こんにちは。日向です。
本日は石ノ森章太郎が愛した街、宮城県石巻市からお届けします。
石巻駅から歩くこと約10分。ここは市内初となるクラフトビールの醸造所「ISHINOMAKI HOP WORKS」。
2022年の7月にできたばかりということもあり、銀ピカに輝く真新しい機械がうんうんと音を立てて稼働しています。
そして、目の前にいる小柄な女性は、この場所を運営する元レーサーの高橋由佳さん。13年前、モトクロスの練習中に大事故を経験。手術した左足にはいまも金属製のプレートが入っているのだそう。
で、その由佳さんにいま伺っているのは、不登校や引きこもりの若者たちが社会復帰するのに、農作業がいかに有効か、という話。
ちなみに、この醸造所はもともと、コアな映画ファンには知られた老舗ポルノ映画館だったとか。
……のっけから情報量多め。「またとっ散らかった取材を……」と呆れた人もいるかもしれません。でも仕方がない。これらの話はすべてつながった一つの物語なのだから。
大怪我を負って“レース”は終了かと思いきや、由佳さんの人生はむしろここから加速していきます。支援の枠組みからこぼれ落ちる若者たちを助けるべく、40代にして突如起業。多くの人を巻き込みながら、いまも「福祉のオフロード」を爆走中なんです。
聞けば聞くほど、アクセルは踏みっぱなし。「人生はレースである」とはよく耳にする喩えだけれど、この人に聞けば、その本当の意味を窺い知ることができるのかも。
まずは僕ら一般人からするとあまり想像のつかない、レーサー時代の話から聞いてみることにしましょう。
スタートすればすべてを忘れる生粋のレーサー
レーサー時代の由佳さん(由佳さんご提供)
「由佳さんはもともとレーサーだったと聞いたんですけど、本当ですか?」
「そうそう。新卒で二輪メーカーに入社して。そこでカートのドライバーをしていたの」
「レーサーってどうすればなれるものなんでしょうか?」
「私の場合、もともとは一般職で、たまたま配属されたのがモータースポーツ課だったんです。仙台市の南にある村田町のサーキットで、主にレースの運営の仕事に携わっていました」
「最初はレースを運営する側だった」
「それがある時、女性のドライバーを増やす販促活動の一環として、女性だけで構成されたレーシングチームを組むことになって。その際に上司から『お前がドライバーだ』と指名されたんですよ。1年間限定のはずが、レースの魅力にすっかりハマってしまってね。チームの解散後も続けたいと思った私は、なんとかスポンサーの協賛を取り付けて、企業のワークスドライバーになったの」
「もともとモータースポーツはお好きだったんですか?」
「バイク乗りだった父の影響でね。小さいころに連れて行ってもらったサーカスでアクロバットショーを見て、一気に魅了されてしまって。いまではありとあらゆるモータースポーツが好き。夏はジェットスキー、冬はスノーモービルにも乗りますよ」
「すごい! そこまでのめり込むモータースポーツの魅力って?」
「うーん……改めて聞かれると難しいですね。レースに臨む時も毎回『これで最後にしよう』と思っていたくらいだし。スタートのシグナルを聞くのは、すごく嫌な瞬間なんです。『私はちゃんと走れるだろうか』『無事帰ってこられるだろうか』と恐怖、緊張感、不安感でいっぱいになる。でも、ひとたびスタートを切ってしまうと、すべて忘れてしまうんですよ。目の前の車を一台ずつ抜いて、最終的に一番になること以外は頭から消えてしまう」
「なるほど、生粋のレーサー気質。天職に就いたんですね」
「本当にそう。当時はバブル全盛で、お金がたくさんあった時代。スポンサーもいっぱいついたし、鈴鹿でF-1GPを開催すれば、24万人が詰めかけた。一番華やかな時代にやらせてもらって、とても幸せだったと思う」
事故、手術、2年のリハビリ。しかし人生は加速
「そこまで好きなレースの仕事を辞めて、なぜ福祉の道に?」
「20代で石巻の方と結婚して、一度は専業主婦になったの。離婚して教育関係の仕事に再就職するんですけど、そこで引きこもりや不登校など、社会と接点が少なかったり、心の病を抱えた若者とたくさん出会ってね」
「ふむふむ」
「それまではレースという逞しく華やかな世界にいたから、世の中には社会的弱者と呼ばれる人がこんなにもいるのかと驚かされて」
「確かにギャップがすごかったでしょうね」
