困った状況に陥った時、あなたは真っ先に何を考えますか?
「あの人に相談しよう」なのか、「自分で何とかできないか?」なのか。僕は後者です。もともと人に頼るのが下手な自覚があって、悩みを他人に打ち明けるのも、どうにも苦手。
だけど先日、とある人の話を聞いて、衝撃を受けました。
「助けられるのは、恥ずかしいことじゃない」
その人は30代でアルコール依存症になり、働けなくなりました。そして生活保護を受けることに。でも、その経験を通して、むしろ「助けられるのは、恥ずかしいことじゃない」と気づけたといいます。
そして、そんな風に思えたのは、周りにいた「障害のある人たち」のおかげだった、と。
彼の名前は、高浜敏之さん。日本ではまだ知名度の低い「重度訪問介護」のサービスを全国44都道府県に展開する「株式会社土屋」の代表です。
2020年8月に設立された株式会社土屋は現在、従業員数は1400名超、年商は50億円。介護業界の課題である待遇改善に取り組み、業界の平均年収が370万円なのに対し、現在の会社の平均年収は約410万円。業界でも注目される企業です。
自身も一時は「他人に助けられないと生きていけない」状態へと陥った高浜さんは、いかにして現在へと至ったのか。波乱万丈な高浜さんの人生を通じて、「助けられるのは、恥ずかしいことじゃない」理由をお伝えしたいと思います。
「病院や施設じゃなく、家で暮らしたい」を叶える
株式会社土屋があるのは、岡山県の西側に位置する「井原(いばら)市」。人口約3.8万人ほどの自然豊かな街で、最近ではお笑いコンビ「千鳥」ノブさんの地元としても知られています。
井原市の中心部にある、株式会社土屋のオフィス。全国に展開する企業の本社と聞いて、立派なビルを想像していたのですが……?
ここ??? 住所ではこの建物の2階になってるけど、だいぶ小ぢんまりとしてるな?
玄関前まで来たら、看板がありました。どうやら合ってるみたいです。
恐る恐る入ってみると、社長の高浜さんが出迎えてくれました。
「ようこそ、はるばる井原へ」
「いきなり恐縮なんですが、本当にここが本社なんですか? 社員さんも数人しかいらっしゃらなかったですけど」
「本社です。コロナ禍で完全リモートになったので、私もここへ来るのは週に1、2回くらい。ちなみに家賃は5万円です」
「5万!」
「本社スタッフは100人くらいいるので、全員が出勤してたらとても広さが足りませんけど、いまは99%オンラインのやりとりなので」
「あ、ほぼ社員の皆さんは出社してないんですね。恥ずかしながら、今回の取材にあたって『重度訪問介護』というものを初めて知りまして。重い障害を持った方の自宅へ伺って、ケアを提供するサービスなんですよね」
「はい、だから広い施設も必要ないんです。『重度訪問介護』は2006年にはじまった国の公的な制度ですが、残念なことにまだ認知度が低いんですよ」
「対象となるのは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)や筋ジストロフィーといった難病、または脳性まひ、脊髄損傷、強度行動障害などで24時間の介護を必要とする方。現在、約600名の方が弊社のサービスを利用されています」
「自宅へお邪魔して、食事やトイレ、入浴など、身の回りのお手伝いをしているわけですね」
「重度の障害を持たれている方は、『たん』の吸引(『喀痰吸引』)など、資格が必要な医療ケアも必要とされています。そのため自社で研修を行い、医療ケアの資格を持ったスタッフがお伺いしています。大泉洋さん主演の『こんな夜更けにバナナかよ』って映画をご存知ないですか?」
「あ、観たことがあります。筋ジストロフィーを患って首と手しか動かない主人公が、『自分らしく自宅で暮らしたい!』とボランティアに支えられながら、自分の思う人生を全うし、彼を支える人たちもまた主人公を通して成長していく話ですよね」
「24時間のケアが必要な重い障害を持った方は、専門施設や病院に入るケースも多い。ただし、そこにはプライベートがなかったり、『自分らしく生きる』ことからは遠かったりするわけです」
「『こんな夜更けにバナナかよ』でも、主人公がボランティアスタッフの女性に恋をしたり、みんなで旅行へ行ったりする場面がありましたね」
「あの作品で描かれたボランティアによるケアが、のちに国の制度として、有償のスタッフによって提供されるようになったのが重度訪問介護サービスなんです。どちらも『重い障害があっても、自分らしく自由に生きたい』という想いに寄り添い、実現を手伝うという点では共通していますね」
「なるほど。高浜さんが介護の会社をつくったのも、そんな風に『障害のある人を助けたい』と思ったから?」
「それもあるけど、いろんな理由がありますね。まずは……」
「お父さ〜ん!!!」
「おお、来たのか。こっちこっち!」
「!!??」
「こんにちは〜」
「娘です」
「パパ〜」
「(後ろから妹さんも)」
「ちょうど家族が会社に遊びに来たんですけど、せっかくなので一緒にいいですか? あ、妻の大山景子です」
「すみません、突然。いいんですか……?」
「ご家族同席のインタビューは初めてですけど、面白そうなので。続けましょう」
死をリアルに感じていた少年期
「で、どこまで話しましたっけ……。そうそう、高浜さんが介護の道に入ったきっかけでした」
「順を追って話すと、子ども時代はケンカばっかりしてたんです。1970年代初頭の生まれで、いわゆる校内暴力世代。『ビー・バップ・ハイスクール』の世界ですよね」
「というと、高浜さんもヤンキーだったんですか?」
「ヤンキーではないけれど、中学時代はケンカで前歯が全部なくなりました」
「十分やんちゃですね、それは。ちょっとパパが怖い話してるから、耳塞いでおこうか」
娘さんの前で強烈な話をする高浜さん。怖い話は聞いてないのでセーフです!
