて分からないだろうし、相当怖かっただろうなぁ」
「常に電話で連絡を取り合って、情報を集めながらとにかく遠くへ遠くへ逃げたと父親は言ってました。その時は携帯で通話しながら車の運転していても、警察は何も言わなかったそうです」
「そりゃそうだわ。避難最優先」
「その後は親戚の家や被災者を受け入れている旅館などを転々として、新潟に空き家を貸してくれる人が見つかり、状況が落ち着くまでの数カ月間はそこに住ませてもらったみたいです」
「他の住民もそんな感じで、みんな避難したってことよね?」
「そうですね。震災の翌日の3月12日夜には原発から20km圏内全てに『避難指示』が出され、その数週間後には震災の前はおよそ1万3千人弱いた南相馬市小高区の人口が、ゼロになりました」
震災から一カ月後の町の様子
「それから1カ月ほど経って、自分の地元がどうなっているのか知りたくなったので東京から帰省して避難指示区域の中に入ったんです」
「えっ?中に入れたの?」
「福島第一原発からちょうど20kmの地点に検問が敷かれていたんですけど、免許証を提示して、目的を伝えれば入れました。僕は親が避難時に持ち出せなかったものを取りに戻る時に、同伴して中に入りました」
「これは沿岸部の道路です。津波でえぐり取られていて前の風景が全く思い出せません。ある程度覚悟はしていましたが、やはり見覚えのある景色はそこにはありませんでしたね」
「これはかんち君の実家?」
「実家が経営するガソリンスタンドです。写真の左奥に写っているのは祖父母の自宅ですね」
「津波直撃したんだね」
「はい。なんとか建物は残りましたけど、瓦礫やヘドロが事務所に流れ込んで中にあった機器類や書類は全部ダメになっていました。ちなみに外に設置していた釣銭機の現金は避難の時に持ち出せなかったらしく、僕が見た時には何者かにバールでこじ開けられて、中は空っぽになっていました」
「えー!酷すぎる……」
「当時は避難指示区域内で空き巣等が多発しているというニュースをテレビで見ましたが、まさか本当に火事場泥棒のようなことをする人がいるのには悲しくなりました。もし今後犯人を見つけたらバールで釣銭機と同じ目に合わせてやります」
「やめろ」
「やります」
「これは……うわぁ…家がペシャンコだ」
「本震と繰り返される余震によって、このような潰れた家やお店はいたるところにありました」
「ちなみにこれは撮影していたら寄ってきた犬です。当時はこんな感じで町のあちこちに犬や猫がいました」
「避難先にペットを連れていけないし、鎖つけたままだったら餓死しちゃうって理由で逃したのかな?」
「おそらくそうでしょうね。放された動物の中には家畜の牛やダチョウまでいたそうで、当時、ネット上では『定点カメラにダチョウが映り込んだ!』とちょっとした騒ぎになりました」
「突然野良ダチョウにエンカウントしたらビックリするだろうな……」
「その後ダチョウは捕獲されたようです」
そんなかんじで「いつまた元に戻るんだろう。半年後くらいには避難指示解除されるかな?」なんて何の根拠もないこと考えながら、誰もいなくなったボロボロの町をパシャパシャとカメラに収めていました。
あれから5年4カ月
今年の2016年7月12日、南相馬市小高区のほぼ全域で避難指示が解除されたというニュースが入りました。
「5年半経ってようやくか……。町のみんなは戻ってきたのかな?」
「そこが気になって先日地元に帰ってきました!」
南相馬市小高区 の今
「車はそこそこ走っていましたが、ほとんどのお店はまだ営業再開していないので外を歩いている人はかなり少なかったです。あと動画の最後、道路の両側に何かがたくさん映ってましたよね」
「あれ何?のぼりみたいなのが並んでたけど」
「なんだろう?と思って車を降りてよく見てみると……」
「全て『おかえりなさい!』と書かれたのぼりでした。あまりに数が多かったので、正直ちょっとだけ『こわっ!』って思ってしまいました……」
「思うな」
「すみません。思っちゃいました。ついでにこの白い壁の中はどうなっているかというと……」
「こんな感じで津波で出た瓦礫や、除染作業によって回収された放射能汚染された土などが黒い袋に入れられ大量に並べられていました。この除染廃棄物を最終的にどこに置くかというのも課題になっています」
「また車で走っていると、道路の横にこのような看板もあちこちに設置されています。メッセージ性が強いので、見ていて気持ちのよいものではありませんが……」
「原発事故に対する住民の怒りが伝わってくるね……」
「これは住宅の解体?」
「はい。補助によって家の取り壊し費用が無償だったこともあり、地震のダメージを受けてそのまま5年以上経った家を取り壊している家庭も結構ありましたね。人が住まない家はすぐ傷むというのは本当のようです」
「みんな家を壊してるってこと?」
「いえ、うちの実家は避難指示期間中も定期的に戻って家の掃除をしていたので、そのまま住めますし、そういった家庭も多いです」
「取り壊さずにリフォームする家や、取り壊した後にもう一度そこに新しく家を建てる家庭もあります。中には更地にした土地に太陽光パネルを設置する家庭もありましたよ」