「それでいくつかの資格を取って、福祉の世界へと転職。障害者のジョブコーチや、精神科病院でアウトリーチの仕事などをしていました。ただ、自分で起業するなんてことは、まったく考えていなかったんですよ」
「でも結果としてNPO法人Switchを立ち上げることになったのはどうして?」
「怪我をしたことが大きかったですね。ワークスドライバーを辞めた後も趣味でモトクロスをしていたんですけど、ある日、練習中に大転倒してしまったんです。放り出された自分の体にバイクが降ってきて、左足が下敷きに」
「うわぁ、聞いてるだけで痛い!」
「救急車で病院へ運ばれ、即手術することになりました。診断は大腿骨の粉砕骨折。左足にはいまも金属製のプレートが入っていて、それを11本のボルトで固定しているんです。膝は少ししか曲がらないし、右足より3センチ短い」
当時のレントゲン写真。プレートとボルトの影がハッキリ映る(由佳さんご提供)
「3か月の入院を経て、退院してからもしばらくは車椅子生活。リハビリは2年続きました。当然、仕事も辞めざるを得なかった。それまでの私は支援する側にいたわけですけど、人はいつ当事者側になってもおかしくないんだと思い知りました」
「なるほど……。相当ショックだったのでは?」
「さすがに塞ぎ込んだ時期もありましたね。でも家に引きこもってネットを見ていたら、ある大学生が子どもの学習支援のためにNPO法人を設立した、という記事をたまたま読んだんです。一生懸命に頑張っている若者の姿を見て、私もいつまでも落ち込んでいる場合ではない。やれることがあるはずだと思った」
「何がそこまで由佳さんを奮い立たせたのでしょうか?」
「私はこれまでの経験から、社会的弱者と呼ばれる人の中には既存の支援の仕組みからこぼれ落ちてしまう人がたくさんいることを知っていましたから。そういう若者を支援したいと思って立ち上げたのがNPO法人Switchです」
「大怪我をして立ち止まるのではなく、前に進む原動力になった」
「そう。怪我をしていなかったら、起業することはなかったんじゃないかな。いまもそのまま、病院でワーカーの仕事を続けていたかもしれない」
農作業に見出した人を回復させる力
「しかし、そこから先が一層わからない。2016年にはNPO法人Switchから分社してイシノマキ・ファームを立ち上げ。さらに今回は醸造所。どうつながっていくんですか?」
「Switchを立ち上げたのは2011年3月。その9日後に東日本大震災が起きたんです。状況としては、何はともあれ被災地支援。私も南三陸や石巻にボランティアに通いました。その中で、震災の翌年に、石巻が児童・生徒の不登校率で全国ワーストになったという記事を見ました」
「被災の体験が影響しているのは容易に想像できますね……」
「私は結婚していた時に11年間石巻で暮らしていましたから、当時お世話になった人たちへの恩返しがしたかった。それで石巻に若者の就学・就労支援の事業所を立ち上げることにしました。そのリハビリプログラムの一環で農作業をしていたことが、のちのイシノマキ・ファームの活動につながっていきます」
「どうつながったのでしょうか?」
「一言でいうと、農作業のすごい力を実感したんです」
「企業でジョブコーチをしていた時代には、一度仕事に就いてもなかなか定着せずに辞めてしまう当事者をたくさん見てきました。当事者でなくても、会社に行くのが嫌だなと感じる朝は誰にでもあるじゃないですか」
「めっちゃありますね……」
「でも、リハビリに農作業を取り入れてみたところ、引きこもりだった若者たちが、なぜか休まず通ってくれたんです。それだけでなく、地域の皆さんと笑顔で声を掛け合って作業に精を出して。その様子を見ているうちに、土とか農作業には、人をリカバリする力があるのではないかと思うようになりました」
「それが農作業の持つすごい力」
「ええ。それで、農業×ソーシャルファーム(※)という軸で本格的に活動してみようと思い、立ち上げたのがイシノマキ・ファームです。心身に不調を抱え、就労が困難な人と共に農作業し、社会とのつながりを取り戻すきっかけにしてもらっています」
※自律的な経済活動を行いながら、障害者あるいは労働市場で不利な立場にある人々に対して、仕事の場を創出する企業や団体を指す。
イシノマキファームが拠点を構える宮城県石巻市北上町。震災の影響で耕作放棄地となった畑を活用