「ボクシングをやっていた父の影響で『男は強くなければ駄目だ』と思っていたんです。そういう時代の雰囲気もありましたし。勉強は得意なほうだったんですが、サラリーマンになるのも格好よくない気がして。それで高校を出たあと、ボクシングジムに入りました」
「ボクサーの道を選んだんですね」
「一時は本気でプロを目指したんですが、結局は挫折しまして。そのあと上智大学へ入って、やっぱりボクシングを再開するんだけど、またダメだ、となっちゃった。それで23、24の時に慶應大学文学部の哲学科へ入るわけです」
「ずいぶん行ったり来たりがあったんですね」
「今思うと、アイデンティティが散らばってたんですよね。いろんな迷いがあって」
「哲学科に行ったのはなぜだったんですか?」
「親父が文学青年だったんですよ。子ども時代、家族4人が四畳半で暮らしてたんですが、親父が酔っ払うと『お前ら集まれ』なんて言って、カミュの『異邦人』とか椎名麟三の『深夜の酒宴』とかを朗読する」
「すごい世界観だ。絵本とかじゃないんですね」
「まだ小さくて、当然内容もほぼわかりません。でも、そうやって親父が朗読するのを聞いて育ったせいか、高校生くらいから自然と文学が面白くなって。いろんな本も読むようになりました」
「つまり高浜さんの思春期は、ケンカと文学の日々だったんですね」
「小さな声に耳を傾ける」福祉の世界へ
「妻は大学時代の同級生なんですけど、介護の道を志したのも、彼女に薦めてもらった本がひとつのきっかけなんです」
「なんと。ちなみに大学時代の高浜さんってどんな印象でした?」
「現役生の私たちよりも年上なので、お兄さん枠の人というか、ちょっとオーラが違う感じで。私も世間知らずだったので、格好よく見えてしまいましたね」
「大学生のときの先輩補正ってありますよね」
「夫はすごく苦学生だったんですけど、勉強熱心で。よく一緒に喫茶店に行って、哲学の話をしたりしてました。そこである時、鷲田清一さんの『〈聴く〉ことの力』を薦めたんです」
被災地や病院など、さまざまなケアと痛みをめぐる現場において思考を重ねた一冊。著者の鷲田清一さんは医療や介護、教育の現場に哲学の思考をつなぐ「臨床哲学」を提唱した人物でもある
「当時は親父がガンになって、大学を休学して働いていた頃で。心がカサカサの砂漠みたいになってたから、余計に沁みました。そこで福祉の仕事に興味が湧いて、重度訪問介護の仕事を初めてやるんですけど、すごく手応えがあったんです」
「手応え、ですか」
「それまでもいくつか仕事をやってきて、『自分がやっていることって、本当に意味があるのか?』と疑問が湧く瞬間があった。でも、福祉の仕事はそうじゃなかったんです」
「もう少し詳しく聞きたいです」
「例えば頚椎損傷の方の介護に入っていると、排便障害があるので漏れてしまうことがある。でも、その人は『普通にトイレに行きたい』とオムツを拒否している。ベットはうんちで汚れるし、臭いもすごい。それを二人で協力しながらきれいにする。大変だけど、終わると相手も自分もすごくホッとするわけです」
「自分がそこにいなければ、その人はうんちまみれのまま過ごしていたかもしれない。でも、自分がいたから静かな時間が訪れた。その感じに『これだ!』と思ったんです」
「確かに自分が誰かの役に立っている、という実感があったと」
「人間関係においても、介護する側とされる側が一対一になって向き合うわけです。人と人が向き合うと、当然すごい葛藤が生まれることもある。でも、それを一緒に超えていくプロセスって、すごく濃いものになるんですよ」
「利用者の方と向き合い、人間対人間の関係をつくっていく。他のサービス業とは、また違った濃さがありそうですね」
「人への興味は元々あったんですけど、『他者の生きづらさ』へ関心が変化するにつれ、『自分の生きづらさ』を乗り越えていくきっかけにもなりました」
「……めちゃくちゃいい話なんですけど、娘さんが取材同席に飽きてきちゃったみたいですね」
「そうですね(笑)。お外行くかい?」
「行く!」
「娘は妻に任せて、私たちもちょっと移動しましょうか。近くに好きな場所があるんです」
助けられるのは恥ずかしいことじゃない
高浜さんの車で移動しながら、インタビューを続けます
「介護の仕事をはじめたのと同じ頃に、『障害者運動』の世界に入るんです。日本では元々、障害者の方たちが自分たちで声を上げて、世の中へ訴えかけて社会の形を変えてきた歴史があるんですね」
