こんにちは、ライターの根岸達朗です。
数年前にブロガーのイケダハヤトさんが、自身のブログのタイトルを「まだ東京で消耗してるの?」に変更し、地方移住しました。当時も今も「東京=消耗」という視点に賛否の声はあるけれど、事実「消耗している人もいる」のが東京という街です。
満員電車に揺られ、身を粉にして働き、疲れ果てて家に帰るだけの毎日。何のために働いているのかわからない。何のために生きているのかわからない。夢や憧れが詰まったはずの都会で、目には見えない現代の妖怪「消耗のバケモノ」に食い尽くされそうになっている人があまりにも多いと僕は感じています。
実はその答えを導くためのヒントが、最近読んだこの一冊のなかにありました。
著者の高橋さんは1974年、岩手県生まれ。岩手県議会議員を務めていましたが、社会のひずみが露呈したとも言える2011年の東日本大震災を機に、岩手県知事選に出馬。
被災地270キロを徒歩で遊説するという魂の選挙戦を展開し、惜しくも次点で落選しました。その後事業家として食べ物付き情報誌「東北食べる通信」を創刊。現在はその編集長を務めています。
『東北食べる通信』は、東北の生産者が育てた食べものを、その食べものが育った背景も見える形で消費者に届けるというもの。講読料を支払うと、毎月東北の一次産業の現場を取材した大型紙と、野菜や魚などの生産物がセットで届くという仕組みになっています。
2016年9月時点で、全国36カ所の土地から「◯◯食べる通信」が誕生。所縁のある土地を知るきっかけとして広がっているようです
生産者と消費者はSNSで双方向に結ばれ、イベントなどのリアルの場でも交流を深められるようになっているのも特徴のひとつ。消費者と生産者が親戚付き合いのような深い関係性に発展しているケースもあるそうで、なかには収穫が思うように進まない生産者からの呼びかけで、全国から数百人もの購読者が自腹で現地まで手助けにいくといった「小さな奇跡」も生まれたというから驚かされます。
高橋さんが、この新しいメディアとでも言うべき『東北食べる通信』でやろうとしているのは、現代の「生産者と消費者の分断された関係」を人間の根源的な活動である「食」を通じてつなぎあわせること。
食べものの裏側をすべて丸見えにすることで、消費者と生産者、都市と地方が混ざり合う、新しい社会の形をつくろうとしています。
本書は『東北食べる通信』というこれまでになかった仕組みを生み出した高橋さんが、大都市の消費地などで命を持て余す都市住民の苦悩や、顔の見えない相手に食べ物を作り続けてきた生産者の消耗など、震災後の5年間で見聞きしてきたことをまとめ、そこから導き出された思考をぎゅっと凝縮して詰め込んだもの。現代人の「消耗」を生み出す要因としての、
「大量消費社会」への戦いとでも言うべき一冊なのです。
こういうテーマは説教くさくなってしまいがちで、伝えるのがむずかしいことはわかっています。でも、誰にとっても大切な「食」と向き合い、魂を込めた活動をしてきた高橋さんが、今この時代に警鐘を鳴らしていることについて、もっとみんなで考えてみたい。ジモコロ的にもかなりチャレンジングな内容ですが、僭越ながら筆を取らせていただいた次第です。ぜひ最後まで読んでみてください。
前置きが長くなりましたが前編は、都会に巣食う「消耗のバケモノ」の正体について。「食べる通信」の読者でもある柿次郎編集長を通じて、高橋さんに話を聞かせてもらいました。
●登場人物
東北食べる通信を立ち上げた偉い人。元岩手県議員。旅人のように全国各地を巡って、その土地の老若男女の声を聞き続けている。
フリーライター。1児の父。東京生まれ東京育ち。多摩地域に居を構えて、都心と地方のバランスについて日々考えている。
ジモコロ編集長。上京して約7年。東京に出てきたおかげで何とか頑張れているが、都会の生活にやや疲れがち。地方の魅力に気づいてきた。
走り続けることをやめられない社会
「今日はよろしくお願いします。まずは、単刀直入に聞かせてください。『消耗のバケモノ』っているんですか?」
「うーん。むずかしいんですけど、強いて言うなら……」
自分のなかにいます。
「自分のなかにいる」