「なるほど。震災前は1万3千人弱が住んでいたって言ってたけど、今はどのくらいの人が戻っているんだろう?」
「市の ウェブサイト を見ると、2016年11月17日現在で967人がここで生活を再開しているようです」
「うーん、1割も戻ってないのかぁ。そんなもんなのかな?」
「いや、少ないと思いますね。しかも半数以上は高齢者と言います。その理由として、まだ小中高校が再開していないことや、スーパーなど買い物する場所がほとんど無いことが挙げられます」
「生活インフラがまだ整っていないってことかぁ」
「そうですね。でもこういった状況を悲観的な目で見るのではなく、チャンスと捉えて行動している人もいるんです。後日話を聞く機会ができたので、インタビューしてきました」
課題の数だけ仕事がある 小高ワーカーズベース 和田智行さん
株式会社小高ワーカーズベース 代表取締役 和田智行さん。「100の課題から100のビジネスを創造する」を企業理念にかかげ、地元の復興のために活動をする。1977年生まれ。
「はじめまして、よろしくお願いします。和田さんもここの出身なんですか?」
「はい、僕も小高生まれの小高育ちです!」
「一緒ですね!ずっと地元っ子だったのでしょうか?」
「いえ、大学進学のタイミングで地元を離れて、しばらく東京の会社でITエンジニアとして働いていました。その後、2005年にUターンして小高に戻ってきたんです。地元に戻ってきてもWeb系の仕事を続けていました」
「なるほど。それで小高に戻ってきて6年後に被災したんですね」
「はい。幸い私の家は地震や津波の被害はありませんでしたが、震災の翌日、原発がヤバいぞ!となり、避難指示が出る前に家族全員で自主的に逃げました。その後、避難場所を転々としながら妻の実家の青梅市に辿り着いたんです」
「車で避難したんですよね?僕も当時ガソリンスタンドで働いていたので記憶に残っているんですけど、当時ガソリンを手に入れるのって相当大変じゃなかったですか?」
「いやぁ、大変でした……。避難の途中、栃木県宇都宮市でガス欠になって立ち往生したんですね。そこで妻の実家に連絡して、青梅にある実家の車からホースを使ってガソリンを抜いて携行タンクに詰めてもらい、それを便利屋さんに頼んで青梅から宇都宮まで運んでもらったんです。時給2千円で」
「やっべ。車からガソリン抜くって終末世界だけの話かと思いました」
「でもそういう原発パニックエピソードは、避難した人全員にあると思いますよ」
「たしかに……僕の両親も当時の話はいろいろしてくれました。和田さんは避難後もITの仕事を続けていたんですか?」
「最初はそうですね。もともと東京の仕事をサテライトでやっていたので、避難で場所が変わっても仕事は続けられました。ただ震災後1年経った頃から、この仕事を続けることがしんどくなってきて……」
「ITエンジニアの仕事がですか?」
「はい。その頃はGREEやモバゲーなどソーシャルゲーム全盛期で、それに関する仕事をしていました。でもいくらシステム開発に時間を費やしても、この先どうなるのか、いつ地元に戻れるのか、という自分の中の先行き不透明感を一向に晴らすことはできなくて。それで2012年12月に仕事を辞めました」
「そこから地元の復興のために動き始めたんですね」
「最初は外から視察などで避難区域を訪れる方達をガイドしていました。そうして震災から2年が経った頃、他の被災地を見てみると岩手や宮城などは外部の支援や住民の努力によって少しずつ復興に向けて進み始めているのに、この地域は相変わらず住民がゼロで、全く前に進んでいなかったんです」
「うーん、人が住んでいるところを優先するのは仕方ないことですもんね」
「そもそも当時この地域には、復興のために活動する拠点すら無かったんです。そこで僕が小高ワーカーズベースを立ち上げて、避難区域内でもWi-Fiに接続して仕事が出来るコワーキングスペースを作りました。それがこの会社のスタートですね」
「へぇー、どんな人がコワーキングスペースを利用するんですか?」
「避難指示区域を取材しに来たライターの方が、そのままここで記事を書いていくことはよくありました。あとはスマホの速度制限かかってしまって、自宅にネット環境もない人が避難区域の外からわざわざここに助けを求めて来たり」
「なるほど。南相馬市全体で見てもフリーのWi-Fiスポット全然ありませんもんね。コワーキングスペース以外の活動ではどのようなことをされているんですか?」
「当時は営業している飲食店が1店舗も無かったので、作業員や地元の方が気軽にごはんを食べられるように2014年12月に食堂『おだかのひるごはん』をオープンしました。今年の3月に役目を終えて閉店しましたが、黒字営業だったんですよ(笑)」
「自宅の掃除とかで帰ってくる地元の人が結構多かったんでしょうね」
「そして今メインで運営しているのは、2015年9月にオープンして現在も営業中の『東町エンガワ商店』というスーパーです」