「重度訪問介護の制度もその一つですよね。ボランティアに支えられていたものが、国の制度になった」
「最初は東京都の制度になって、それが全国に広がり、法整備されて国の制度にまでなったんです。そこには、声を上げた障害者をはじめとする人たちがいた。私は障害者運動を知ったときに感動したんです。こっちの闘いのほうがかっこいいなと」
「それはボクシングと比べて、ですか?」
「そうそう。人を殴って倒す闘いより、声を上げて社会のあり方を変えて、人を幸せにする闘いのほうがいいじゃんと思ったんです」
「その二つが繋がったのもすごいですね」
「闘いにはずっと憧れてたんでしょうね。それから重度訪問介護の仕事と、障害者運動と、二足の草鞋を始めました」
「かなりお忙しかったのでは?」
「親父がガンだったから、扶養もしなきゃいけなくて。ダブルワーク、トリプルワークとなると、ストレスも溜まって酒も深まる。するとある時ドカーンとなって、病院へ行ったら『アルコール依存症です』と」
「それから働けなくなって、依存症患者向けのリハビリ通いです。アルコール依存症って、復帰率が20%以下、平均寿命が52歳と結構深刻な病なんですよ。私はたまたま症状が軽かったのと、幸い生きることに絶望してなかったので。2年半で復帰できました」
「それは、福祉という仕事を見つけていたから?」
「そうですね。だから私はだいぶ浅瀬で引き上げられたと思いますよ。働けない間は生活保護も受けていたんですけど、当時の私にとって、それがむしろ価値観を変えるきっかけにもなりましたし」
「もう少し詳しく伺いたいです」
「私が当時いた障害者運動の世界では、みんな生活保護を受けていて、自分だけが受けていなかった。そこでは、私のほうが社会的マイノリティだったんです。でも、やっと同じ土俵に立てたと感じられました」
「なるほど。それがどのように価値観の変化を?」
「当時の障害者運動は『弱いことがいいこと、強いことが悪いこと』のように、価値を逆転させることで自分たちの意味を見出すようなところがあったんです。ずっと小さい頃から『男は強くないといけない。自分の弱みを見せちゃいけない』と思っていた。でも、そういう価値観から解放された決定的な要因は、障害者運動でした」
「人の助けを借りながら生きることが『当たり前』な人たちのなかで、高浜さんの『当たり前』も逆転した、ということですね」
「弱みを見せられないって、すごく苦しいことですから。今振り返ると、文学や哲学も、自分自身を縛っているものの捉え方から自由になるために求めていた気がします」
「『男なら強くなければいけない』『人に弱みを見せてはいけない』とか、気づかないうちに何かの価値観に囚われてしまっていることがある。高浜さんは色んな経験を通じて、そうしたものから解放されて、今があるんですね」
「そうだと思いますね。さ、着きました」
高浜さんお気に入りの自然公園『天神峡(てんじんきょう)』。東京が地元の高浜さんだが、妻の大山景子さんの地元・井原市に、第1子の誕生を機に移住。自然豊かな井原で、仕事と家庭が近い暮らしを楽しんでいるそう
「自立」よりも、「自律」を目指す
「誰しも、突然の事故や病気で重い障害を持ってしまう可能性がありますよね。それこそ自分や家族がそうなった場合に、重度訪問介護のサービスはすごく助けになりそうだと感じました」
「そう思って、普及に取り組んでいます。日本は元々、『家族のことは、家族で面倒を見る』という意識が強いほうだと思うんですよね。地方では特にそうで」
「誰かに助けを求めることへの抵抗もあるのかな? と思います」
「日本の障害者運動は、そういう『家族のことは家族で』みたいな意識を変革していく一つのムーブメントだったと思います。遡っていくと、障害のある人の面倒を家族で見ていた時代が長かったわけです。ただし高度経済成長期以降、核家族化が進むと『ケア力(りょく)』みたいなものも弱くなる」
「一人ひとりの負担が大きくなる?」
「家族の人数が減っていくわけなので、無理が生じてくる。実際、60~70年代には障害のある子どもを親が殺してしまう事件も多発した結果、家族会が声を上げて、国が障害者向けの施設をつくっていった歴史があるんです」
「家族だけで面倒を見るんじゃなく、専門の施設で面倒を見てもらおうと。それはそれで大切だと思うんですけど……そうか、序盤で仰っていた『当事者が自分らしく生きられるのか』って問題が出てくるのか」