「はい。バケモノを探してどこにも見当たらないっていうか。結局、自分自身が求めてきた豊かさが逆説的だけど自分を苦しめているという、現代人のジレンマですね」
「豊かになろうとしてきたことが、裏目に出ている?」
「はい。資本主義社会というのは、走り続けることをやめたら途端に倒れる仕組みになっています。だから、求め続け、走り続けなくちゃいけない。でも、求めたら奪わなくちゃいけないし、今を犠牲にして生きなければいけない。家族と過ごす時間、好きなことに費やす時間、健康を維持するための時間とかも犠牲にして」
「確かに都会生活って、めっちゃ疲れますよね。満員電車も異常だし。いろんな人に出会える利点は確実にあるとは思うんですけど……」
「すべてが過剰でついていけないところがありますよね。それでもみんな頑張ってるんだけど、そもそもが何かを犠牲にしないと成り立たない社会の仕組みになっているから、どうしてもしんどいという」
「お二人ともなかなか消耗してますね(笑)。人類が生まれてから、拡大成長っていうのは基本的な考え方として常にありました。広げていけばいいんだ、増やしていけばいいんだということで僕らはずっとやってきたわけです。でも広げていく生き方っていうのは、必ず何かを犠牲にしないといけない。自然環境もそう。自分の体もそう。本当にそれでいいのかってことなんですよね」
「あれ?って思った人たちは、きっとそれを無意識的か意識的かは分からないけど感じていて、虚無感を抱いたりするのかもしれません」
「現代人が陥る『消耗』の一因にはなっているでしょうね。僕は、都会生活者の仕事における虚無感の背景は、いくつかの型に分けられると思っています」
都会の仕事における『虚無感の分類』(書籍本文より一部抜粋)
◆存在意義喪失型
仕事が細分化されて、自分は巨大なプロジェクトの駒のひとつでしかないと感じる。自分がこの仕事に携わる必要性が感じられない。
◆やりがい喪失型
パソコンの前でひたすら数字だけを追っていて、実態に触れたり現場を経験したりすることがないので、自分が何をやっているのかわからなくなる。
◆正義希求型
自分がやっている仕事は自然や他者を搾取した上に成り立っていることに気づき、後ろめたさを感じる。
「思い当たる節、あります?」
「……ありますね」
「これって、どれも食べていくことが精一杯の発展途上国ではありえない悩みです。豊かな社会を実現したがゆえの成人病みたいなものです」
「なるほど。今はそうやって消耗しきった人たちが、揺り戻しのように、地方移住とか自然回帰という流れに向かっているように思います。多分、高橋さんの本で言うところの『ふるさと難民』の人に多いのかもしれないのですが」
「はい。僕は人間のふるさとって、命を育む『土』と『海』のことだと思うんです。だから『土』と『海』から離れてしまった生活をしている人のことを、僕は『ふるさと難民』と言っています。田舎のあるなしは関係ないんです」
「これって都会の人に特に多いとは思うんですが、地方都市に暮らしていても働き方、暮らし方次第ではそうなるというか、都会に限った話ではないですよね?」
「そうですね。地方にも『ふるさと難民』はいます。自然から離れすぎてしまった人はみんなそうでしょうね。でも、そこで考えてみてほしいのですが、人間って自然の一部じゃないですか」
「人間は自然の一部」
「はい。私たちは本来的に自然の一部で、それ以上でもそれ以下でもないですよね。何千年もそうやって生きてきて、近代化で自然と離れたのはここ数十年の話。だから自然のなかにいて、自然に寄り添って生きるのが、一番自然な形なんです」
「確かに、単純に自然のなかにいるだけで気持ちいい〜って思います」
「音楽フェスに人が集まるのも自然が気持ちいいからですよね」
「そうなんですよね。でも、そうやって気持ちいいと感じさせてくれたり、恵も与えてくれる一方で、人の命を奪うような災害も起こす。それが自然です」
「日本は特にそういう厳しい自然とともに生きてきた土地柄でもありますよね」
「はい。でも、現代社会はどうにかして自然をコントロールしようとしてきました。自然を排除して、コントロールして、思い通りにならないのはいやって感じで。でも、それって無理なんですよ。そこにひずみが生まれてる」