「農作業にリカバリの力があるのはなぜだと思いますか?」
「そうねえ……やっぱり農作業にはバックグラウンドが関係ないからじゃないかしら。いかに上手に畑を耕すか。限られた時間でどれだけサツマイモを収穫できるか。そういう同じ目標に向かう仲間になりやすい気がします」
「なるほど。同じ仲間に」
「心の病を抱えた若者の多くは、後天的に障害を持った“中途障害者”です。ある日突然『障害者』というレッテルを貼られ、世の中からは受け入れてもらえず、孤立感や孤独感に苛まれている」
「だから私たちが目指していることは『障害者雇用』だけではないんですよね。どんなバックグラウンドの人でも線を引くことなく、同一条件・同一賃金のごちゃ混ぜで働く場を作りたかった。いわゆるダイバーシティ・エクイティ&インクルージョンなんです」
「日本では当事者と健常者というかたちで何かと線引きがされますよね。そうではなく、みんな同じ目的に向かって進む仲間になれることが大事。それがしやすいのが農業だったと」
「なおかつ、自分で植えた種から芽が出て、食物ができて、収穫したものを食べておいしさを味わえる。そういうわかりやすく大きな達成感を1年というスパンで得られるのは、企業の中で働くだけではなかなかないんじゃないでしょうか」
「仰るとおりですね」
「とは言え、いまはまだ理想に向かう前段階。いきなり雇用契約を結ぶのではなく、週に1回3時間程度の農作業をして、訓練日当を受け取り、収穫物を持って帰るという『働くことの疑似体験』をしてもらっています」
「ゆくゆくは正社員雇用も視野に入れていると」
「そうですね。そのためにはまず、補助金や助成金などに頼ることなくしっかりと経済活動を行い、稼いだお金を再投資できる仕組みを構築しなければと思って頑張っています」
人生はレース。レースはチーム。チームは信頼
ビールの原料となるホップ
「なるほど、だからソーシャルファーム、そして農業なんですね。……あれ、でもちょっと待ってください。この醸造所は? ビールの話は一向に出てこない」
「きっかけはたまたま知り合いからホップの株を預かったことでした。試しに植えてみたらどんどん育つ。調べていくと、アルツハイマー予防や安眠などの効果もあり、6次産業化に向いているのでは?と思った。収穫作業をみんなの働く場にすることもできそうだし、これはいいと思って本格的に栽培を始めました」
「ほう。ビールありきではなく、ホップありきで始まったんですね」
「そう。栽培したホップを使ってさまざまな商品を作りました。そのうちの一つがクラフトビール。初めは外部の醸造所に製造を委託していたのですが、その仕組みでは収益化に限界がある。いつか自分たちでブリュワリーを立ち上げられたらとは考えつつも、資金面で思い切れずにいたんです」
「これだけの醸造所を作ろうと思ったら数千万円はくだらないはずですよね」
「そんな時に知り合いから、ここの映画館が売りに出ていると知らされました。石巻に残る、最後の映画館。買い手がつかなかったら解体されるという話も耳にして。それで実際にいろいろ見ているうちに気持ちが盛り上がって『ここにブリュワリーを作る!』と思ってしまったんです」
「ええー、急展開!」
「天井は十分に高いから施設も置けるし、歴史ある建物を残すこともできる。でも、そのためには資金調達をしなければならない。『必ず集めますから!』と言って、不動産屋さんに半年間待ってもらって。補助金と借入金とでなんとかめどが立ち、先に進むことができました」
「聞いたところ、ビールはすごく人気で、毎回できた途端に完売だそうですね」
「本当にありがたいことですよね。みんな石巻初のクラフトビールということで期待してくれたようで。いまはまだ一度の生産量も限られていますが、ゆくゆくは安定生産できるようにしたいと思っています。収益が上がれば、ここでも本格的に雇用できますから」
定番の巻風シリーズはエール・IPA・WHEATの三種類
「畑だけでなく、醸造所もごちゃ混ぜで働く場にできたらいいと。それにしても、由佳さんはなぜそんなに次から次へと新しいことに挑戦できるんですか?」
「うーん、なんでだろう……。でも、アイデンティティはいまもレースにありますね。ここ何年かで改めて『私はずっとレースをやっているんだ』と思うようになりました」
「いまもレースを。どういうことですか?」