「はい。もちろん現在はちゃんとした施設がほとんどですが、それこそ昔は野戦病院みたいに広い部屋にベッドが並んでいたような場所もあったと聞きます。そんな中で、当事者の方たちが人権を求めて外へ飛び出していったと」
「みんな、『自立』と『依存』の二項対立で考えてしまいがちだと思うんです。助けを借りずに生きる『自立』か、誰かの助けを借りる『依存』か。でも、その二つの間に『自律』があるんです」
「自律と自立は、どう違うんでしょう?」
「自律は、平たく言えば『自分でやることは自分が決める。自分ができないのだったら、他人の手を借りてでもやる』ということです。障害福祉の分野では、特にこの『自律』の支援が重視されているんです」
「まず『自分の人生に主体性を持つ』ことに主軸が置かれている、ってことでしょうか」
「そうですね。だから『病院ではなく、家で暮らしたい』と思うなら、誰かの手を借りて実現してもいいんです」
「いま、なんとなく『人に頼らず、自分のことは自分でしなくてはいけない』って空気感もあるように感じています。『自助』とか『自己責任』みたいな言葉を聞く機会が増えているような」
「今に始まったことではないと思いますよ。15年ほど前にアルコール依存症の治療中だったとき、自殺対策の取り組みをしているグループに参加していたんです。そこで驚いたのが、当時の自殺者の70%が40代以上の男性だったんですよ」
「その世代の男性は、家族を持って、家族のために働いている場合が多い。つまり自分の力でやっていかなければならない、という脅迫観念が強いんです。その結果、追い詰められてしまうケースは多いと思うんですよ。いまは問題の質も変化していて、女性の自殺者の割合も増えてきていますが」
「『見えない貧困』が、コロナで特に加速しているって話も聞きますね。昔よりいっそう、助けがないと生きられない人も増えている」
「まずは意識のレベルで『助けを受ける』ことへの否定的バイアスから自由になることが、生存戦略のひとつになるんです。私もアル中になった時に『生活保護や人の助けを受けるなんてとんでもない』と思っていたら、もうこの世にはいないかもしれないですし」
「そうか、そうですよね」
「助けを受けることによってしか生きられない人と一緒にいたので、助けを否定したら、自分の仲間全員の存在を否定することになっちゃいますからね。でも、そう思えてよかったと思いますよ」
「助けを求める人がいて、その人たちに応える。高浜さんのやっているのは、まさにそんな仕事なわけですよね」
「そこに応えることが、誰かの生存にも関わります。他に重度訪問介護の全国的なサービスを提供している会社がありませんから、インフラのように、潰れてはいけない会社だとも思っています。志を持った同業者は、増えて欲しいですけどね」
「そのほうが重度訪問介護自体の知名度も上がっていきそうですよね」
「まだ新しい制度だし、高齢者介護に比べて対象者も少ないため、医療関係者の間ですら知名度が低いので」
「『重度訪問介護』のサービスを普及させていくことは、『助けを受けていい』というメッセージを広めることでもありますよね。それって『社会を変えること』とも言えると思うんですが、高浜さんには、そういう気持ちがありますか?」
「それしかないです。困っている人が助けを求めた時に、その助けにスムーズにアクセスできるような社会になってほしい。うちの会社も、まだまだ人手不足で依頼の1/3くらいにしか答えられていない。重度訪問介護の認知を広めて、まずはサポーターになりたいという人がアクセスしやすい環境をつくっていきたいです」
おわりに
「強くなければいけない」と拳を握った10代から、「助けを受けて誇らしい」とまで心を開いた30代へ。そしていま、40代になった高浜さんは家族に囲まれ、穏やかな表情で、瞳の奥には「社会を変える」ための炎を燃やしていました。
重度訪問介護が普及することは、障害の有無にかかわらず、大きな意味を持つように感じます。それは、誰もが自分らしく生きることができ、その実現のためなら「助けを受けていい」と自然に思える社会になる、ということ。
自分を縛ると、他人にも厳しくなってしまう。もちろん、そこから生まれる強さもあると思います。けれども高浜さんのように「弱さ」を肯定する強さもある、と気づくことができた取材でした。
撮影:草加和輝
編集:くいしん