「人間が自然をどうにかできると思ってはいけないけど、都会にいるとそれを忘れてしまう、考えさせないようにしてしまうところがあるような気がします」
「いろいろ考えちゃうな〜!」
都会の方が一見「自由」に見える罠
「ただ僕は都会をすべて否定しているわけじゃありません。利便性を追求してきた都会は、買い物や飲食をしようと思えばありとあらゆる店がそろい、時間帯も気にせずに欲求を満たすことができる。医療も充実しているから、いざというときの安心感もある。これらは今なお、人が都会に魅了される理由のひとつにもなっているでしょう」
「確かにクルマが生活必需品にならざるを得ない田舎暮らしとは違った、ある種の快適さはありますよね。人も多いからそれだけチャンスの多い場所でもあると思いますし」
「はい。ただ、都会はそういった便利さを得た一方で、自由を無くしてしまった。自由っていうのは本来、自分の力で生きることです。でも、都市の消費社会は生きる根っこを誰かに押さえられている状態。みんな自分で食べ物をつくることなく、顔の見えない誰かがつくった食べ物を食べている。だから、いざというときに自分の力ではどうにもできなくなってしまったんです」
「それでいうと、5年前の震災をすぐに思い出しますよね。物流が止まって、街から食べ物が消えたときは、みんなものすごく不安そうだった。都市の仕組みがいかに脆くてヤバいかっていう」
「生活のなかに生きる根っこを持たないということは、極端な話、何かあったら死ぬということです。でも、田舎はまだ根っこの一部を自分たちの手から離していません。その点では僕は田舎のほうが自由で、安心感があると思うんです」
「難しいことはよくわかんないですが、目の前にある都会的な生活を否定して、それ以外を考えることって大変ですよね」
「実際、根っこを持たないことに『不安』を感じるような人はみんな地方に向かっていますし、それに気付くかどうかは大きいんだと思います。なにより都会の暮らしではお金で物質的な穴埋めをするしかなくて、その結果『消耗』を招いているような気もしていて」
「しかも、その物質も満たされ尽くしました。今はほとんど余白がないのに、企業はなくてもいいものに無理やり価値をつけてモノを売ろうとしています」
「確かに『こんなのいる?』っていうものでも売らなければいけないっていうか。ひどい話、売ってる方も『いらなくね?』って思いながら売ってる可能性ありますよね」
「基本的に消費社会っていうのは、広告とデザインの力で耐用年数が残ってるものを捨てさせるんです。それを突き詰めていった結果、余白がなくなって、こんな飽食の時代なのに『食えない』なんて話にもなるのです」
「消費社会にがんじがらめにされている……? 実際、消費社会の外側に出ようとしているような食べ物や商品を選ぼうとすると、都会はものすごくコストがかかる。一方で大手コンビニの食料品はクオリティが上がる一方で、値段も安い。消費者がついそれを選択してしまうのもわかる気がしています」
「実際、セブンイレブンの惣菜はめっちゃ美味い」
「見方によっては物質的な豊かさが極まって、次のステージになっていると言ってもいいのかもしれません。でも、そうなるとやはり新しい病にもかかるわけで」
「新しい病。それは昔と今では『消耗』の形も違うということですか?」
「そうですね。たとえば高度経済成長の時代は、今を犠牲にしてでも物質的に満たされていくことで、便利になったし、それで豊かさを感じられた。未来があったんですよね。でも、今はそうじゃない」
「今の社会って日本人にとって未体験ゾーンの領域に突入しすぎているというか、それに対して適応障害を起こしてるような状況なんでしょうね。今こそ『自分はどう生きるか』ということを考えなくちゃいけない……」
>「太陽浴びるとか、風を感じるとか、土に触れるとか。異常にハードル高く感じちゃいますよね」
「そうですね。僕はまず、極端に離れてしまった『自然』と接続し直すことが大切だと思っています。人間が土と海から離れたのって、長い歴史から見たらそう昔の話じゃないですから、もう一度、やればいいんです」