「いかにも仮設って感じの建物ですねー!」
「ここができた経緯は、地元の人から『お店がないと小高には戻れないよ』という声が市に多く寄せられていたのが始まりです。そこで市がこの仮設スーパーを作ったんですね。ただ、作ったはいいけど運営してくれる地元の企業がなかなか見つからなかったみたいで」
「なるほど。そこで小高ワーカーズベースが手を挙げたということですね」
「はい。さっきの食堂もそうですが、こういった商売は全くの素人なので成功するかどうかはやってみないと分からないですよね。僕の会社はまだ小さく、失うものは何も無かったので『是非うちにやらせてください』と言って運営を任されました」
「ところで、いまこちらに来ている原発関係の作業員の方々って全国から集められていますよね。正直コワモテな人が多いイメージなんですけど、店内でトラブルが起きたりとかありませんか……?」
「東町エンガワ商店で揉め事はオープンしてから今まで一度も無いです!地元の方も作業員の方も、皆さんとてもいい人です」
「おぉ!ちょっと安心しました」
今この場所に足りないこと
「今年の7月に小高は避難指示解除されて住めるようになりましたけど、今ここに足りないものってありますか?」
「やっぱり居酒屋みたいな人が集まってわいわいできる場所は出来て欲しいです。今は夜営業しているお店がお寿司屋さんしかないので、流石に毎日も通えないし……」
「たしかにお酒飲みながら情報交換する場所は、こういう所だからこそ必要ですね。ほかに娯楽施設もないですし。あ、娯楽といえば南相馬市周辺のパチンコ屋さんってどこも駐車場がいっぱいで繁盛してますよね……。これ以上言いませんけど、複雑な気持ちになります」
「実際、働かなくても賠償金で生活できちゃっているので、労働意欲が低下しているというのはこの地域が抱える大きな問題ですね」
「市内のコンビニに張り出されている求人募集のバイト時給が、震災前と比べて数百円上がってました。働ける・働きたい人が少ないのかなぁというのを僕はそれを見て感じました」
「このままだと、東京電力から賠償金や補償金をもらって余生を静かに過ごしたいと考える高齢者ばかりの町になるんじゃないかという懸念はあります」
「完全に悪い流れだ」
「僕はなんとかそれを断ち切りたいんです。大半の人は『そんなところで生活を再構築できるの?』という目で見ていると思うんですけど」
「人口がゼロになってますからね」
「でも見方によっては、人口がゼロからスタートして、これからどんどん人が増えていく可能性がある場所だと思っています。南相馬市小高区は避難指示解除から10年後に5~6千人にまで人口が回復する見込みで計画を作っていますし」
「震災前で1万3千人弱なので、約半分かぁ」
「それだけを見れば、10年経っても元の半分かと思われるかもしれません。でも一度人口がゼロになったことを考えれば、10年でゼロから6千人に町が急拡大すると考えられるのではないでしょうか」
「たしかに『6千人の移住者』と考えたらすごい規模だわ」
「今あるどの町も、元々原野だったところを開拓したところから始まっています。そしてそこに『自分も住みたい』という人たちが集まって一つの町になった。それと同じようなプロセスが、この日本という成熟した国でできるのはこの区域でしかないと思うんです」
「そう考えるとワクワクしますね」
「この町はスタート時点で解決すべき課題が山ほどあって、ひとつひとつ対応していくことで今後人口が増えていくはず。人口が増えればおのずとニーズも増えていき、仕事のチャンスも増えていきます」
「ってことはつまり、100の課題があれば100の仕事が生まれるってことですね!」
「それはうちの会社のキャッチコピーなんで、いま自分が思いついたみたいに言わないでください」
「すみません」
「小高ワーカーズベースは今年6月に新たにガラス工房の運営も始めました。コーヒーの耐熱ガラスで有名なHARIOのガラスアクセサリーの加工や販売をしています」
「現状、働く場所が少ないこの地域でこうやって働く場所が増えていくのはとてもいいことですね」
「この町はまさにリアルシムシティなんです。一度リセットされてゼロになったこの場所を、みんなの力で住みよい町に作り上げていきたい、そう思っています」
最後に和田さんに「次の目標は?」と聞くと、「来年の春に小・中・高校が再開するので、みんなが安心して通学でき、そしてみんなのたまり場になるような場所を作りたい」と語っていました。
僕の通っていた校舎も来年には生徒が戻ってきて、ここで授業が再開される予定です。こうして少しずつ町としての機能を取り戻し始めたこの南相馬市小高区。
多くの課題を解決しながら10年後には6千人の人口を目指すこのシムシティみたいな町に興味がある方は、まずは足を運んでみてはいかがでしょうか。ここにはたくさんの可能性が眠っているはずです!
取材協力:株式会社 小高ワーカーズベース
ライター:かんち
株式会社バーグハンバーグバーグ所属。
胸板が厚いので隙間に挟まって動けなくなることもしばしば。
Twitter:@zmukkuri