「レースはチーム。そしてチームは信頼なんです。レーシングチーム時代、私はドライバーだったから、とにかく1位を取ることしか考えていませんでした。でも、その裏側ではピットクルーが徹夜でマシンを仕上げてくれていた。
彼らは私であれば優勝してくれると信じているから頑張れる。私も彼らを信頼していなければマシンに身を預けられない。チームは信頼関係なしには成立しないんです」
「優れたドライバーはみな思慮深く、チームを大事にしていました。セナもプロストも、みんなそう。夜遅くまで仲間と話し合って、試行錯誤を繰り返してマシンを作り上げていました。最終的にはチームの力なんですよ」
「それがいまにも通じているということ?」
「そう。それこそブリュワリーができたのも、不動産屋さんが半年間待っていてくれたおかげ。何の実績もない私が何千万円もお金を貸してもらえたのも、銀行の融資担当者が理解ある人だったからで。
ブリュワーの岡さんだってそうです。すごく経験のある方ですけど、まだ醸造所もない段階で転職を決断してくれて。本当に関係性に恵まれてここまできている。私の力ではないんです。私はただアクセルを踏んでいるだけ」
岡恭平さん。宮城県内のビアレストランとして名高い『仙南シンケンファクトリー』で腕を磨いた後、由佳さんの誘いで醸造長に着任
「まさにチーム。きっと由佳さんはみんなを突き動かすドライバーなんですね」
チェッカーフラッグが振られるまで諦めない
映写室に残る当時のフィルム
「ところでレースには競争相手が付き物。『人生はレース』というからには、誰かと競い合っている意識もある?」
「そういう意味で言えば、私のエネルギーになっているのは全部反骨精神です。私たちとなんら変わらない能力を持った彼らが、ただ障害があるからというだけの理由で、最低賃金以下で雇われている。そんなのっておかしいと思いませんか? 」
「制度の歪みとも言えますね」
「私のやろうとすることに反対する人もいっぱいいました。『農業なんて、やったことない人ができるものではない』とか。『精神障害者は身体障害や知的障害と違って安定して働けない』とか差別するような言葉があった。でもその度に、『やってみなければわからないだろう』という反骨心で乗り越えてきました」
「ガソリンは反骨心。やってみなければわからないと言うのは簡単ですけど、由佳さんは本当にその姿勢を貫いているからすごいなあ」
「レースというのは本当に、チェッカーフラッグが振られるまで勝負がわからないものなんですよ。途中で雨が降ってきたら、素早くレインタイヤに交換しなければ、いくらマシンの性能が良くてもスピンする。前を行く車に突然、マシントラブルが降りかかることだってあります。遅い人にだって優勝できるチャンスはあるんです」
「だから私は何をするにも諦めないし、何事もやってみないとわからないと思っている。どんな人も見た目で判断しないというのもそう。私はいつだって可能性を信じてやってみたい。これはレースを通じて培った哲学なんだと思います」
「なるほど、それが由佳さんの行動原理なんですね。良く伝わりました。ちなみに普段の日常生活でレーサーの血が騒いだりはしないんですか?それこそ運転とか」
「ふふふ。いたって安全運転ですよ。このあと駅まで送って差し上げましょうか?」
「(目が笑ってない)。い、いえ!大丈夫です!!今日はありがとうございました!!!」
取材を終えて
取材中、終始笑顔で受け答えしてくれた由佳さん。
写真を見返してみて、たった一枚も深刻な表情が残っていないあたりにも、その人柄が現れているように感じます。
だからこそ、彼女を突き動かす原動力が「反骨心」であると聞いて、少し驚きました。でも、その精神があったからこそ、周りの批判を恐れず、アクセル全開で突き進むことができたのでしょう。
レースに限らず、人生は想定外の出来事が連続します。
そういった苦難を乗り越えて、何かを成し遂げるのには、自分を信じる「強さ」と同時に、仲間を信じる「優しさ」が必要なのかもしれません。
彼女の笑顔にはその2つが内包されているように見えました。
「レースはチーム、チームは信頼」
人生はしばしばレースに喩えられますが、今回の取材を経て、その言葉の真意がよく分かったような気がします。
構成:鈴木陸夫
写真:本永創太
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