「極端かもしれないけど、都会のマンションのベランダにプランターを置いて野菜育ててみるだけでも違う気がしますよね。家で発酵食品を仕込むのも『自然』と接続することだと思っているし、僕はそんなんでだいぶ都会でもリラックスした生き方できるようになったので」
「根岸さん、発酵おじさん化して表情変わりましたからね。あるんでしょう。自然との接続という点では、都会と地方の一次産業の現場をつなぐ『食べる通信』がまさに取り組んでいることですよね」
「そうですね。僕は都会にも地方にも暮らして、どちらの良いところも具合の悪いところも見てきました。だから今こそ双方のいいとこ取りをしたい。それは『食』を通じて『都市と地方をかきまぜる』ことで実現すると思っています」
「否定」の世代と「希望」の世代
「僕は現代の『消耗』が適応障害のようなものだとするなら、自然と接点を持つと同時に、自分の生き方を見つめ直すというか、それなりに重めのマインドセットが個人レベルで必要になってくるなあと思うんですよね」
「そうですね。僕も同じだったんですが、今の30〜40代くらいの人たちっていうのは、一回自分の生き方を否定しないといけない世代だと思います」
「自分よりも上の世代から刷り込まれてきた部分がすごく大きいっていうか……」
「それはありますね。物質的な豊かさを求める社会の価値観にまみれているから、そこにひずみが生じている今の時代に消耗するんでしょう。価値変化の境目で揺れる世代です」
「じゃあ、見方を変えて、今の10代20代の若い世代はどうでしょうか?」
「僕は議員時代から『車座座談会』という取り組みをやって、多世代の声を聞き続けてきましたが、若い世代は旧来の価値観に凝り固まってないし、世の中を見る目も冷静だなあと。だから、希望なんですよね」
「若者たちは希望」
「そうですね。若者たちのなかには、地球環境のことを考え、今の消費社会に疑問を抱いて、素直に自分のできることから行動している人もいます。そうした人が今の成熟した社会から生まれているというのが微かな希望なんですよ」
「確かに、現代の大量消費社会をどうするか、ということを考えたら、地球大統領みたいな人がいないと無理なんじゃないかという気がしてきます。小さくても一人ひとりができることをやっていくって大事ですよね」
「僕はそのときに一人ひとりが北風じゃなくて、太陽になるといいと思っています。何かを『すべき』と声をあげても世の中は変わらない。だから自分が輝く。その連鎖を広げていく。実際、今の大量消費社会の外に出ようとする生き方の方が、圧倒的に楽しいんですよ」
まとめ
都会人が消耗している理由はひとつではないけれど、それが今の自分の生き方、考え方にあると思えれば、あとは「自分を変えるだけ」。
自分が消耗する理由を、電車が混んでるから、上司が使えないから、世の中の仕組みが腐ってるからとか、自分以外の何かのせいにするのは簡単だけど、それじゃ結局何も変わらないんですよね。
今を変えたいのなら、まず自分が変わる。
遠く離れてしまった自然を受け入れ、自分が気持ちいいと思える生き方を、自分のなかからつくっていくことができれば、きっと少しずつ自分も、周りも良くなっていくんでしょう。
もはやどうにもならないほど大量消費社会が巨大化している今だからこそ、「敵は我にあり」の精神で「消耗のバケモノ」に向き合っていく。都会と地方をしなやかに繋ぎ合わせる知性と行動力もまた、これからの時代にはますます求められていくのかもしれません。
ちなみに冒頭でご紹介した高橋さんの本、 ものすごくいいことが書いてあるんですが、新書ということもあり、本屋さんの書棚に残っていけるかどうかは、あと数日の売れ行き次第だそうです。
現代の大量消費社会に一石を投じている本が、大量消費社会に飲み込まれていくという凄まじい状況ですが、もし興味あれば高橋さんの本、買ってみてください。
中身の濃さは保証します。
書いた人:根岸達朗
東京生まれ東京育ちのローカルライター。ニュータウンの端っこで子育てしながら、毎日ぬかみそをひっくり返してます。メール:negishi.tatsuro@gmail.com、Twitter ID:@onceagain74/Facebook:根岸達朗